Flower Flowers 8
鳥の声があんまり賑やかで目を覚ました。明かりの差す窓に背を向けて体を丸め、眩しさから逃げるように布団に顔を押し付けて、その感触に漸く化野は覚醒し、眼鏡を手探りしながら呟く。
…え…。ここ、どこ…。
口の中で極小さく言った直後、聞こえるような声で言わなくてよかったと、彼は思った。眼鏡をかけて、やっとはっきり見えた視界に、たった今、丁度部屋から出ていく老人の姿があったからだ。
「目ぇ覚めたかい。朝飯食べな。大した飯じゃぁねぇけどな」
「あ…っ。す、すみませんっ」
飛び起きて、布団を片付けるのが先か、それとも食事をすぐした方がいいのかと、一瞬迷った。とりあえず大急ぎで布団を折り畳み、部屋の隅の方へと少しばかり押しやって、化野は髪を撫でつけながら隣室を覗く。
座卓に出された食事は一人分。味噌汁と焼いた魚と漬物と、少し多いのではと思うくらいに、茶碗に盛ったご飯。老人の姿は屋内になかったが、流しで顔を洗わせて貰い、化野は一人で食卓に着いた。老人はきっと、既に済ませた後だろう。洗い終えた茶碗が洗い籠に伏せてあったのを見た。
「頂きます」
手を合わせ、急いでそれを残さず食べて、家の周りに老人の姿を探すと、積み上げてある枯れた枝を小束にまとめている姿が見えた。老人はすぐに化野に気付き、ひょい、と顔を上げる。少しばかり顔色は悪いが、辛そうな様子はなく。だから化野はあえて体調のことなど問わなかった。
医者にあるまじき、だな、と思いはするが、今ここで問う気にはなれなかったのだ。
「飯ぃ済んだかい、足りたかね」
「あ、充分です。すみません夕べから色々。御馳走様でした」
「ん? そうかい? 夕べは俺の握り飯を、たった一個分けただけだったからな」
束ねた枝の一つ二つを、家の壁に寄せかけるように積んであるそれらの上に乗せ、老人は首に掛けた手拭いで手を拭きながら、化野の前を通り過ぎる。
「急かすようで悪いが、今から駅へ送ってく。始発はまだまだ先だが、畑をやらんといかんで」
「はい、すみません、お願いします」
着ているシャツも、腕に持った上着もよれよれだったが、そんなことを気にしても仕方がない。家の裏へと呼ばれ、大きな木の下に停めてある軽トラックの助手席に乗り込み、老人の慣れた運転で狭い土の道を走り出した。
昨日、山を回り込むと言っていただろうか。トラックは長々と、山と平地の間を進む。多分、今目の前に広がっている草の原は、殆どが元は田畑だったのだろう。ところどころに、打ち捨てられて壊れた小屋や、錆びて傾いて放置された車両が見えた。
此処は、人の住んでいた跡なのだ。田舎ではあっても、きっと豊かで穏やかな日常を、人々はここで過ごしていた。微かな風が吹くたびに揺らぐ、名前もわからない雑草の波が、きらきらと葉先を光らせて…。
「き…」
綺麗ですね。そう言い掛けた言葉が、何故か喉奥で絡まって出てこなかった。老人は気付いただろうけれど、何も言わずに前を向いていた。もう来るなとも、彼は言わない。それが少し不思議だった。医者の化野は老人にとって、此処から自分を引き離そうとする存在だろうに。
「ススキ、凄かったろう」
昨日、段々と日の傾く空の下、広い広いススキ野原を見た。あぁ、あれも本当に綺麗だった。口には出さないまま、化野はただ軽く顎を引くように頷いて見せる。
「もう少しするとな、この」
老人は片手をハンドルから離して、いっぱいに開けてある窓からその腕を外へと広げた。目の前に広がる山の曲線を、そちらを向かずとも分かるように、ゆっくりとなぞる。
「山並が、北側からじわじわ紅葉してくよ。以前はもっとなぁ…」
もっと凄かった、もっときれいだったんだ、と、続けようとした言葉が途切れて、ガタ、と、トラックが道の溝で跳ねた。老人の片腕はトラックの窓から外へ出たまま、抉れたように山の無い部分をも、そっと撫でてからぶらりと力を失った。
「あの…すみません…」
「んん?」
「ここで、下りたら駅までは遠いですか?」
「…いいや、歩いて30分掛からんだろう。あんたの足だともっと近いか。ゆっくり言っても始発まではたっぷり時間が余るだろうよ」
きゅ、と唇を引き結んで、化野はシートベルトに手を掛けた。彼が何を言うつもりなのか、もう老人には伝わっている。スピードがゆるゆると落とされ、道脇の木が影を落とす場所へとトラックは停められた。
「あんた、ここが気に入ったかい?」
深い目で老人は聞いた。何かを堪えたような口元が、堪え切れずに少しだけ笑んだ形になったことに気付く。それが嬉しくて、はい、と木漏れ日で顔を斑にしながら、化野は言った。
走り去るトラックが、少し遠くなるまで見送って、木陰の中で化野はぐるりを見回す。空気が綺麗だ。排気ガスの匂いが消えると、ますますそれを感じた。緩い風の中に、目に見えて澄んだ水が含まれているような気がしてくる。草の匂いはきついぐらいだが、それがまた心地いい。
ところどころに朽ちた家があって、その人の居ない崩れた形に心が揺れそうになったが、深いことなど何も知らない自分が、それを傷むのは少しだけ違う気がする。
「草の色も、空も、風も」
もう秋を迎えて、枯れ朽ちていく植物の姿までをも、綺麗だと思った。暫くゆっくりと進んで、始発の時間をはっきりとは知らないことに気付いて、少しばかり歩くのを早くしつつ進んでいくと、風の音しか聞こえない中、突然彼は遠くから呼ばれた。
「あ、あんた…っ。先生ぇ…っ」
声のした方を振り向くと、そこだけ畑に開かれた真ん中から、彼へと向けて突進してくる姿がある。昨日道を教えてくれた人だった。畑仕事の最中だったのを、道具を放り出して走ってくる。化野は彼女が少し近くまで来るのを待って、軽く会釈した。
「ま、まだ居るなんて…っ。あ、あたしゃてっきり、途中で…引き返したもんだ、と…」
目の前に立った彼女の声が、段々と小さくなって、彼女は化野の顔を見れずに項垂れたのだ。
「ゴメンねぇ…。大変だったろう? 送ってあげればよかった…」
「いえ、そんな。ちゃんと着けましたし。昨日は一晩泊めて頂いて、さっき其処まで車で送ってきて貰ったんです。これから始発で帰ろうと思って」
「あ、そ、そうなのかい? 野宿じゃなかったなら、そりゃ…よかったけどさ。…そうだっ、始発に乗るんなら話は後だよ」
手をぐいぐいと引かれ、畑の横に停めてあったライトバンに乗せられた。まさか急がないといけないぐらい始発の時間が近いのかと、遠慮も出来ずにいると、化野は駅近くの女の家に連れていかれたのだ。
「さ、下りて。畑仕事の後に入ろうと思って、お風呂を立ててあるから丁度良かった。汗流してっとくれ、いい男が台無しだ。着替えも貸したげるよ」
「えっ、まさかそんなわけには」
「いいからさせとくれ。罪滅ぼしだ」
「罪…」
また手を引かれ、家に案内されながら、こちらを見ないままの彼女の言葉を、化野は聞いた。
「…あたしはさ、じいさんの具合診て欲しかったけど、診て欲しくなかった。だって診ちまったら、どうしたって連れてくだろ? じいさん、おっきな病院に入院になるんだろう?」
あぁ。
それだけで分かった。不親切が過ぎた道案内。さっき化野を見て夕べの話を聞くなり、暗く陰った顔。彼女にとって化野は、老人を助けてくれる人であると同時に、ここから遠く引き離すかもしれない人、だったのだ。
「まだ、分かりません。でも、ここは空気がとても綺麗だから」
ここからあの老人を引き離したくない、自分ももうそう思ってしまっているなんて、言えはしないが、病人にとってもここはいい環境だと、嘘でもあり、本当でもあることを化野は言った。女は化野の顔をまじまじと見て、土で汚れた前掛けの、それでも少しは綺麗なところを探して目元をぬぐった。
「お風呂、ぬるかったら言っておくれねぇ」
言いながら背中を向けて、彼女は奥の部屋の箪笥の抽斗を引いて、化野にどの服を貸そうかと迷い始めたようだった。
大きな紙袋を一つ下げたなりで、駅を出た途端に化野は声を掛けられた。自転車のハンドルに手を掛けて、走り出す直前のイサザにである。籠にも後ろの荷台にも沢山の荷物を載せて、きっと今からチラシ配りのバイトに向かうところだ。
「あ、化野先生、だよね? びっくり。いつもとあんまり違うからさ」
言いながら自転車を押して近付いてきて、化野の下げている紙袋の中身を見て首を傾げる。
「どうしたの? 山で遭難でもした帰り? にしてはさっぱりしてるみたいだけどさ」
観察眼に舌を巻きながら、化野は差しさわりの無いところだけを答える。
「往診に言ってたんだけどね。行ったことのないところで、近道だと思って山を抜けようとしたら、案外遠くて夜になって…。往診先の家に一晩停めて貰ったんだ。イサザ君はこれからチラシのバイト?」
「そうだけど。それって…鳥渡里のこと? あそこ行ってたんだ」
ふ、っと、懐かしむような顔をしたのは、気のせいだろうか。そんな一瞬の表情だけで、問い質そうとは思わないが、イサザのその時の様子が、化野の心の何処かにひっかかった。
「いいところだったよ」
「そう…? ならよかった。俺バイト行かなきゃ。じゃあね、先生、また今度っ」
カシャン、とスタンドを跳ね上げて、イサザは軽やかに自転車を操って遠ざかっていく。そういえば、ギンコが戻ってないかどうか、聞かなかった。一瞬そう思ったが、これからいったん家に戻って、午後からは仕事に出なければならないから、化野も急ぎ足で歩き出す。
疲れている筈だったが、あまり感じない。彼の目の奥には、ススキの金色や草の美しい緑や、夜半に見上げた星空が残っていて、それを思い出しただけで、気持ちが安らぐ気がした。
続
ギンコをちゃんと出す前に、イサザが出て来ました。ずっと彼のこと書いてなかったけど、どうやら元気でやってるようです。化野先生も元気だし、ギンコも…まぁ多分元気だ。人に想われ自然の中で許されて、少しずつでも心が癒えてくれるように祈る。
っていうか、きっと、かなり立ち直っているんだ、立ち直りたくないようだけどさっオリキャラ爺さんが思ったより深い人で、困ったな、タイトルのフラワーズなシーンが中々書けない。長くなるかもしれません。
お付き合いいただけたら嬉しいですっ。あぁ、いつもいつも長い…。でも書くの今回かなり楽しかったです。自然の表情が好きだーv
27/07/26
