Flower Flowers 7
目的の家を見つけてもいないのに、日は落ちてしまった。周りには当たり前のように街灯ひとつなく、このままここで夜になったらどうなるのかと、流石に怖くなってきて、それまで考えてもみなかったことすら頭を過る。
「熊、とか、居るんだろうか、ここらへん」
傍らの草が僅かに揺れただけで息が止まって、きょろきょろとよそ見をしながら進むものだから、また何かに躓いて転んで…。そうしたら視野が変わったことが幸いして、やっとそれが目に入ったのだ。木の枝や葉の向こうにかすかに見える、あれは多分、家の屋根?
気付いてすぐ、化野は一心にそちらへ向けて進み始めた。足元などもう半ば見えなくなっていて、だから道のあるなしには関係なく、ただその家の方へ、家の方へ。
「その先、行っちゃ危ねぇ」
「ぅ、わ…ッ」
気配も足音も気付いていなくて、いきなり掛けられたその声に、化野は随分と驚いた。その声の主は、言うと同時に腕を伸ばし、化野のズボンの腰をむずと掴んで引き止めたのだ。
「浅いが、崖みてぇになってるから」
しわがれた、声。背も腰も曲がってはいないが、年老いた…。つまりはこの人がと、化野はそう思った。
「す、すみません…道に迷って。実は…」
「道にって? こんなとこでかい? まぁ、いい。うち寄ってけ。駅まで道、教えたって、こう暗くちゃ歩けやせんだろう」
言いながら、その老人の口元がにやり、笑う。
「山の暗がりは濃い。街からきたお医者の先生なんか、すぐに飲んじまうよ」
「…あ……」
「そうなんだろ? 七夕町のだったか。ここんとこ、診て貰えー診て貰えーって、やいやいうるさいのがいたもんでな。頼んだとは聞いとったが、まさかこんなとこまで足ぃ運ぶとはね」
暇なのかい? お前さん。と、老人は化野の腕を掴んで引きながら言う。老人の足取りは速く、化野は引かれるままに歩くのが精いっぱいだった。細かい枝や葉が肩をかすめ、頬にまで触れるから、開いている片手で防ぎながら必死に進む。
「ひ、ま…ってことは、ない、ですがっ。今日は…っ、休み、なので…っ。一度、足だけ…っ、運ばせていただいて、っと…」
「噂通りの先生なんだねぇ、でも病院にはいかんよ。俺は何処にもいかん」
頑固な物言いではなく、さらりと語られた言葉に、化野もまた静かに思う。怒声と共に嫌がる患者よりも、こういう患者の方が実は何倍も手強い。そして腕を引いてくれ前を歩く老人の姿に、化野はもう幾つかを感じ取っていた。
僅かだが左に傾く体。
足の踏み出し方も片側だけ歪んでいる。
そして、
少し痰の絡んだような声。
「…居られるのなら、ずっと居たいところにいていいと、私は思います」
そう言った時、もう化野は老人の家の中に案内されていて、目の前に茶と握り飯をひとつ出されつつ、化野がそう言うと、老人はひたと彼を見て、またにいやり、と。
「あんた…若いのに中々、手強そうだね。ま、遠慮せず食いなよ」
「…私も、手強そうだなと、今」
笑みながら握り飯を頬張る化野を眺め、くく、と老人は今度は声立てて笑った。
「ってことは、一応説得しようって思ってはいるわけだ。ま、来るな寄るなって叩き出す気は俺にはねぇから、今日はここに泊まっていきな。朝んなったら軽トラで山ぁ回り込んで駅まで送ってやる」
自分の分の茶と飯を終えて、老人は奥の間に立っていく。開いた襖の向こう、押し入れから布団を引っ張り出す姿を見て、慌てて化野が手伝いに行く。日頃使って無さそうなその布団が、化野の為のものだと気付いたからだ。
「すみません、私がやりますっ」
「おう、そうかい? しまいっぱなしで湿気てるから、早いとこ出しとかねぇと。っ、痛ってて…っ」
「大丈夫ですか…!?」
「…いや、まぁ、いつもの…ことだ」
けれど、老人は腰を押さえてそのままそこに蹲る。手できつく押さえているのは左腰だ。体を丸めて震え出し、額に汗を浮かべて息を深く、静かに繰り返して。既に回復を待つ態になっていた。
老人はもうこの症状に、随分と慣れている。そしてそれは、かなり進行している可能性が高いと言うことでもあるのだ。
「よくあるんですね、こういうことが。…なるべく力を抜いて下さい。息をもっと、ずっと深く、深くして。難しいでしょうが、痛み以外のものに少しでも気を逸らすように。例えば、好きなもののことを考えて」
「う…。…す、好き、な…? あんた、面白いこと、言う…ねぇ」
「そうですか? 人の体は複雑だけれど、その一方で単純なんです。一つの体で、いっぺんに色んなことを感じ取るのは、生き物なら多分みんな下手だ」
老人は化野に腰をさすられながら、疲れ切ったように少し体を緩めて、それでも痛みに苛まれ、ぽつり、ぽつりと何かを呟いている。朦朧とした眼差しには、何かに焦がれるような表情がうっすらと浮かんでいた。
この老人のことを何も分からないのに、化野の胸は痛くなる。
「きれい、だったんだ…。そりゃあ、本当にうつくしかった。とうとうと流れる澄んだ水が、川縁の緑をいつも映して、ずっと、ずうっと。俺のひいじいさんの時代から、いや、もっと前から、ちいとも変わらずに、なぁ」
「今も、ここは美しいです」
「…そうかい? けどなぁ、ここは、変わってしまったんだ」
ダム建設の為に切り崩され、自然のままだった姿を失い、建設計画とん挫のせいで、壊されたままに、放置された土地。古くからここに住まう人々にしか、分からない感情があることぐらい、化野にも想像できる。
「でも、美しいと思いました…」
痛みが引くと共に、気を失うように老人は眠った。脈をみて、軽い触診をして、化野は彼の体を布団に寝かせる。
「居たいだけいていいと、俺も思いたいですよ」
聞こえないと分かりながらそう呟いて、化野は深くため息を吐いた。思う通りにしてやりたい。これは本当は、医者にあるまじきことだと分かっているけれど、今はただそう思う。
老いて老いた、その先に、かけがえのない筈のものを守り切れず失った。その痛み。悔しさ。まるで自分の身を半分に削られたような。そういう気持ちかも知れない。化野には、ただ想像することしか出来ないけれど。
休みの毎に、此処に来る。
時間が許す時しか出来ないが、
そうしようと化野はもう決めていた。
音を立てないように静かに外へ出ると、空には満天の星。こんな見事な星空を見たのは初めてだ。喉を逸らしてそれを仰ぎ見ながら、化野は両手の人差し指と親指で、フレームを作りその空をおさめる。
「カシャ」
カメラのシャッター音を口で真似て、化野はそう言った。写真の中に残すように、記憶の中には何でも残せるけれど、そんなものでいいのなら、ただの時の流れに、誰も苦しんだりはしないのだ。
カシャ。
シャッターの音が酷く辺りに響いた。周りには誰も居なくて、ギンコひとり。街灯ひとつすらないからこその、美しい夜空だ。冷たい草の上に仰向けに寝転がっていると、今日は少し寒い気がした。
傍らに放り出してある大きなバッグの中には、食べ物や水の他に、寝袋も入っているから、このまま今夜はここで過ごすことも出来る。何度かは街へ出て、一人で此処で過ごせるだけのものを買ってギンコはまたここへ戻ったのだ。
何のために? ただ、此処にまだ居たいと思ったから。
別にそんな不思議なことじゃぁない。写真をやる人間には、まぁ、有り勝ちなことさ。そう言ったのはスグロだったし、そういう野宿に付き合わされたことも、何度もあったっけ。
あぁ、時が戻っていくようだ。戻る筈もないのに、淡々とそう思って、飽くほどゆっくりとした星々の旋回を、カシャ、また一枚レリーズで撮る。緩く曲げた銀色の針のような、幾つもの星の軌跡を見るのが、スグロは好きだった。
リモートでシャッターを閉じると、寝袋をバックから取り出すこともなく、ギンコはそのまま眠りに落ちていった。
続
やー参った、ギンコが殆どでなくてぇぇぇぇ。話し進まないっていうか、オリキャラお爺さんが、まったく想定と違う人になってビックリ。それに伴って先生の考えてることも、ガラッと代わるし、そしたらギンコの登場どうなるのって感じ。
言う事きかない可愛いストーリーめがっ。
楽しく掛けました。イサザは今頃どうしてるんだろうねぇ。そしてギンコはさすがに戦場を行くカメラマンの弟子っていうか、銃弾が行き来したりしないこの国の長閑な自然なんて、室内と同等ですかっ? びっくりだよ。買い出しはしてるっぽいとは言え、空き家を借りたりもするとは言え、あなた野宿何日目?
先生と早く会わせたいですー。
では、読んで下さったお方、ありがとうございました。本当にありがとうございました。また次回もよろしくお願いします。
15/06/29
