Flower Flowers 6 




 すっっごい、きれい、なんだよなぁ。
 こんなきれいなもんなんだ、って、
 俺、何回も本気で思ったもん。
 魔法でもかけてあんのかってぐらい。

 
 ぼんやりと、化野はイサザの言葉を思い出していた。それは勿論、ギンコの写真のことで、イサザはそれをギンコの留守中に、勝手にPCを覗いて見ていたのだという。盗み見してたのにバレてしまって、もうそれは鍵のかかったHDに全部移されて、それ以来見せては貰えないのだという。

 そんなに言われたら、
 見たくて見たくて、
 堪らなくなるじゃないか。

 ひと気のないホームで、ひとりで電車を待ちながら想像だけして見る。それは空の写真だろうか、それとも花だろうか。光や影かもしれない。たった一枚だけ見せて貰えたポストカードは、あんなにも寒くて硬く強張ったようで、そこから哀しみが滲むようだったのに、ギンコはあんなふうじゃない写真も撮るのだと言う。

 イサザが頼んでも駄目だったらしいから、自分が言ったって勿論見せては貰えないんだろうけど、頼み込むことも出来ないせいで、ますます気持ちは焦れる。見たいんだ、って、せめて彼に言えたら、諦めも付くかもしれないのに。

 ギンコ本人に直接頼んでみたい。でもその気持ちは、結局は会いたい、という震えるような気持ちの一部に過ぎない。案じている気持ちもあるけど、会いたいんだ。一日でも、一瞬でも早く。あれからずっと、もうどれだけ月日が過ぎたろうか。

 いつ会えるか分からない不安は、イサザの助言に従ってあえて気付かないふりで、写真を見たいという気持ちばかりを強く思うようにしてる。

「はぁー…」

 疲れたような溜息を吐いたら、すぐ傍で知った声が柔らかに言った。

「一番線に電車が参りますよ? 先生、今日はホームこっちでいいのかい? 学会とは違うのかい?」
「あ、あぁ、今日は往診なんです。頼まれて…。医院が休みだから体は空いてるし。ちょっと行ってきます」
「もしかして、トリワタリのところの爺様んとこへ行くのかい? こないだ孫さんが、爺様の腰見て貰えるかどうか、頼んでみるって言っとったっけ」

 程度の違いはあれど、田舎ではこうしたことがよくある。人が人の事情を、見知っていることが少なくないのだ。でもそれは面白がったりする興味本位のせいでも、悪意のある聞き耳のせいでもない。ただ、他人に知られることに、互いが何の不安も感じない土地だからだ。

「レントゲンとかMRIとか、ああいう大きな機械で体を診られるのが、どうしても嫌だって方はまだいますね。そういう不安で病院に来たがらない方も」
「そうだろうなぁ、俺だって、あんまり好きじゃあないからな」

 うんうん、と頷いて駅長は腕を上げる。電車の音がもう近い。老いても様になる仕草を見ながら、化野は薄く笑ってそれへと応じた。

「そういう不安を和らげるのも、医者の仕事の一つだと思ってますよ」
「先生、ほんとにいいお医者だねぇ。   一番線、鳥渡里行きの電車です、足元にお気をつけてご乗車ください」
「ありがとう。行ってきます」

 たたん、たたんた、たたん。

 電車が走り出す。参ってしまう。電車の振動のせいで、幾つかの記憶が揺り起こされて、ますます会いたくなった。仕事に行くのだということを、うっかりすると忘れそうなくらいで、化野はぴしゃりと己の頬を打つ。

 しっかりしないとな、とひとり呟いたあたりで、もう電車は目的の場所に着いていた。化野が此処へ来るのは、実は二年程ぶりになる。駅舎の廃れぶりと、町の変わりように、化野は一瞬足を止めてしまった。よくこれで、この町を出ずに住んでいるものがいる、と、つい思ったのだ。

 地面のアスファルトが割れて、雑草が酷い。人が歩く少なさや車の通る頻度が、草の生え方ではっきりとわかった。代わりに虫の声が凄い。鳥の囀る声も。往診を頼まれた家の場所を聞いた時に言われた。

 何、来れば分かりますよ、
 もし分かんなかったら、
 人の住むどれかの家で聞けばいいし。

 化野は視線を足元へ下ろして、短い草ばかりしか生えていない方へ歩いた。より歩きやすいところを歩けば、必ず人のいるところへ着くと分かる。元は商店だったらしい、錆びた看板の上がっている家が見えてきて、開けっぱなしのガラス戸を、叩くか声を掛けるか迷っていたら、怪訝そうな声が掛けられた。

「おんや、どちらさんかいね」

 広げた前掛けに泥付きの芋を乗せて、横合いから出てきたのは中年の女だった。

「あ、あの、シチユウ」
「ああーぁっ、大病院のお医者の先生かい? じいさまの腰見に来たんだろ。あんの頑固おじじしょうもないねぇ。えむあーるあいに取って食われるのはもっとモウロクしてからだ…っ、なんつって、モウロクのモの字も見て見ぬふりだろ、あの頑固さじゃあさっ」

 あっはっは、と笑った豪快さにつられてつい笑い掛けたが、女はひとしきり笑ったあとに、急にひたと化野を見据えて行ったのだ。

「早いとこ診てやっておくれな。シロウトがこんなことなんだけど、死んだあたしの叔母さん、おんなじふうに具合が悪かったんだ。やっぱり病院嫌いでさ。あっという間…だったからね」
「…はい。その方の住まいを、教えて頂いて構いませんか。ここから近いですか?」
「うーん、そうだね、まぁ、歩くね」

 地図でも書いて貰おうかと思った化野に、女は変わった道案内を言った。

「まずはここを真っ直ぐ行くと白い花、それが切れた先に紫の花、その次はススキの原が右手にずうっと。その先のけもの道を入ってけっこう歩くけど、そのうち錆びた屋根が見えるよ。その家だ。不安がりなさんな、ちゃぁんと分かるから」

 礼を言って、言われた通りにどんどん行くと、確かに白い花と紫の花の続く道案内。その先はススキの原が現れたが、その金色をした波があまりに遠くまで続いて見えるので、化野は躊躇った。ずうっと、で、この距離なら、けっこう歩くけもの道というのはいったいどれぐらいなのか。

 出来れば夕方に来てほしいと言われたから、もうこの次が終電になる。言って、目的の相手に会って、診察して説得して、戻ってきて。それで終電までに済むものだろうか。

 立ち止まって、考えること数分、けれど化野はまた歩き出した。次の日は午後から仕事のスケジュールだった。万が一なら、さっきの女性の家に泊めて貰うことも出来るだろう。断られる気が全くしない。
 
 歩いて、歩いて、歩いて。けもの道とはこれだろうかと思う道に踏み入り、少し行ったところで今度は別の後悔をした。靴が、明らかに合わない。まさか登山に近いことになるとは思わないできた。ごろごろと転がって居る石や、突き出ている根っ子に引っ掛かって、何度か地面に手を付いた。

 水も、持って来てない。勿論食べ物も。スーツの上もとうに脱いで腰に縛っているし、ズボンが汚れるとかもう構っていられなくて、苔の生えた岩に腰を下ろして休んだ。

「参っ…たな、いつ、着くんだ…」

 鼓動や呼吸の音ばかりが聞こえて、疲れが増す。今日ここに往診する為に、昨日もその前も遅くまで書類に目を通していた。泥や土に汚れた靴を見下ろして、何故かこんなことを思う。

 さっきの女性、こんなに大変だと言うことを教えてくれなかった。気が回らなかったのか、それとも本当は俺を、信用してなかったのか。化野は若いが、それでもいろんな経験をしてきた。七夕町医院に来る前に居た場所でも、その前も。

 医者と言う肩書を告げた途端に、信用できないって顔をされることなんて、少なくない。お偉い先生に何が分かる、そう言われたことも何度もあった。でも、どうせ信用しないんだろうって、そう思った途端に、患者との距離はもっと開いて、取り返しがつかなくなったっけなぁ。

「ふ、ふふ…っ」

 急に可笑しくなって、化野は笑った。座っている苔の岩に両手をついて、ぐい、と体を逸らして上を向き、ははは、と声を立てて笑う。心が曇り掛けていたことに自分で気付いたからだ。ついさっきの、真摯な女性の眼差しを忘れてはいけない。

 そうやって見上げた空は、いろんな種類の木々の枝に縁どられ、その枝にとまっている小さな鳥の影が、ぱっ、と数羽飛び立った。

 軽い羽音が耳をくすぐり、あ、と思った。どんな鳥だったのか、見えなかった。どのみち逆光で見えないが、囀る声でも聞けたら良かった。もう居ないだろうかと。今一度首を反らして見上げたら、意外にもすぐ傍の木の幹に一羽いて。

「ぁ…っ……」

 化野は息を詰めて、その一羽を見た。全身が綺麗な淡い灰色で、濃い色の線が目元にすっと入った、可愛い鳥だった。重力に逆らうようにして、器用に足の爪で幹を掴んで、ちょん、ちょんと移動していく。

 その鳥の嘴が、動いている。耳を澄ませると声が聞こえる。ち、ちち、ち、小さな声だ。でも確かに。随分呑気な鳥なのか、翼を交互に開いて、その美しい羽根の重なりまで見せてくれる。化野は嬉しくなった。こんなに傍で野鳥を見られるなんて、初めてだった。

 それもやがては飛び去って行き、気を落ち着けた化野は、湧水の音を聞いた。道を逸れて屈んで、澄んだ水を手ですくって飲んだ。木苺らしきものも見つけて食べた。桑の実も。白いシャツが木の実の汁で汚れたけど、今更だと思ってしまう。

 元の道に戻って、ちゃんと戻れたのかどうか木の形や岩の位置で確かめると、また彼は歩き出す。ここまできたら、時間のある限り進むのみだった。

 自分を取り囲む自然の姿が、今更気付いたように本当に美しい。木々も、葉も、空も、土さえも。

 
 すっっごい、きれい、なんだよなぁ。
 こんなきれいなもんなんだって…。


 急にイサザの言葉を思い出した。会いたい人のことも。

 俺も今、とてもきれいなものを見ているよ、ギンコ君。君は今、何が見えるところにいて、何を撮っているんだろうな。






 

 


 化野しか出てない! うーわっ、でも次はギンコが出ますので! やっと二人が(ぼそぼそ…)なので! では、アップしますっ!





15/06/14