Flower Flowers 26






 
 広く遠くから、近くから、包むように優しい風の音が聞こえて、化野は目を覚ました。木の葉が擦れているこの音を、寝ている間もずっと聞いていた気がする。ぼんやりと見上げる視野には、白茶に霞んだような薄青色の空が見え、あぁ、朝の空だ。そう思った。

「ここ…どこ、だっけ……」

 まだ半覚醒の彼が、視線を左右に揺らして辺りを見れば、そこはあばら家。空は天井の穴の向こうだ。目を擦りつつ起き上がると、寝袋の中で、自分が何も着ていないことにようやっと気付く。

「…わ、っ」

 そうだ、ここは鳥渡里なんだ。
 昨日はギンコ君と、俺と…。

 焦って見回すとすぐ傍に、適当に置かれた服。誰もいないことにほっとして、急いで服を着て、そのあと気付いたのは、ギンコのバックも、服も勿論見当たらないことだった。

「まさか、置いて行かれ…ッ」

 自分の持ち物を引っ掴んで、焦って外へ出ようとしたら、外れた扉を立て掛けて塞いだ入口に、メモが一枚留めてあった。手を伸べて、化野はその文字に指を触れる。あんまり上手とは言えない字だった。癖があって、斜めで。でもその癖や個性が、愛しいと思った。書いてある文字は、これだけ。


 朝飯を食べたら、
 家の裏の斜面を下りて来な。

 ゆっくりでいい。


「朝、ご飯…?」

 振り向くと、自分の服があったあたりに、菓子パンの袋が一つと、パウチの飲み物が一つ、重ねられて、ぽつんと。

「あった」  
 
 化野はギンコの残してくれたメモを剥がして、それをきちんと折りたたんでポケットに。それから朝食の置かれた傍に戻ると、それを急いで食べた。ふと気になって腕時計を見たが、まだ夜が明けて少ししか立って居ない、六時五分。

 確かに時間はある。でも、ゆっくり、なんて食べていられるわけがなかった。彼はとにかく、早くギンコの傍に行きたくて、堪らない気持ちなのだ。会って、姿を見て、触れて。夕べのことが、夢でも嘘でもないんだと確かめたい。

 パンを咀嚼しながら、もぐもぐと動いている自分の唇に彼は触れた。夕べ何度も、キスされた唇だ。そして今度はうなじに触れた。ギンコがここに、額を擦り付けていたのを思い出す。化野は自分の肩にも、胸にも、腹にも触れてみた。

 そうしていると、思い出す。聞こえなかった彼の声が、聞こえてくるような気がする。

 逃げないでくれ。

 と、言われているような気がしたんだ。ずっと何度も、繰り返し、縋り付かれていたのだと、思う。まるで、支えを欲しがる幼い子供のように、不安げに。

 なぁ…? 
 あんたは此処に居るよな?

 此処に、居るよな…?

 まだ、俺には君がよく見えない。どうして、君は、そんなふうに…。ごくり、と咀嚼し終えたパンを飲み込んで、口を開けたパウチから飲み物を吸って、それも飲み込んで、化野は言った。

「俺は、居るよ。逃げるわけもないよ。そんなに不安なら、一緒にいる今日ぐらい、離れなきゃいいじゃないか…っ」

 俺を置いて外に出て、ひとりで何してるんだ、君は。などと、文句を言ってから思い出す。写真だ。写真を撮りに行ってるんだ。なら余計ゆっくりなんて、してられるはずがない。

「お、起こしてくれればいいのに…!」

 からのパウチとパンの袋を、自分の荷物に捻じ込んで、焦って化野は外へ出た。でも枯れ葉や枝の落ちている、凸凹の酷い地面を歩くのは苦行だった。急ごうとすればするほど、脚がまともに動かないのが分かってくる。化野の膝も股関節も、ガクガクだったのだ。

 転ばず歩くのが精いっぱいで、急ぐのは無理だった。走るなんて、絶対出来ない。理由は勿論、昨日、したからだ。脚を広げられ、随分長いこと揺さ振られていたのを覚えている。普段しないような恰好を、ずっとしていたから、こんなに疲れているんだろう。

 木に掴まりながら、よたよたと歩くこと暫し、細かな木が密に重なり合う、ほの暗い雑木林が不意に切れて視野が開けた。広く緩い斜面を埋めた草の葉が、丁度吹いていた風で、一斉に揺れて葉裏を見せ、そこに陽があたって、白く、白く目の前を塗り替えて…。


 花だ。

 花畑なのかな、此処は。
 光を放つような、
 白い花が一面に。
 あぁ、とてもきれいだ。

 まるで、
 現世じゃ、無いみたいな。 


 そして、その美しい風景の中。一人で立って居るのは、ギンコ。

「…ギンコ君…ッッ!!」

 その衝動は、いったいなんだったのだろうと思う。叫ばずには居られなかった。今にも消えてしまうと思ったのだ。何処か遠いところへ、彼が言ってしまう。手の届かないところ。声の聞こえないところ。行ったら、戻って来れないかもしれないところへ。

 化野の大声で、鳥が何羽も飛び去った。風が緩やかになり、見えていた草の葉裏の白い色が見えなくなる。ギンコは、其処に居るままで、構えていたカメラを胸まで下ろして、化野の方を振り向いていた。

「あ、ぁ…消え、て、ない…。ギンコ、君」
「……寝ぼけてんのか?」

 ギンコは呆れたようにそう言って、小さく苦笑し、手にしているカメラを化野の方に向けると。

「ほら、笑えよ、もっと」

 と、ひとこと言って、シャッターを切った。  
 

 


「膝とか、いろいろ、大丈夫か? あんた」
「…う、うん…まぁ。なんとか歩ける程度には」

 ギンコは化野の傍に来て、でも彼の顔を真っ直ぐには見ないままで、色々と体の調子を気遣う。

「喉は?」
「喉?」
「あんだけ喘げば」
「あっ、あー。い、意外と喉は強いんだよ」

 次の問いの時、ギンコはちらりと化野の顔を見た。彼の唇が少し笑っているのが分かって、その形を見たら、昨日、キスの合間に互いの唇から零れていた、湿度の高い息なんかを化野は思い出してしまう。

「……ひりひり、したりとかは?」
「いや、ほんとに喉は大丈夫。声もいつも通りだと思うしっ」
「喉じゃなく」

 目線を誘導するように、ギンコは化野の脚の間へと視線を落したのだ。意味が解って、化野は酷く狼狽した。そう言えば此処へと必死で歩いている間、下着が擦れて痛いような、変な違和感を感じていたのは、あれは…。

「だっ、だっ、大丈夫、そのっ、あ、あのっ、粘膜部って治癒能力が凄く高いから、きっとっ、すっ、すぐ治…ッ」
「粘膜部」

 オウム返しに言ったと思ったら、ギンコは笑い出した。しかも、山に反響するほどの声のトーンで。傍らの太い木に片腕を付き、カメラをしっかり胸に抱えたままで、物凄くおかしそうに。

「ほん、っっと、面白いな、あんた。びっくりしちまう」

 笑うその声と、顔を見て、昨日からこんな顔見るのは二回目だ、と化野は思っていた。びっくりするのはこっちだよ、とも。こんなに魅力的な笑顔、ずっと隠してたなんて、あんまり出し惜しみじゃないか。

「化野」
「…え…っ」

 それでいて、そんな笑顔を掻き消すのがやたら早くて、ギンコはもう、いつもの表情の薄い顔に戻ってしまっている。

「さっき、あんたが逃がしちまった鳥が、そろそろ戻ってきそうだから。なるべく気配消して、そこの岩の陰にでも座って、見てな。帰りは11時26分発。こっち側から行けば、駅まではそんな遠かないから」

 さっ、と傍から離れていくギンコの背に、化野は、精一杯抑えた声でこう聞いた。

「みっ、見てて、いいの…っ?」
「…退屈しないんだろ、あんたも」
「しないよ、勿論っ」

 その時、泣き顔に似た顔を、化野はした。ギンコは気付いたが、気付かないふりをしたままで、さっきの場所まで戻っていく。それから化野はずっとギンコを見ていた。まるで、此処にひとりでいるみたいに、自由に写真を撮るギンコを、見ていた。

 胸にあたたかく光る宝物を、ためていくような心地がする。大事にしなけりゃ、と化野は思っていた。零さないように、失くさないように、ずっといつまでも、消さないように、しなくては、と。

 きらきらと降る木洩れ日に、共にまだらに染められながら、列車の時間の、ぎりぎりまで。

 時を止めたいぐらいだと、
 化野は思っていた。

 時が戻ったみたいだと、
 ギンコは思っていた。

 止まらない、
 戻らないのが、
 時、だけれど。 

 

 
 
 続





 




 この一話で「Flower Flowers」を終えようかと思っていたんですが、もうちょっとだけ書きたくなりました。こんなんばっかりですね、私っ。すまん。

 とても辛い時って、他の辛いことや、しなくちゃならないことが見えていない。そんなこともあるんじゃないかなって、惑は思ってます。それは人間が自分の心が壊れてしまわないように守る、一種の自己防衛本能なんじゃないだろうか。

 だから支えられて、やっと真っ直ぐ立てるようになっていくギンコには、これから何が見えるようになるのかな、って思うのです。でももう少しぐらいは、羽根を休めていて欲しいなぁ、って思いますよ。幸せな時間が、きっと、この先の彼と力となる。

 それを祈って。



17/03/12