Flower Flowers 27
「リミット、だ」
構えていたカメラを不意に下ろして、ギンコはそう言った。ぼんやりと彼に見惚れていた化野は、最初意味が分からずにいたのだ。でも岩に寄りかかっている化野の傍を、急ぎ足で通り抜けながらギンコが言った言葉に、ようやく我に返る。
「電車の時間まで、あと40分強。あばら家の中、軽く片付けてくるから、あんたは先に駅に向かってろ」
「え、えぇっ…。向かってろ、ったって。ど、どっちへっ?」
「もう少し斜面を下れば、駅舎が見える」
あんまり急だったから、焦ってきょろきょろしてしまう化野の耳に、笑い含みの声がもう一度届く。
「ゆっくりでいい、転ぶなよ」
「こ、子供じゃないんだからっ」
昨日あんなみっともない転び方して、尻を押さえて蹲ってまでしておきながら、言うことじゃなかったかもしれない。そんなことを思いながら、岩に掴まって立ち上り、細かい枝を手で除けながら、化野は言われたように斜面を下りていく。
まだここに居たい。帰りたくない。でも残念ながらそうは行かなくて、化野は林の向こうに目を凝らした。小さな原を横切り、疎らな細い木の間を抜けると、ギンコの言う通り、駅舎が見える。昨日歩いた距離を思えば、驚くほど近くて、あの苦労はなんだったのか、と、ちらり、思った。余程の遠回りだったのだろう。
でも勿論、文句なんかない。ああして苦労して歩いて、尻に痣が出来るほど酷く転んで、思いっきり笑われて。言葉にすると情けないようなそれらが、全部とても大切なことで、嬉しい。
駅の建物を見ながら、化野はよたよたと歩く。最初、今にもへたり込みそうだと思ったが、一生懸命、交互に脚を動かしていたら、疲れ切って強張った筋肉が、ようやっとほぐれるみたいにして、段々普通に歩けるようになってきた。
「あ、凄い、歩けるぞ、歩ける」
ほどなく道らしき場所に出て、慎重に、けれど調子よく歩きながら、化野は後ろを振り向く。駅舎までの距離は随分縮まった。もう、行程の半分は歩いた気がするのに、彼が追い付いてくる様子がないのだ。
「あ、れ? ギンコ君は…」
思わず化野は立ち止まった。待つべきなのだろうか、と迷った。腕時計を見れば、電車の時間まであと20分もない。だけれどギンコは、先に駅に向かっていろ、と言ったのだ。それは、ちゃんと追い駆けて来てくれるという意味の筈。
だから化野はまた歩き出し、時々は振り向きながら、それでも一人で歩き続け、とうとう駅へと着いてしまうのだった。
朽ちかけたあばら家に戻ると、ギンコは一番先に、焚火の跡を確かめた。小さな火も残っていないことを確認し、念入りに土をかけてから、持ち帰る荷をまとめ、置いて行くものを片付ける。
カメラバックを斜め掛けし、改めて外へ出ると、降り頻る様々なものが、改めて彼を包んだ。木洩れ日、鳥の声、木々の匂いや葉擦れの音。少し湿った山の空気。そして足下には、何年も何年も、ずっと降り積もった柔らかな落ち葉がある。その落ち葉の隙間から、顔を覗かせる草の芽、双葉と、もう咲いている野草の、小さな小さな花。
まだバックにしまっていなかったカメラを、ギンコはそうっと、静かに撫でた。
いいとこだなぁ、
ここは。
なぁ、ギンコ。
目の前の、小さな陽だまりに、誰かがいるように思えた。声も聞こえた気がした。体が透けて、向こうの見える淡い影のようなそれは、ギンコの大切な人の姿だったけれど、勿論、ただの幻だ。
ここは、命の群の中だ。
全部撮りたいな、全部。
なぁ? 聞いてるか?
あの頃のギンコは、話しかけられても、ロクに返事もせずに、だけれどずっと、ずっと彼を見つめ続けていた。
自然の中にいる彼。黒くてゴツいカメラを持つ姿。シャッターをひとつ、ひとつ、それごとに、何を撮ったんだろう、何を見てるんだろう、って、いつも思ってた。
あの目が見つけ、あの目が選び、あの指がシャッターを切って、ファインダーを覗かせて貰わなきゃ見られなかったものが、切り取られてずっと残される。その写真が好きだった。そして、写真を撮る彼の傍に居させて貰うのが、大好きだった。
何撮ったんだよ、スグロ。
そんな、なんも無いとこで。
んん? 何も無くなんか無い。
見るか、今撮ったの。
そんなやりとりを思い出したら、いつぞやの自分の言葉が、急に彼の脳裏に浮かんでくる。それを今更なぞるように、ギンコは声に出した。
「あんたは……」
あの時、その言葉を聞くはずだった相手は、今頃一人で駅舎についている頃だろう。
「あんたは、俺に、似ているんだ…」
スグロと、一緒に嗅いだ木の匂いや、一緒に聞いた風の音。触れた若葉や、花弁の柔らかさ。ぽろぽろと崩れる朽ちた落ち葉、不意に降り出した、優しい雨の音。それらがギンコの中に、何処からか流れ込んで、彼を満たしている。もう、スグロとそんなふうにすることは出来ないけれど。
ギンコはカメラをゆっくりと構えて、ファインダーを覗き、其処に見えている風景を、一枚だけ、撮った。
こと、…とと…ん……。
は、っと我に返って、ギンコは駅の方を見、斜面を駆け下りた。遠く聞こえた今の音は、ひとつ前の駅を電車が通り抜けた音だ。風向きが良い時だけ、山に反響して近く聞こえるその音。
急ぎながら脇にカメラを抱え、引っ掛けないよう紐をまとめて持ちつつ、ギンコはなお速く斜面を下る。
走って、走って、殆ど全速力で、駅に滑り込む一両の電車の姿を見ながら、ギンコは無人改札をもどかしく抜けた。駅のホームで、はらはらと気をもんでいる化野の横を、風の様に通ると同時に、その片腕を強く掴み、もう開いていた電車のドアの中に飛び込む。
「ぎっ、ギンコ君…ッ」
「……」
はぁ、はぁ、と荒い息をつきながら、ギンコは斜めに化野を見て、ごくり、と唾を飲み、もう一度飲み、それでも乾いている喉を苦しげに、また項垂れて息をせいせいと吐いて。
「あ、これっ、お茶…っ!」
取り出した小さめのペットボトルを彼は受け取り、白い喉を反らして一気に全部飲み切って。そして、やっとそうすることを思い出したように、すぐ傍のシートに、ギンコは投げ出すような勢いで腰を下ろした。
「悪、ぃ、全部、飲んじまった…」
「いいよ。それより、中々来ないから心配した」
「心配、って?」
隣に座った化野の顔を、薄く笑ったギンコの目が見ている。
「だって、そりゃ、心配するよ。電車の時間が迫ってくるのに来ないし。もし来なかったら、とか、何かあったのかも、とか」
「化野」
「…え…?」
「持っててくれ」
前置きも無く突然、膝に上に置かれた重みのあるもの。
「えっ、ええ…ッ。駄目だよ、もし落としたらっ」
それはギンコのカメラ、だったのだ。こんなに大事なものを、と言って、焦って押し戻そうとする化野の首に、カメラの紐を掛けさせて、彼は言うのだ。
「夕べ、寝てないんだ。電車の揺れで眠っちまいそうだから。あぁ、なんなら、中身、見てていいぜ」
何でもないことのように、ギンコはそう言った。化野は一瞬、耳を疑った。きっと、今のは都合のいい空耳だ、そんなふうに思ってしまいたくなるほど、それは、彼の願いだったからだ。
「ここ押して、あとはここと、このボタンで見れる、画面はこんな小さいし、夕べからの分しか入ってないけどな」
「だ、だってっ、でもっ」
「…見たくないのか?」
たった、その一言で、化野は籠絡された。見たいよ…、と一言、つい言ってしまった。そうしたらギンコは目元で微かに笑んで、カメラを化野の胸に押し当てると、その両手の中に置いたのだった。
「見ていい。俺がいいって言ってんだから、いいんだ」
「ギン…っ、コくん……」
「………」
ギンコはそのあと、びっくりしてしまうぐらいあっさりと、眠ってしまった。暫し逡巡はしたものの、せっかく預けて貰えたカメラの電源を、化野は一度だけ入れて、一番最初に見えた画像を、ずっと、ずっと見ていた。ブラックアウトしても、しても、何度もそれだけを、繰り返し。
やがてはギンコが彼に寄りかかり、その頭が化野の肩に乗せられる。白い髪が、頬や首に触れて、くすぐったくて、化野はどうしてか、泣きそうになった。
かたたん、ことん、と電車が揺れる。七夕町までは、ほんの数十分。何処まで行っても終りの無い輪の上に、この線路が敷かれているんだったらいいのに。そしたらいつまでも、こうして居られるのに。
かたたん、ことん。
電車は揺れて、先へと進む。
かたたん、ことん。
とととん、たたん。
終
「Flower Flowers」やっと書き上がりました。なんと話数にして27話。長過ぎだよなぁ。しかもタイトルに添ったシーンはほんとうにちらっとだけだったしなぁ。ううぅ。素敵なタイトルを付けたのに生かせなかったカナシミがちょっぴり。
でも、もどかしいほど進展しなかった二人の仲が、こんなふうにまでなって良かったなぁ、って思ってます。ギンコはきっと、随分傷が癒えただろうなぁ、本当に良かったよなぁ。イサと先生のお蔭、いや、ドラ爺も、あと記憶の中のスグロも。
それだけじゃなくて、彼の周りにいた他の人々や、七夕町と言う土地と、鳥渡里も渡来川も…。
勿論、このシリーズは此処で終りなんてことはなくて、まだまだ続いて行きます。それこそ、長過ぎだろって話なんですけどもっ(汗) ですが、この続きを書く前に、長く続いている別の連載を進めたいと思いますので、こちらの「ワンフレーズ」のシリーズは暫しおやすみしますが、絶対続きを書きますよ。
「Flower Flowers」読んで下さった方、本当にありがとうございました。
17/04/05