Flower Flowers 23
「……………え…っ」
声が出るまで数秒、声が出てから聞き返すまで、更にまた数秒が過ぎていってしまった。
「…今、なんて?」
なのに彼は、少し笑って肩をすくめただけで、もう一度言ってはくれなかった。だから化野は、そのままぐるぐると、空耳なのか聞き間違いだったのかと、思い悩むループにはまり込んでしまう。
ホームに入っていた電車が、ゆっくりと走り出し、二人の間を音で満たして、次の駅へと去っていった。それを待っていたように、ギンコはもう一言二言、さっきの言葉に関係のあることを話す。
「歩き易い服で。もうそう寒くはないが、薄着じゃない方がいいな。山の夜は冷える」
「…ギ…っ」
「じゃあ、な」
軽く片手を上げるより前に、もう背中を向けているいつものギンコの仕草。揺るぎなく遠ざかるその姿を、化野がぼんやりと見送った、それが、二週間前のことだ。今日は仕事は休み、明日は午後からで、待ち合わせのこの時間から、もしかしたら翌朝までギンコと二人。
「うわ、どう、しよう…動悸…」
左胸に握ったこぶしを、ぎゅっと当てて、化野は線路の向こう側の、改札を抜けてくる姿を見る。
もう既に動悸は速いのに、どきり、としたのだ。それまでとは違う、傷が何処かにつくような、痛みのある動悸だった。化野と違い、彼が猫背なのはいつものこと、俯きがちなのも変わらない。けれど、ゆらゆら水に浮く葉が揺れるような、そんな空気を纏いながら、視野の左の階段を上がり、少しして化野のいるホームに、ギンコは降りてくる。
「…ギン…、あの、なに、か……」
つい聞きかけて、それから一瞬目が合って、言葉を続けられなくなった。掻き消すように彼の空気が、いつものそれになっていたからだ。
「…あぁ、前もその服だったな」
「う、うん。あんまり持っていなくて、これでよかったかな」
「いいんじゃないか? 寒けりゃ火ぐらい焚くさ」
「…うん……」
電車が来て、ふたり、前後して一両きりのそれへと乗って、いつもとそうであるように、どこもかしこも空いているシートの一箇所に、並んで座る。
「………」
化野は、じっと黙って座って、黙って車両の揺れに身を任せながら、嬉しい、と、どうしても思ってしまっていた。ギンコが膝の上に置いて、胸の前で緩く包んでいる黒いバッグが、何なのか、聞かなくとも分かるからだ。それはカメラだ。彼の、カメラ。
ガタン、ゴト、ガタン。二人の体が揺れる。ゴトト、ガタ、ゴトン。電車の音と一緒に。降りた駅は、終点、鳥渡里。まだ若葉の芽が出たばかりの木々が目に眩しい。風が、心地良さと寒さの間で、ひやり、肌に触れるのが分かった。
「ずっと」
無人の改札を抜けて、ざ、と音立て歩き出しながら、ギンコが言う。
「次はあれ撮れこれ撮れ、ここもあっちも、ってな」
風の日、寒い日、晴れ続きの時、雨の後、嵐の後、季節の変わり目、早朝、真昼、夕方、夜の写真も。
「えっ? あっ、ドラ爺さん、が?」
「あぁ。人使いの荒いのは前々から。コールされても取らなきゃ、大概用件だけの留守電で、一方通行の指示を飛ばしてくる。ったく、タチが悪くてな」
でも、撮れというのは未完のダムの跡や、草ぼうぼうの消えそうな道、壊れた橋だの、倒れそうな木だの、いくつもの空き家の姿なんかばかり。自然のままに此処を、人々の憩いの場とするための、つまりは資料だ。
「面倒くせぇよ」
「…そう、なんだ」
うっかり、化野の口元に笑みが浮かぶ。だって、それを放ったらかしたり、無視したりしないのは、手伝いたいというギンコの気持ちなのだと、どうしたって気付いてしまう。人に何かしてやりたいと思っているような、そんな顔の一つも見せない癖に、彼は「そういう」人だ。
「じゃあ、今日も何か頼まれて?」
「………」
返事が途切れる。聞こえなかったんだろうか、と、もう一度問おうとした声に、ギンコの声が重なった。
「今日も」
「いや。指図が漸く途絶えたんでね。気の向くまま、を、撮りに来た」
「…あ、あぁ。そう…」
どきん、どきん、と、化野の胸の奥、鼓動がまた煩く鳴り始めた。だって、それは、俺が一緒に居て、いいことなんだろうか。寧ろ、だからこそ、と言うのなら、こんなに嬉しいことはないけれど、それは多分、夢を見すぎと言うもので。
「ギっ、ギっ、ギンコ、君っ。今日は、あの…っ、うわッ」
ずる、と、斜面でいきなり足が滑って、手を付きかけたその一瞬、焦って伸べた手首を掴まれて、化野は転ぶのを免れる。
「…ここらへん、降り積もった枯れ葉の下は、見えなくとも濡れたままの泥だ。気ぃつけな」
「あ、あり、がとう」
掴まれた手首から、するりとギンコの手のひらが滑って、手を握られる。そのまま、足場の悪い道を越えるまで、力強く支えてくれて、段差の向こう、急に低くなる場所では、先に降りたギンコが、化野を支えるべく、片腕を広げていてくれて。
「…熱でもあんのか?」
さっきから顔の赤い化野をからかう響きで、つまりは少し笑って、ギンコがそう聞いた。
「ちが…っ。ね、熱は、無いよ。無いと、思うよ。でも、だってっ。急にそんな、こ、こ…」
「こ?」
「……こい、びとどうし、みたいな…さ…。ワぁ…ッ!」
詰まってそれでも言った途端、再度ずるり、と化野の足が滑り、せっかく広げていてくれたギンコの腕の中に、納まることなく化野は尻もちをついた。バウンドするように、段差で二回。尾てい骨をこれでもかと強く打って、両手を尻に当てて化野は蹲る。
「い…ッッッッ、たぁ…ッ!」
「…ぶ…っ」
途端、ギンコは弾けるように笑った、のだ。ぶはっ、と吹き出し、そのまま、声を立て、体を二つに折るようにし、腹を抱えて、笑っていた。化野は呆けて、尻の痛みなんか彼方へ飛ばして、見たことも無い笑い顔を、聞いたことも無い笑い声を、見て、聞いて、いっそ、泣きそうなぐらいだった。
「ははっ、はははは…っ」
「ひ、ひど…っ。わ、笑い過ぎ、じゃないかっ?」
流石に怒って、そんなふうに言いながら、好きで、好きで堪らないんだと、もうとうに分かっていることを、化野は思い知る。
本当に彼は、ずるくて酷い。
今までだって何度も二人で出掛けて、デートなんだろうことをしてきて。なのに会うたび、ちらっと一度、笑ったか笑わないかで、言葉を交わすのも随分少なくて、凄く楽しそうとかそんなのも全然なくって。不安な思いをずっとさせられて。もう段々、黙ったままで傍にいられるだけのそれで、充分幸せなんだと思い始めていたっていうのに。
一緒に行けたら、ってずっと夢に見るぐらいだった場所で、いきなりこんなこと。感情が追い付かなくて、どれだけ分の幸せを使い果たしているんだろうとさえ思えて、恐ろしいぐらいだ。
そういやイサザ君が、彼をタラシだ、って言ってたっけ。今更、なんて、思い知るのが遅いけど。
「立って」
「…う、うん」
「歩けるか?」
「あ、あ、歩けるよっ」
子供じゃないんだから、とかなんとか言い返しながら、滑りそうなところを、今度は細心の注意を払いながら歩く。さっき見たギンコの笑い顔が、目の前でちらちらして、正直何処を歩いているのか、よく分からないような心地だった。
そのせいもあって、化野の歩みは遅い。ギンコは彼を置いて行くことなく、ちゃんと何度も振り向いては、危なくないように気を付けてくれていて。
「…その…。ごめん」
さすがに申し訳なくなって、化野が言うと、ギンコは立ち止まり振り向いて、にこりともせず聞き返した。
「何が」
「だって、君一人の方が、早く歩けるだろう?」
「あぁ、まぁな」
面倒くさそうな溜息が、聞こえてしまって、化野は途端にしおたれる。
「ひとりで、来た方が良かっ」
ついそう言った言葉の先を、折るように、ギンコは言った。
「いいから、黙って歩きな」
冷たいぐらいの、その言葉を化野は飲むしかなくて。だって此処に置いて行っていいと、仮に言っても、それがギンコの負担になると分かる。今、振り向いても道のわからないような場所に居て、ここからひとりで駅まで戻れるなどとも、到底思わない。
「化野」
立ったままで、歩き出しはせず、ギンコは言った。名を呼ばれることは、あまりない。というか、多分、まだほんの数回切りだ。ギンコが小さく首を傾げる仕草が、顔を覗き込まれるようで、化野は尚更項垂れる。
「手を繋ぐか?」
「……うん…」
「口下手なんだ」
「…知ってるけど」
かすれて聞こえた声。繋いだ手は暖かくて。
「連れて、来たかったから、誘った」
「…うん……」
なんだか、遊園地の過激な乗り物みたいな激しい上下に、気持ちが振り回されて、やっぱりあんまり、心臓に悪すぎる。けれど、その先ギンコが一言も喋らなくとも、今、彼の傍に居ていいのだと、なんとかぎりぎり化野は思って、その先は黙って歩いた。
続
とても、ややこしい心理を書こうとしていて、見事に玉砕しています。うーんんんんんん、何を書きたかったかって、今此処で言うわけにいかないので、言わずとも次回で「あぁ、そうだったのか」と、分かって貰えるものを目指したいっ、て思っていますぞ。
彼自身、今、とても混乱していて、そんな彼に私が「救われて欲しい」って思っていて、そしてそう思う気持ちは、きっとあの人もなんだろうなって、とっても思えるので……頑張れ! 私しかそう出来る人間は居ないんだぞっ。私が頑張れっっっ。だって作者なんだもんっ、てね。
闇を深くしすぎると、救い出すのは大変です…。そもそもその闇を書くのでさえ難しいっていうのにっ、て、そんな執筆後の気持ちでした。はいっ。
17/01/04
