Flower Flowers 22
「え…っ。や、大丈夫だよ、先生、別につまんなかったとか、絶対そんなんじゃないって…っ」
イサザは夜道を歩きながら、真横にいる化野を必死で宥めていた。仕事上がりに、店じまいの八百屋で偶然行き会って、数日前のあのことをニコニコと冷やかした、その結果である。
恥ずかしがりながらも、きっと化野は嬉しそうにするだろうと、当たり前のように思っていたから、項垂れた顔を覗き込んで見た、彼の表情の暗さにびっくりした。彼、曰く。
「して貰えて嬉しかったし、他に、とても嬉しいこともあったんだけど。でも途中でやめたんだ、ってことが、段々気になってきて…。こんなことぐるぐる考えて、自分でも馬鹿だとは思う。だけど、じゃあ次は無いのかなって。じゃあ…俺は、か、彼の恋人にはなれないんだな、って…」
「あーーっ、もうっ。俺あんなギンコ初めて見たのにっっっ」
まるで年頃の若い女の子みたいな、物凄く女々しい…といっては失礼だけど、でも、ほんとに女の子みたいな悩み方に、イサザは思わず声のトーンを落とし忘れて言い放った。
「あのさっ、あいつは正直、ほいほい誰とでも寝て、それっきり会わないとかよくあるヤツだったんだよ? 先生とは最後までシなかった、ってことは、むしろ大事に思ってるからにしか、俺には思えないんだけどっっ」
そもそも一回目の時は、全裸で抱き合って寝ただけっていうじゃんかっ、それがそもそものそもそも、あいつらしくない、の極みなんだよ、そういうあいつらしくなさを、先生相手の時だけ特別見せてるギンコなんだって、分ってやってよ、分かりにくいだろうけどっっ。
という後半を、ようやっと半分以下のトーンで全部言い終えて、イサザはがっし、と化野の手首を掴んだ。
「来てっ。お茶してってっ。多分ギンコいるからっ。別に何か言ってみなって言ってるわけじゃなくて、二人とも接点少なすぎだよ。風が冷たいから、とかでも何でもいいから、気軽に遊びに来なっての、ギンコの居る俺の部屋にっ」
無理やり連れて行かれた部屋に、ギンコは居た。なんだかだらしない感じにベッドの上に座り、腰をずり下げて壁に背を預けていて、化野が入っていくと、少し呆けた顔をした。
「…よぉ、あんたか」
「ご、ごめ…。こんな非常識な時間に、上がらせて貰うつもりじゃ」
言えば、ギンコは意外にも、にやりと面白がる笑みを浮かべて。
「検査、してみたのかい? 例の」
「あ、え…あ、あぁ、性病の? いや、経過は観察してるけど、さすがにアレだけでそこまでは、いらないかな、って」
飛び出した言葉に、危うくイサザが飲んでたミルクを吹きかけている。揺れたグラスから零れた雫を、慌てて布巾で拭いてるイサザの耳に、続けて聞こえてくるのは、やっぱりどこかいつもと声の感じが違うギンコの言葉である。
「なんだ。じゃあ俺が保菌者かどうか、ってのはまだわかんねぇってことか。次に期待、だな。あんたさえ良けりゃ」
「え…」
ほらほらほらぁ、などと、イサザは言いたくなり、内心小躍りしたいくらいの気持ちだった。化野の悩みはやっぱりいらない悩みだ。それでも悩んでしまうなら、今度こそ、シてしまえばいいに決まってる。
「はいっ、はーいっ、俺なんか、ひとり飯してきたくなってきたから、何時間か出掛けようかなぁー?」
「えっ? ちょっ、イサザ君っ。そ、そういうわけにはいかないよっ。ベ、ベッド借りるのも申し訳ないしっ、あの…べ、別の…日で…っっ」
「えーー? 別にいいのにぃ」
化野の顔は既に真っ赤だ。ギンコはといえば、怠そうな姿勢で雑誌をめくる仕草にもう戻ってしまっていて、デレツンってのはこういうことか、と内心でイサザはじれったくなってしまう。
「しないの? ねぇ、ほんとに?」
ギンコの方を見、化野の方を見てそうせっつくも、二人は会話を始める流れにすらならない。世話の焼ける、とデートの提案が喉まで出かかったその時、やっと化野がこんなことを言った。
「あっ、のさ…っ、ギンコ君っ。土曜日っ、俺休みなんだけどっ、だから、そのっ、その……金曜の夜、食事でも、しないか? 遅番上がりだから、体空くの、八時過ぎなんだけど、それでももしよかったら…」
この流れでこの誘い文句が、あんまりわざとらしくて泣けてしまいそうで。けれど、イサザは邪魔をしないように、黙ってミルクを飲み続けた。もうグラスに残り半分もないのを、大事そうにちまちまと。
「どこで?」
雑誌を閉じてギンコが問い返す。化野は七夕町から二つ離れた駅近にある、ホテルの名前を言った。美味しいレストランがあるんだ、と、震える声で、一生懸命。
「あぁ、知ってるホテルだ。駅でて左だろ? わかった」
「う、うんっ」
イサザは親指でグーサインを出したい気持ちを、懸命に押し殺した。化野はそのあとすぐに帰ったが、玄関ドアまで見送ったイサザが、小声で彼にエールを送る。
「今度こそ、だね、先生っ」
「ありがとう、イサザくん」
でも、結局その日、二人はそのホテルには泊まらなかった。レストランの席はあいていたが、化野がこっそり確認したホテルの部屋が満室だったのだ。実はギンコはホテルに入る時、併設の駐車場をチラ見して、すでにそれを分かっていたらしかった。
「満室、だろ?」
「…知って…? あ、じゃあ、俺の部屋に寄ってく…? ギンコくん」
「あぁ、いや、遠慮しとく」
最上階のレストランから、下へと下りるエレベータに乗った時のその会話、やんわりと断られ、落胆して項垂れた化野の顔を追い駆けるように、自分が姿勢を屈め、ギンコは彼にキスをした。
深く。けれど離す時に、ちゅ、と音をさせる、少し性的で、少し悪戯のようなキス。化野は縛られたように動けなくなって、でも自由が戻ってから、箱内のカメラにギョッとして。
「カ、カっ、カメラ…っ」
「ここのはダミーだ。チャイナ製の、安価なハリボテ。もっとするかい? 本番の代わりに」
「い、いや、その…っ。あ……」
今度は顎に手を掛けられて、さっきよりももっと深く、唇が交差する。舌まで入れられて、膝が震えた。はっきりと、火を灯されるような口吸いだった。気持ちよくて、視野が狭くなり、ギンコのことしか見えなくなってしまう。
「……べ、別のホテルを、探せば…」
「ホテルを探し回るには、風が冷たいぜ? 駅ならすぐそこだ」
「そう、だけど…なんで…」
「意味なんかない」
壁に手を置いて、重なっていた体を離して、見つめたままでギンコはそう言うのだ。こんなキスをしておいて、言うことじゃない。
「俺じゃあ、つまらないからじゃ…」
「つまらなく見えたのか? あれが? 目が悪いな」
「なら…次の休みが決まったら、その前の夜にまた、君を誘っていいだろうか」
「次の口実はなんにするんだ?」
くすり、笑う顔が近くて、どきどきする。
「え、映画でも一緒に。レ、レイトショーのっ」
「デートみたいだな」
「…デートに、したいんだ、だから」
けれど…。
その次の時も、化野の願いは叶わなかった。行こうとしていた映画館は満席で、ならばと行ってみた小さな映画館は少し前に閉館しており、その街には小さな旅館しかなかった。隣の部屋にも廊下にも、声が筒抜けになるような、である。
何もかもうまくいかず、無駄足になったことを詫びた後で、帰りの電車を待ちながら、化野は既に答えを知っているような問い掛けを放つ。
「俺の部屋に、泊まっていっていいよ」
「まぁ、それは、そのうちにな」
「そう……。今日はキスも、無し?」
おずおずと聞いた化野に、ギンコがまた小さく笑った。あまり笑わない彼は、化野と会っている時、いつも一度だけ笑ってくれる気がする。
「して欲しいのか?」
ガーーーーーーーーーーーーーっ。
目の前のホームに電車が入ってくる。掻き消すような走行音に紛れてしまわないように、化野は声を大きく、はっきりと言った。
「して欲しいよっ! キスも、その、先の、こともっっ」
ギンコは逆に、声を大きくしたりはせず、ただひとつひとつの言葉を区切るように、何かを言った。化野は彼に近付き、そしてその唇を見て、読める限りを読んだ。
あいつも ねだる俺を
ずっとじらした
それを 思い出しちまうんだ
抱かれれば
もう 戻るのが難しく
「…なるんだぜ…?」
ホームに入った電車は、だが、止まらずに去っていった。化野はギンコの表情の無い横顔を見つめたまま、酷く静かに、自分の気持ちを伝えたのだ。
「だったら、もっと、して欲しい」
ギンコの言う、あいつ、というのが誰のことか、化野は知らない。けれども誰なのか知っている気がしてならなかった。とある日に触れた。ギンコの手のひらの温もりの中に、その『あいつ』が、居たように思える。
「俺は…抱かれたいんだよ、君に」
会って、デートのように時間を過ごすことが、それからもずっと、月に四度か、三度か。
けれどずっと、ギンコは化野を抱かなかった。人の目の無い場所では、セックスの前にするようなキスを、何度も何度も。その先の無いそれは、化野にとって苦痛に似たものでもあったけれど、それでも嬉しくて、やめてほしいなどと思う筈が無かった。
やがては季節が変わり、さらにもう一度、季節は変わる。そして、初めてギンコの方から、化野を誘ったのは、春だった。
続
次で終わりますね、とか書いたような気がしますが、気のせいですよね。そんな言葉を見たようなする方が居たら、それも気のせいだと思います。あの時の私は、冷静じゃなかったのです。そして次回で終わるとも思えない。
エッチするだけで、一話近く使うだろお前、初エッチなんだぞ分かってるだろうがオラぁぁぁぁぁぁぁ、って感じです。
ギンコから誘ったデートは、どこ行くんだろうねぇ。待つぞ、次回(書ける日まで)
2016/10/23
