Flower Flowers 21
「着信気付いたの、七夕町についてからでさぁ。鳥渡里はどこも圏外だから、俺、気付かなかったんだよね。それがどうしてこうなったのかは、正直よく分かんないけど。先生、ギンコに会いに来てたんだ?」
ギンコの吸い終えた煙草を、コーヒーの空缶に捨てさせて、イサザはにこにこと妙に機嫌がいい。
「別に俺を訪ねてきたわけじゃない」
ギンコは階段に座ったまま、気の無い返事をする。隠すほどのことじゃないから、知られたって構わない、そんな顔だった。それを眺めながら、イサザは更に軽口を、ひとつ。
「ちょっとさ、先生の寝顔、見てみたいなぁ、とか」
すると、新しい煙草に火を灯しながら、ギンコがちらり、不機嫌そうな顔を見せた。
「…ノンケの先生が嫌がるようなこと、しないんじゃなかったのか?」
「え?」
言われたイサザは、一瞬なんのことなのか分からなくて、そういやそんなこと言ったかも、と、おぼろげに思い出せたのは、もう随分前の記憶だ。
「あー。そういや言ったかも。よく、覚えてるね」
「思い出したんなら、しないでやりゃいい」
言い終えるか終えないかのうちに、ギンコは立ち上って階段を上がっていく。寝ているのだろう化野と、今、部屋に戻るギンコ。二人でいるのを、邪魔するなって意味だと、イサザはしたいように解釈して満面の笑みになった。
「そーだね、そうしとく。でもなー、ここ、俺の部屋なんだけどなー」
からかうようなイサザの声と、随分静かに開閉した部屋のドアの音が重なった。おどけて肩をひょいと竦めて、イサザは数段登りかけていた階段を下りる。
「しゃーない、先生の為だ。適当にその辺、散歩してくっかぁ」
山登ってきて疲れてんのに、文句も言わず、俺って友達想いだな、などと、イサザは自分で自分を褒めておいた。
「でも、ま、二人のこと、応援するって約束したし?」
寝起きはあまり、すっきりしてる方じゃない。医者という職業柄、目覚ましの音や、ケータイの呼び出しで起きた時、すぐに頭が動くのは、もう慣れのようなものだけど。
何に催促されるわけでもなく目覚めた時は、少し頭がぼうっとして、寝ぼけておかしなことをしてしまう、なんてこともあるぐらいだ。
「ん…」
まだ半分眠ったままで身じろいだ化野は、ぎし、と軋む音を聞いた。あぁ、このベッドも随分使っているから、軋みぐらいはするかもな。そんなことを思いながら、片手で布団の上をひとなで、ふたなで。
今何時だろう、今日は何曜日だっけ。目覚ましが鳴らないってことは、まだ早いか、それとも休みの日だったかな?
いつも枕元に置くスマホを手に取ろうと、何も無いところを、さらに片手がいったりきたり。中々目的のものに手が触れないので、彼はようやっと目を開けた。そして、目の前に見えた壁に、小さく目をしばたく。
あれ?
どこ、だっけ。ここ…。ホテル?
出張は行ったけど、でも。
化野は寝返りを打ち、それと同時に分かってきた。此処はイサザの部屋だ。もう何度も上がらせて貰ったことがある。低い天井の、狭い部屋。まだぼんやりしながら、彼はゆっくり視線を巡らせた。天井、向こう側の壁、ダイニングのテーブルや机へ。そうして順に目で辿って、自分に案外近い場所へは、最後に視線が辿り着いた。
もう、夕暮れに近いのか、少し暗くなった部屋に、ついているパソコンのディスプレイ。画面が切り替わるたびに、そこから零れる光が、室内を染めていて。そして、それを操作しているのは、体を斜めにして、床にじかに座っている…
ギンコ。
どきん、と心臓が跳ねた。その途端に、自分に何があったのか分かった。だから焦って毛布を肩まで引き上げて、もっとさらに引き上げて、目元すれすれまで覆って、でも、視線はその背中から離せなかった。
ギンコ君だ。
ど、どうしよう、動悸がおさまらない。
鼓動が邪魔で、言葉も出てこない。
いや、そもそも何を言っていいのか。
いったい何を言うべきなのか。
おはよう とか?
なんだそれ、意味が分からない。
朝じゃないのに。
じゃあ、
ありがとう とか?
いや、ありがとう、って、なんだよ。
ばくばくと、ただ心臓を騒がせて、からからに渇いていく喉。さっきまで普通だったのに、指に力が入らなくて、指どころか全身、ろくに動けない気がして、金縛りなんかとは違うけど、とにかくどうしていいのか分からなかった。
そうこうしているうちに、十分、二十分と経ってしまっている気がして、ますます焦って、気持ちの上でだけ散々足掻いて、そうしたら。
「…あんたの視線、って、まるで音でもしてるみたいだな」
ぽつん、とギンコがそんなことを言った。
「お、音……」
「あぁ、そんぐらいはっきり分かるってことさ。そんな延々人の背中見てて、面白いのかい?」
振り向く動作で、ギンコの体がディスプレイの前から動く。上端少ししか見えなかった画面の殆どが、やっと化野の目に映って、その、溢れるような緑に、化野は息を止めた。
緑。緑。淡い緑や濃い緑。黄味がかった緑、少し赤っぽい緑。緑の重なった色。緑の褪せた色、翳った色。透けている緑。透けない緑。の、無数の重なりの、風景。
「わ…」
化野が何か言い掛けた途端、ギンコの体がまた其処へ向き直り、ディスプレイはさっきよりもずっと見えなくなってしまった。矢も盾もたまらず、化野はベッドに起き上がり、服を探すも傍になく。
彼はだから、毛布を体に巻きつけて、全裸に毛布、のあんまりな格好で、這うようにしてギンコの傍まで近付いた。
「み、見せて、くれ。見たい」
「なんで。別に、ただ、何も考えずにベタに撮っただけの山の写真だぜ? 未加工で、未修正」
「い、いい、いいんだ。見せてくれ、頼むから、頼む、から」
そう言って、覗き込もうとした途端に、画面はちかりと一瞬光って、アイコンの並んだだけの、青い画面に変わってしまった。濃い色に変じたディスプレイ。部屋はその分、仄青くなる。
「…っあ……」
その瞬間の、化野の顔。眼差し。まるで、縋り付くような。ギンコは机に片肘をついて、首を軽く傾げるようにして、化野の顔を見た。
「何故、そんなに見たがる? あんたも、イサザも」
「な、なぜ、って。だって、それは、君の撮った写真じゃないか。見たいよ。見たいに決まってるよ」
「…どうして…?」
暗い中でギンコは笑っていた。ほんの薄く、嘲笑うかのように見えた。化野はその眼差しを間近で受け止め、受け止めたそのままで、短く言った。
「君の写真は、君自身だと思うから」
君を知りたいから
わかりたいから
だって、君には隠していることがあって
それを見て、知って、触れることで
そこに居る君の痛みを
どうにかしてほんの少しでも
癒せたらと、思うから
言わずとも、そこに込めた気持ちが伝わったのだろうか、ギンコは触れていたマウスから指を滑り落として、ふ、と、別の形に笑ったのだ。どこか悲しげで、力尽きたような吐息が零れる。途端にディスプレイには、消えていた写真が映し出され…。
木漏れ日の降り落ちる、緑の重なり。それが滲むように薄れ、その下から現れるのは、藍く輝く川の流れ。またそれも消え、飛び立つ渡り鳥の影を、一面に映す乾いた廃田。煌めく雫を受け止めた、美しい蜘蛛の巣や、朽ちた倒木を覆っていく苔の姿や…。
部屋が仄暗い暗いせいもあるだろうが、それでも、光の溢れるような、と、化野はそう思ったのだ。思うと同時に胸に何かが迫って、突き動かされた。それは、もう、堪えられるようなものじゃ、なかった。
「………」
化野は知らぬ間に泣いていた。時折、ほろほろと落ちる雫が、彼自身の膝に落ち、床にも滴った。
「あ、あ…あり、が…っ」
見せて貰えたお礼を、やっと言葉にした時、ギンコは化野の想いから逃げるように、床に仰向けに寝転んだ。額の上で重ねられて交差する手首。その、震えている指を、化野は静かに眺めて、そして呟く。
「……好きだよ、君の写真が…」
びくり、跳ねるようにさらに震える、ギンコの指。何かを言い掛けて、強張る口元。化野の言葉が、届いていることを意味する彼の、その小さな所作。
「あんたは…」
だが、何か言い掛けたギンコの言葉は、結局は続かなかった。外から、チリンチリン、と自転車のベルの音がして、イサザの声が窓から飛び込んできたからである。
「もぉーっ、いーいっ、かーい…っっっ」
かくれんぼの鬼のようなその言葉に、ギンコも化野も、思わず虚を突かれて固まった。追い打ちのように、階段を上がってくる音も聞こえてくる。そういえば、もう時刻は夕方だ。帰れずにいるイサザも、いい加減しびれを切らすというものだろう。
「イサザだ。時間を潰して来いって、追い払ってたから」
「え…ッッ」
近付いてくる足音に、化野は相当に焦って、そんな彼の為に、ギンコは数時間前に自分が彼から剥ぎ取った服を取って、放ってくれる。焦って前開きのシャツを頭からかぶってしまって、もたついているうちに化野は思い出した。
ベッドヘッドにぶつけて出来た、後ろ頭のたんこぶ。
撫でてくれるなんて、あの時、びっくりするようなことをギンコは言っていたけど、でも、催促なんて、まさか出来る気はしない。だから、シャツを被ったままで、化野は自分の手で、撫でてみたりした。
それでシャツから漸く顔を出すと、見ていたらしいギンコが、小さく笑っていて、化野の顔が真っ赤になる。意地が悪いのか、たまたまか、天井の照明がつけられていて、部屋はもう煌々と明るかったのだ。
「あんた、見てて飽きないな。面白い」
「お、おも…っ」
その言われようは酷い、と口篭もった途端に、とめたばかりのシャツのボタンを外され、留めなおされ。二つ分もずれて留めていたと気付いて、顔から火が出そうだった。
「…髪も、ぐしゃぐしゃだ」
ギンコの伸ばした手が、唐突に化野の髪をすいて撫でた。たんこぶのところも、そろりと。覚えていたのだろうか。顔が、近い。近すぎて、化野の動悸が、また大変なことになる。
「…ギ…ン…」
「チリンチリーンっ。もーぉ、いーいっ…」
ダメ押しのように、今度はドアのすぐ外からイサザの声。自転車のベルの音まで口真似で、面白がっている感じがひしひしと。ギンコは溜息を吐いて、するりと化野から離れた。
「…外で騒ぐな、イサザ、鍵は開いてる」
「ダ、ダメだよ俺まだ下なにも…っ」
シャツから先に着ていて、下着もまだなのに、こんなところをもしも見られてしまったら、どうしていいか分からない。
「イ、イ、イサザ君っ、もうちょっ…ま、待ってっ」
「りょぉかーいっ」
「す、すまないねっ」
くすくす、くすくす笑うイサザの声。
「すぐ…すぐ着るから…っ」
困り果ててはいても、化野の心は満たされていた。イサザもきっと、それは同じだ。そしてギンコは。かちんっ、ジッポのライターでギンコは煙草に火を灯す。ダイニングの椅子に腰を下ろした彼がこう聞いた。
「で? この程度でも、性病検査、するのかい? 先生」
少し笑いを零すような、穏やかな声だった。
さらさらと、さらさらと、山で見たあの水の流れる音が、ギンコの耳の奥で響いていた。例え、何かに堰き止められようとも、水は何処かに流れるものだ。それが、自然のなりゆくままで、つまりは、彼の心が渇き切っていなかった証なのだ。
スグロの声が、聞こえた。
『言ったろ? お前は、人形なんかじゃないんだよ』
続
次回で一区切りとしようと思っています。なんとか、タイトルに(雰囲気だけは)近付いてくれた気がしますっ。はー。どうなることかと思ったですよ。でね、次回は少し「付き合っている」っぽいことをして貰おうと思っています。楽しみねー♪
その後、第二章的なことが始まるわけですが、まだ詳しく考えてはおりませんので、頑張りますねっ。読んで下さった方、ありがとうございます、本当に! ぺこり。
2016/10/2
