Flower Flowers 19  






 
 日曜の朝から、一体、何度イサザの番号をコールしているんだろう。諦め切れない自分を苦笑しながら、化野はまたスマホを手に取る。ホテルを出る前と、電車の待ち時間、乗り換えの合間にも一度。

 土曜は学会。日曜もその関係の懇親会が夕方からある筈で、二日間まるまる拘束されるからと、化野は仕方なく、例の集まりの参加を諦めていたのに。

 一番偉い先生が、急用で来られなくなった途端に、二日目の予定が掻き消されてあいてしまったのだ。その連絡が来たのが朝の九時。夕べから分かっていたら、と悔しがっても仕方ない。仕方ないが、でも諦め切れなくて、化野はついついまたイサザの番号を呼び出す。

 けれど、聞こえてくるのはお決まりの、あれ。

『お掛けになった電話番号は、ただいま、電波の届かないところに…』

「だめ、か…」

 もう今頃は、あの山の中をみんなで歩いていて、だからずっと朝から電波が届かないんだ。あぁ、行きたかったなぁ。

 もう七夕町の駅に着いてしまっていて、軽く走りながらも呼び続けていたから、そこの角を曲がれば、もうイサザのアパートが見える。化野はとうとう走るのをやめ、それでも往生際悪く、もう何度も来たことのあるアパートの階段を上がっていく。

 居ないに決まってるよな。じゃあ、帰って来た頃にでも電話して、どんなだったか聞けば、きっとイサザ君は詳しく教えてくれるから、それを楽しみに、もう俺も、真っ直ぐ自分の部屋へ帰って。

 そう思いながらも、指が、今までにも何度か押したことのある呼び鈴を、押す。

 ピーンポーン ………

 僅かの間の後、ガチャ、と音を立ててドアが開いたのだ。驚いて、外開きのドアの向こうを覗き込みつつ、化野は其処にいるだろう相手に話しかけ。

「イ、イサ…っ」
「イサザなら出掛けてる」
「…あ…っ」

 そこに居たのは、ギンコだった。

 考えてみたらそうだ。この部屋で会ったことが一度も無いだけで、ここは彼の部屋でもあるのだ。でも、居るなんて、欠片も思ってなくて、化野は至近距離でギンコの顔を見たまま凍った。

「……家主にしか用がなかったんなら、生憎だけどな」

 開いたドアを上げた片肘で支えながら、ギンコは軽く首を傾げて見せる。唇が、うっすら笑って見えて、その形と、自分に真っ直ぐ向けられた眼差しに、化野は何の言葉も出せなくなってしまっていた。ギンコはお構いなしに、もう一言二言言葉を継ぐ。

「あんたも今日、例の集まりに行ってるもんだと思ってた。…そういや、イサザがなんか言ってた気もするな。先生は仕事で来れなくて、残念がってた、とか、なんとか」
「そ、う…なんだ、けど……。あ、の」
「あがるかい?」

 軽く身を斜めにして、それでも通り抜けられるだけの間は開けずに、ギンコはそう言って、視線だけを一瞬奥へと揺らした。その目に引き寄せられるように、化野の体が小さく震える。

「…え…っ」
「それとも、あんたはいつも、イサザのいる時にだけきてるから、そういう気にならないかい…?」

 言い終えて、一秒、二秒、化野が動けずにいたら、ギンコはあっさりドアの前から身を引いた。彼がそこを退くと、ドアはゆっくり、閉まっていってしまう。意識するも何もなく、今度は化野の片手がそのドアにかかっていた。

「あ、そのっ、あがっ…て、い、いい…なら…っ」
「そういう社交辞令は、俺は言わねぇよ」

 部屋の奥へと向かう後ろ姿が、軽い吐息の混じったような声で、そう言った。重ねて『上がれ』とは言わない。あとは、自分で決めろと言うように、もうギンコ自身の姿も見えないのだ。

 ずるい、と化野は思っていた。まるで、恋をして相手に振り回されてしまう、若い女の子みたいに、だ。振り回されながら、それでも、付いて行くしかない切なさが、胸を鷲掴んで揺さ振っている。そんなどうでもいいような言い方までされて、それでも。それでも。

「お邪魔、し、します…っ」

 上擦りながらもそう言って化野が入っていくと、ギンコはそれまでしていたのだろう作業に、もう戻っていた。奥に置かれたパソコンテーブルの前に、片膝抱きの恰好で座り、立てた膝の上に顎を乗せている。

 ディスプレイの小さなパソコンだったが、映し出されている写真に、化野の目は釘付けになった。

「それ、あの…ダムの?」
「あぁ、そうだ。ダムって言っても、ダムの形になんかなってやしねぇけどな。ほんの一部、工事がこうして、ちゃんと進んでるって見せかけるためにだけ、それっぽい形を作ったんじゃないか、ってね」
「酷い、んだね…」

 化野はギンコに近付いて、そのすぐ横に膝をつく。そして、画面の中で朽ちかけている、無意味なコンクリの塊に見入った。

「そんな場所もあったんだ。気付かなかった。あんなに何度も行ったのに。俺は、いったい何を見…」
「……」
「…っ!」
 
 化野の方へ、不意に首を捩じって、ギンコは唐突に彼の唇を塞いだ。ほんの一瞬だけだったが、かすめる感じではなく、軽く吸うように。

「あの爺さん、人使いが荒くてな。俺は紹介しただけだってのに、資料にあっちもこっちも撮って来い、って。お蔭であれから何回行ったか。崩れかけた場所とか、少なくなくてさ、この間なんか、滑落しかかって、ここ」

 ざっくりと羽織るように聞いてたシャツの袖を、ギンコが雑にまくって、酷く擦りむいた箇所を化野に見せてきた。見せられるまま、カクン、と首を下に向け、怪我を見た化野が案じてギンコの顔を見た途端に、近付いた顔が、重なって、また。

 ちゅ、…と。

「っ、ギ、ン…っ」

 真っ赤になった化野に、ギンコは言ったのだ。

「こういうこと。あんたは、何でも言わなきゃわかんないのかもな。これでも警告してるんだぜ? このまま居たら、していい、って意味に取るぜ、って」
「こ、こんな昼間から…っ?」
「夜ならいつでも、どこででもイイって?」
「そういう、意味じゃな…っ。あ…ッ」

 片腕を、痛むほど乱暴に引かれ、一瞬で床に組み敷かれた。彼の顔の両側に手を置いたギンコが、真上から化野の目を覗き込んでくる。彼が着ている上着の、元から開いていた前を、その左胸に置いた手をずらすことで、ギンコの片手が広げていくのだ。シャツ越しのリアルな感触で、抵抗の意思が削がれる。

「そ、そう、だ。ギンコ君、話したいことが、あ、あって…っ」
「どんな?」

 ボタンが真ん中あたりから一つ、外された。それを止めようと動いた化野の片手に、ギンコの残るもう一方の手が、やんわりと重ねられる。それだけで、もう動かせなくなった。ボタンはもう一つ、外される。
開いた隙間から入り込んだ指が、もう直に肌に届いていて。

「…君が看取った、あの老人…の…っ」
「あぁ」
「ふ…っ、あッ…。や、やっぱり、ダメだよ、ギンコ君。こんなことをしながら話すことじゃないんだ。だから、やめ…っ」
「……」

 正直、聞いては貰えないだろうと思っていたが、ギンコはあっさり化野の上から退いた。そのまま立ち上って、ダイニングテーブルの方へ行き、置かれていた煙草とライターを取って、さらに部屋の逆奥まで行ってしまう。小さなキッチンに腰で寄り掛かり、煙草に火を付けながら、眇めた目で彼は、やっと化野を見た。

「もう、済んだことだろ…? 俺は居合わせただけで、ろくに関わっちゃいねぇ」
「遺族の方が、お礼を言いたいって、この間」
「あぁ、その話なら、イサザも言ってたけどな」

 白い煙が、彼の唇から吐き出される。ふい、と彼は横を向いて、殆ど音になっていない声の大きさで、言った。

「親しくも無い誰かの死を看取るのに、心の一つも動かない人間に、礼、とか、意味はないだろ? 自己満足する為だけなら、あんたから、俺が恐縮して聞いてたって、言っといてくれ」

 その、表情の無い人形めいた顔を、化野は少なからずショックを感じながら見たが、じんわりと浮いてきた不快さは、一瞬にして掻き消えた。あの時、ギンコは言ったのだ。

 謝るな。
 と。
 本当のことを言え。
 とも。

 だから、化野は笑って、こう言った。

「幾らなんでもそれは嘘だって、俺にも、ちゃんと分かるよ」
「………」

 ギンコは煙草を咥えたままで、軽く項垂れて、片手で髪をゆっくりと掻き上げた。そうする為に、さらに項垂れるその仕草が、顔を隠すためのものであるように思えてならない。指の隙間から、ギンコが自分を見ていることを化野は気付いた。なんて辛そうな目なのかと、そう思ったのだ。

 誰かの死に目に、
 自分だけが傍にいたことを、
 これ以上、人と話したくない。
 冷たく固くなっていく体を、
 もう二度と、温もりの灯らない体を、
 やっと、少し
 忘れかけているのに。

 それでも、ギンコは化野に、帰れ、とは言わなかった。煙草を一本吸い終えて、その後、彼の方が部屋を出て行きそうになり、流石に困って化野がそれを止めたのだ。

「そのまま出掛けられたら、幾らなんでも俺が困るから」
「…行かせた方が良かったんじゃねぇのか? さっきのを再開しちまったら、今度は止まらないと思うぜ?」

 揶揄したギンコを化野は真っ直ぐに見る。そして彼は、このうえないほど優しく笑って、まだ外されていなかったボタンを一つ、自分の指で外した。

「…構わないよ。前に言った気持ちは、少しも変わっていないから」







 

  




 随分間が開いてしまいましたが、楽しく書けましたですー。余裕がない癖に、無理に余裕を纏って、性的にわっるいヤツのそぶりをしているギンコさんのことを、先生は見抜けるようになっちゃいましたね。

 いや、わっるいヤツなのはフリじゃなくて、相手によってはほんとに最っ低で、悪いやつなんだけどさ。君は本当はこんなに優しいじゃないか、って、余裕の衣も嘘の衣も、眼差しと言葉で剥がしにかかる化野先生が、正直ギンコは怖いだろうよ。

 怖いと意識することも、恐らく怖いんじゃないだろうか。

 自分を醜い、と認識しているヒトは、根が真っ直ぐであればあるほど、臆病なのかもしれませんです。はい。そんなギンコが可愛い、スグロの気持ちが分かる気がしたのでした。

 では、また次回っっ。




2016/07/10