Flower Flowers 17  






「ちょっとあんたさぁ、年寄りを労わりなよぉ」

 後ろからそんなことを言われて、イサザはくるりと振り向いた。額に汗して、そこに居るのは、自分の倍は年のいっているおばさんだ。駅の傍の元は商店だった家に住んでいる人で、この前イサザが地図を貸した人でもある。

 木漏れ日で顔をまだらにしながら、彼は笑って足を止めた。

「最初は俺のこと、だらしないって言ってたのに」
「ふぅ、年を取るって嫌だねぇ、まだ疲れがとれてないんだよ。にしてもあんた、昨日はもうちょっと優しかったじゃないか」

 そう言われて、イサザは昨日を思い出す。今歩いているのと同じ道を、二人で山頂まで歩き通したのだ。地図を見、道を探しながらゆっくり登ったせいか、こんなに道が急には思えていなかったが。

「じゃあさっ、おぶったげよか、里代さん」

 名前を呼んでそう言うと、慌てて両手を振って、里代はそれを辞退する。 

「あんたそんなひょろい体して、潰れたらあたしが恥ずかしいからやだよ、遠慮するよっ」

 例え倍の年でも、女の人だよなぁ、と、イサザはちょっと里代のことを可愛く思った。丁度石がごろごろと歩き難い道だったから、彼が差し伸べた手に、里代は素直につかまった。目的の場所は、まだまだずっと先である。

 彼は後ろを振り返り、視野いっぱいに広がる草木や空を眺め、丁度吹いてきた風に目を細めた。吸い込んだ息を吐く時、自然と言葉が零れる。

「あぁ、やっばりここは気持ちいいよ、とう…」

 父さん、とそのまま続きそうになった声を、途中で飲んで何も無かったような顔をしたが、すぐ傍にいる里代には気付かれてしまったようだった。

「お父さんも、きっとあんたと来てる」

 腹を割って話したわけではないが、昨日二人でここを歩いた時に、里代とイサザはすっかり気が合ってしまった。その事が、しこりの取れたように気持ちを楽にさせたし、それは里代も同じなのだろう。

「それでさ、よかったって思って笑ってるさね。そうだとあたしも、嬉しい」
「へへ」

 照れ隠しに笑ったが、不意に涙が滲みそうになって、イサザは視線を逸らし、少し離れて後ろに続く、小さな二人に声を掛けた。

「二人とも、だいじょうぶ? 疲れたらちゃんというんだよ?」
「だいじょうぶーっ」

 元気よく返事をしたのは男の子の悠で、悠に手を引かれながら、ふうふうと息をつき、それでもしっかり頷いたのはヨウコちゃん。

 まだ小さな子供だというのに、悠のエスコートぶりは立派なもので、道に枝でも転がっていると、ヨウコが通る前に拾って避けてやる徹底ぶりである。女の子扱いされるのが恥ずかしいのか、ヨウコのほっぺたが赤くて可愛い。

「ヨーコちゃん」
「んー、なぁにー?」

 暫く合わないうちに、この子は少し、おねえさんになったみたいだ。お母さんにべったりだったのに、今日はこんなふうに、初めて会った男の子と一緒に歩いていて、それに…彼女は今、小さなリュック一つ背負っていない。イサザは少し迷ったが、思い切って聞いてみた。

「今日はクマちゃんは、お母さんが持ってるの?」
「ううん、お山は危ないかもしれないから、今日はおうちにいるのっ。帰ったらヨーコが今日のこと話してあげるんだーっ」
「そうなんだ。じゃあ、いっぱい楽しいこと見つけなきゃね」

 凄い、と思った。それで子供たちの後ろを歩く、お母さんたちの方を見たら、ヨウコのお母さんが、ちらりと自分のバックを開けて、そこに隠してあるクマの耳だけ見せてくれた。もしも発作が起こったら、すぐに出してあげるためだろうけれど。

 それでも、ずっと離さず抱えていた時のことを思えば、そんなに「よく」なったのだと思わずにいられない。ヨウコのお母さんの隣で、悠のお母さんが額の汗を拭き拭き笑っていた。

「ねぇ。子供は凄いって思わない? ミツコさん。成長し始めたら、こっちがちょっと待ってって思ったって、止まりゃしないのよね。うちの悠、ヨウコちゃんの手を引いてなかったら、きっと走って登って行っちゃうんだけど。ほんとに、やんちゃで困るんだから」
「瑞希さん、実はね。うちのヨウコ、今日はいつもよりずーっと大人しいの。きっと悠君がいるから。女の子女の子しちゃってるのよ。あの子、いつもはもっと…」

 母親同士ですっきり意気投合して、名前を呼び合い、昔からの友達みたいに笑い合っている。もう息が上がって大変そうなのに、それでもずっと喋りっぱなしなのが、イサザから見たらおかしかった。

「そろそろ水分補給、しとこう、みんな! それぞれ手近な日陰に入ってーっ」

 大声でそう言ってから、遠足の引率の先生って、こんな感じかなぁ。などと、イサザは思う。そして自分も、里代の隣で日陰に座り、彼女の差し出す水筒の蓋を受け取った。

 冷えたスポーツドリンクをゆっくり飲んで、すうっと引いていく汗を心地よく思っていたら、里代が気遣わしそうに遠くを見ている。

「なんたっけ、あの人、ドラネコさん、だったっけ? 遅いじゃないか、大丈夫なのかい? 」
「ぶっ、ね、猫じゃないよ。ドラ爺。仇名だろうけどさ」

 本名を知らないながらも、笑ってそう訂正し、イサザもちょっと腰を上げて、ずっと下の方の道を眺めた。随分遠くまで見えるが、最後尾の二人の姿が見えない。ドラ爺と、もう一人。

「ちょっと俺、見てく…」
「大丈夫」

 そう請け負ったのは悠の母親の瑞希だ。

「うちの人、学生の時、山岳部だったんですって。私もついこのあいだ聞いたばかりなんだけど」
「あぁ、そうなんだ」

 何しろドラ爺が今日の最高齢だ。元気そうに見えても、登山となると話は別だろう。

「だったらもしドラ爺がヘタってても、安心だね。心強いや。なら少しゆっくり休んで、待っていようっ」

 草の上に頓着せずに仰向けになるイサザを見て、最初にヨウコが、そして悠もすぐに真似をした。次に里代もごろんと横になり、慣れない仕草でミツコも瑞希もそれへと習う。草の匂いがして、頭上には常緑樹の葉が広がっていて、その向こうの青空は眩しかった。

「心が洗われるよう、って、こういうのを言うのかな…」

 ぽつりと言った言葉が、誰の言葉かよく分からなかったのは、誰もがきっと、近いことを思っていたからだろう。




 その頃、心配されていたドラ爺は、呑気な調子で己の歩んでいる道を眺めていた。共にいる悠の父親は、比べて随分真面目な様子だ。ドラ爺が大きくコピーした地図を、彼が手帳を開いてペンを持ち、随時必要なことを書き入れたり書き取ったりしている。

 手帳の裏表紙に小さく「川野辺造園工業」の文字。

「ドラ爺さん。ここ、どうでしょうね。雨のあとなんか、かなり滑ると思いますよ。枕木を埋め込むかして、階段状にした方が」
「んー。川野辺さんの言うのは分るがね。なるべくいじりたくないんだよな。亡くなったじいさんの言葉を尊重せんと、だよ」

 実はさっきから、ドラ爺はこの手の言葉をずっと繰り返している。造園業を営んでいる川野辺は、ペンのお尻で困ったように頭を掻いて、やっぱりさっきから繰り返している言葉を言った。

「あとで、よく検討しましょう」

 ここには手すりを付けた方がいい。こっちは立ち入り禁止にしないと駄目だ。木道を敷かないと歩かせられない。危険だ、危ない、無茶です。そして、何かあったら責任取れませんので、とも。そう言うと、決まってドラ爺はこういうのだ。

「責任は俺が取るから、それでいいなら遺書の言葉を尊重」
「だって、心や体に障害がある子供たちを、この山に連れて来るんでしょう? だったら普通以上に安全にしないと、きっと事故が」

 困り果ててそう言うと、ドラ爺は息を一つ吐き、唐突にその場にべたりと座り込んだ。そうして、ちょいちょい、と自分の隣を指差し、お前さんもここへ座れと促す。川野辺が渋々土の上に座ると、汚れるのを気にしないその様子に、ドラ爺はにっこりと笑って、尻ポケットに入れてたパウチのジュースを差し出した。

「まぁ、聞いてくれや。材料費だけ出して、後はボランティアを頼んだ俺だ。我が儘言いたくないが、さっきから言ってるのは、通さにゃならんことばかりだよ」

 そしてドラ爺はゆっくりと語る。言葉を選んでいる様子はなく、ずっと、そう言うと決めてきたかのような、静かな声だった。



 障害者ってのは、何処も特別なんかじゃぁない。欠けてはいたって、普通の人間と変わらんもんだよ。ちゃんと教えれば守らにゃならんことは守れる。言っても守らん輩は、健常者の方に多いぐらいでな。なんでか分かるかい? 

 一生懸命に約束を守り、一生懸命に欲しいもんに手を伸ばさんと、彼らは生きていくのも大変だから。気を抜いてたって、まあまあやってける、欠けたところの無い人間とは、気概も気合も、最初っから違ってるんだよ。あんたの心配も分かるが、そう特別扱いしてやりなさんな。
 
 もう一回言うが、責任は俺が取る。それからな。何度でも言うが、ここを誰より大事にしてた人が、遺書にそう書いて逝ったんだ。あんたの奥さんの祖父の言葉だ。あんたも見たろう。『鳥渡里を、どうかこのままに、守って下さい』ってな。

 そいつを守らにゃ、誰もこの山にゃ入れんよ。もしも勝手に弄ったら、それこそ事故が起こる、やもしれんし?

 …だから頼む。この山に手を入れるのは、自然の在り様のまま為せる形でだけ。どうしてもいるところには、手すりじゃなくてロープ一本。危ないところの手前に立札。それをボランティアで、な?



 言い終えて、自分の分のパウチのジュースを、ぢゅーっと啜るドラ爺に、がくりと川野辺は頭を下げた。ずっとメモしていた手帳のページを、彼は荒々しくむしり取り、それをぐしゃりと丸めてしまった。

「分りました。でも、それはうちの社員にはさせられない。もしも何かあって、胸の痛い思いをするのは俺だけでいいから、俺がやる。休みのたびにここに来て。時間はかかると思うが、それでいいですかっ」
「いいよ。俺も手伝うし。借り出せる手があったら掻き集めるから、期待しといてくれや。こう見えて、結構俺の顔は広いからよ」

 にいやりと笑ったドラ爺の顔に、疲れたような笑いを返して、川野辺は片手を差し出してくる。握手すると手の骨の軋むような力で握られた。

「分る気がします。確かに、ドラ爺さんの顔は、広そうだ」

 真っ白なワイシャツを土だらけにしながら、川野辺は仰向けに横になり、日差しを両腕で遮った。

「悠は…。うちの息子は、この山が大好きなんですよ。俺も山が凄く好きなのを、しばらくぶりに思い出した…。実は学生の頃、山岳部でね。あの頃は険しい山を」

 そこまで言って、やっと傍に気配がないことを彼は気付いた。慌てて起き上がって、振り向いた視線の遠く、とっとと先へ登っていく、随分、足取り達者な老人の姿。

「ったく、言いたいことだけ言って…。ちょっとっ、待って下さいよ。待てって!」

 敬語なんて使っていられない。そう思って彼は、急ぎその背を追い駆けた。















 ギンコも出ない、化野も出ない。だいたい予想通りです。はははーっ。こうなると思っていたのだ。でも次回は出ますので、せいぜい楽しみに書けよ自分っっっ。そうです、すっごく楽しみですっ。やっとなんですっ。

 今回せっかく名前を付けた人々ですが、多分もうあんまり出ないかもしれないっ。こんな話ですが、読んで下さった方に感謝ををををっ。ありがとうございますv



2016/05/29