Flower Flowers 16
風が吹いて、化野の髪を揺らす。頬を撫でて行く。
その場所からは、随分遠くにだけれど駅舎が見えた。駅の傍らから浅く陰ったように、細くこちらへ続いているのは、恐らく川の流れていた場所だろう。川の南には広い広いススキの原、その逆はかつての畑と田。置き捨てられ、半ば崩れた人家の姿は、空虚でやはり淋しげだった。
けれども、間を縫う川の後には、一際あざやかな緑の縁取り。あぁ、きっと川の在った場所は、地面の下に少なからず水が流れているのだろう。こうして高い場所から見て、それが初めて分かるのだ。
彼は暫し動けなかった。ただただその風景に心を吸われて、そして思っていたのだ。
ここを通ったろうか。
老人は、これを見たのだろうか。
もしも見ていないのなら、
教えなければ。
見せなければ。
だから、こうしている場合ではないのだ。足元の崩れそうなその場所で、化野はもう一度踵を返す。目を凝らし、老人の進んだ跡を必死に探した。暫し戻った後、辛うじて笹の分けられたあとを見つけ、信じてそこを一心に進んでいくと、湿った土に、今度は明らかな足跡があった。
今までも何度も見たことのある、老人の靴の跡だ。間違いない。ほっとして、でもその足跡の傍に付いた別の靴跡を見つけて、首を傾げる。彼は一人で山に入ったものと思っていたが、違っていたのか。もしもそうなら、少しは安心していいということだろうか。
いったい、誰が…。
その時、視線の向こうで何かが動いたように思ったのだ。すぐ近くではない。まだ、幾つも木々が折り重なる遠く。化野は懸命に目を凝らす。そして、それが知っている相手だと気付き、声を発する前に、その背に誰が背負われているのかを知った。
「…ぁ……」
駆け寄らなかったのも、それきり声が出なくなったのも、すぐに気付いてしまったからだった。
しっかりと背負われ、運ばれている「ひと」の脚も腕も、ゆらゆらと揺れていた。横へ向けられたまま、背負うものの肩に乗せられている頭も、同じように、ゆら、ゆらと。
「…あぁ…」
助けられなかった。
医者だというのに、俺は。
何も出来なかった。
するべきこともせず、俺は。
ただ、死なせ…。
全身から力が抜けて、その場に座り込みそうになった化野に、ギンコは、抑揚の無い声でこう言ったのだ。冷たい声だった。呆れかえったような。でもその声が、化野に教えてくれた。
「いったい、何しに来たんだ、あんた。…この先へ行きなよ。距離にして、ざっと650メートル。あんたがこのじいさんに触れていいのは、その後だ」
「先、へ…」
聞いた途端に、力の抜け掛けた体に力が戻った。踏み堪え、彼は必死で歩いた。枝が頬をかすめた。足が滑って膝をついた。汗びっしょりで、でも立ち止まらずに。そして、そこで見たものに、目を見開いた。
どくん、どくんと心臓が煩い。水音だけを聞きたいのに。せせらぎと綾なす、草木の囁きを、鳥の囀りを聞きたいのに、鼓動と己の息遣いが煩くて、泣きそうになる。そうだ、きっと、老人もそう思っただろう。
此処を感じる為に、己の五感のすべてを研ぎ澄ませ、それが出来たら、もう何もかもが満ち足りて、歓びに包まれ…。
化野は草に掴まり、精一杯手を伸べて、その流れに指を浸した。刺すような冷たささえとても嬉しくて、泣き笑いのような、笑みが零れた。
ほんの数分で風景を目に焼き付けて、今にも転がり落ちそうな足取りで、化野は斜面を戻る。転びそうになりながら戻ってきた化野が、ギンコの目の前で歩調を緩め、老人の顔をそっと覗き込んだ。
「よかった。笑ってる…」
「そうかい…?」
ギンコは老人の顔を見ていないから、彼が笑っているかどうかなど、知らないのだ。そんなことは知る筈もない化野は、ひと目見れば分かるのに、と不思議に思ったが、今はそれよりもギンコに頼みたいことがあった。
「背負うの替わる、って言いたいところなんだけど」
「…とても無理だろうな、あんた、膝が震えてる」
「だから、頼みたい。おじいさんに、見せたいものがあるんだよ」
化野はそう言って、ここへ来る前に自分が足を止めたところへと、ギンコと老人を連れて向かった。ただ山を下りる経路をゆくよりもずっと遠回りだと知っていたが、どうしても、そうしたかったのだ。
「ねぇ、あそこ、川があるの?」
父親に背負われた子供が、遠くを指差してそう言った。その方向をちらっとだけ見て、母親が応えた。今は、早く先へ進むことしか考えられない。
「ここに川は無いわよ。昔は在ったらしいけど、ずっと前、ダム建設工事が中断されて」
「でも、川のとおってる道があるよ? ほら、くねくね、って。僕、前に山に絵をかきに行った時、おんなじようなの見たもん」
「春にあった写生会のことね。そうなの?」
なんだか不思議だけど子供の言うことだから、と小さく苦笑しながら、斜面をまた一歩登り掛けた母親に、その子を背負ったままの父親が、ふと気付いて教えた。
「あそこらへんのことじゃないか? ほら、ススキや畑が途切れているところが、細くて曲がりくねった通り道みたいに見えるし、よく見れば添うように、うっすら草が茂っている」
「あなた、お願いよ、今は前を見て。転んだら大変よ」
「…そうだよな、ごめん」
つい、少しきつい口調で言ってしまって、母親が後悔のしるしに後ろを振り向く。子供が言い、夫が気付いたのはどこの事だろうと、ススキ野原や荒れた田畑の跡を眺め、ふと彼女の足が止まった。
「わたし…」
「ん? どうした?」
「どうしたの? お母さん」
すっかり足を止めてしまった妻に、夫も足を止めて、そこから広く見渡せる里の姿を再び眺めた。
「この風景、見せて貰ったことがある。凄く小さい頃だと思うけど。そうよ、悠くらいの時だと思う。おじいちゃんに背負われて、此処から見たの」
懐かしくて、懐かし過ぎて、どうしてか涙が出そうになった。
「悠ってば、凄いのね。ほんとにあれは、川なんだわ」
「おかぁさん、悠、凄い?」
「すごいすごいっ。おじいちゃんにも褒めて貰わなきゃあねっ」
そう言って笑った、すぐ後のことだった。子と、その子を背負う夫と、寄り添う妻とで、息切らしながら先を進む三人と、まるで鏡に映すように、老人と、老人を背負う男と、その傍に添うもう一人の男が出会ったのだ。
「じいちゃんっ」
嬉しそうに子供がそう言って、負ぶわれたまま元気に足を揺らす。下ろしてくれと言いたげに、父親の肩を掴んで揺さ振る。でも、母親も父親も、凍り付いたように動かず、たっぷり一分過ぎた頃、涙声が、一つきり。
「お、おじい…ちゃ…」
誰かが何かを言わなくとも、伝わってしまった本当のこと。老人の魂はもう、その体の中には無いのだ。
「…医者の私が容体を知っていながら、本当に」
「謝るな」
化野が言い掛けた言葉を、ギンコは静かに遮った。小さな声だったのに、言葉がもう続けられなくて、そうする間に、夫婦が近付き、老人の顔を間近から覗き込む。柔らかく目を閉じて、目元で口元で、深く笑んでいるその死に顔を。
「ちゃんと、本当のことを言えよ?」
それもギンコの言葉だった。化野は息を落ち着けて、言葉を選ぼうとしたが、結局はそれもやめて、ただ真っ直ぐに言った。
「彼は、一番見たかったものをちゃんと見つけたんです、見たんです。だから…」
こんなことを医者の俺が言うのは、本当はいけないことだと分かってる。それでもそれは言葉になった。それが老人の願いだと思ったからだった。
「だから笑って、よかったって、言ってください」
「えぇ、えぇ…」
「……」
そうしたいのに言葉が詰まって、何も言えない大人二人泣き顔を、不思議そうに交互に見ていた子供が、にこにこと笑ってこう言った。寝ているのを起こさないようにと思ってだろう、内緒話のような小さな声だった。
「じいちゃん、いいことあったんだね、よかったね」
さやさやさやさやと、草が鳴った。川のせせらぎのようだと、そこにいる皆で思った。
続
分かっては居たけれど、難しいシーンです。書き逃したこともありますが、それはこのあとに続いていくシーンに盛り込む方針が浮かんできたので、なんとかなりそうだなって、ほっとしております。
相も変わらず無愛想なギンコさんですが、言うべきことはこうして言葉にするのですね。きっと化野先生の心に深く刻まれた出来事だったと思うのです。途切れた命と、まだ燃えている命。そしてその命の「使い方」。
まだギンコは戸惑いのさなかだけれど、これからどのようになっていくのかしら。次回も頑張りますよ!
16/05/05
