Flower Flowers 15  






 もう随分山道を歩いた。本屋の店主から借り受けた地図を、時折大事に開いては、迷わぬように慎重に化野は進んでいく。靴がウォーキングシューズだから、最初の時よりはずっと適しているけど、道はあの時よりかなり険しい。

 それでも、誰かが確かに歩いた後だと感じる。少し倒れた足元の草が、それを物語っていた。だから、道はちゃんと合っている。

 見つけさせてくれ、どうか。

 でも、見つけてどうするのか。そんなことは何も考えていない。これほど行きたがっているものを、こんなことは命に関わるからと、引き止めて引き返させるのか? きっと、自分はそうすまい。だから間に合わせてくれ。俺に、彼を見つけさせてくれ。

 地図に目を落すのはもう何度目か。川であっただろう、乾いた広い溝を己の進む道の横に見ながら、化野は祈るような気持ちで、登り続けて、それを見つけた。

「道しるべ、だ」

 朽ちて折れた道標に「渡来川」とある。道の端の岩に寄せかけられたその傍にも、真新しい足跡。けれど惜しいことに、その道しるべは行くべき方角を示すものではなかった。この先どちらへ行けばいいのかは分からない。

 そしてそのすぐ先で、化野は足を止めて、迷うようにあたりを見渡した。これまで歩いてきた細い道が、突然抉られたように途切れていたからである。草や苔は生えていたが、これまでの地面の形とは明らかに違っている。

「重機の、痕…?」

 まるで傷跡のような…。あぁ、これが、人のしたことなのだ。山を、地面を抉り好き勝手にしようとして、あげく途中で放り出した。その、未だに癒えることの無い傷痕。思わず屈んで、手のひらで、抉れた地面を撫でてから、行くべき方向を確かめるべく、化野はまた地図を開いた。

 そうしながら進んでいき、生い茂った背の高い草を掻き分けて、ぎくりと彼は息を飲む。進めない。まるで崖を作ったかのように、深く山は削られて、化野の進みたい道は、そこにはもう無かった。

「…ここから先は、無理だ……」
 
 膝から力が抜けそうになり、傍らの木に化野は捕まった。でも老人の姿はそこにも無く、恐ろしい想像をしながら崖ぎりぎりまで行って覗き込んだが、そこにも姿は無い。ここへきて、手掛かりが無くなったことには落胆したが、萎れている場合ではない。

「きっと、何処かで道を変えたんだ。戻りながら探すしか…」

 踵を返し少し歩いてから、何故か化野はもう一度崖の方を振り向いた。まるで呼ばれでもしたように、そこへ戻って、さっきは崖の下しか見なかった視野を、今度は広く、大きく取る。

「………あぁ…」

 知らず零れる嘆息。崖に片半身を向けた彼が、そこから見たのは、鳥渡里の、すべてだった。





「歩けるか、爺さん」
「歩くとも。進むとも。その為に来たんだ。その為だけに」

 老人の目に、また光が宿っていた。命を出し惜しみする意味など、彼にはもう無い。そしてそれは不幸なことでは無いと、ギンコは知っている。

 彼は山頂の方向を見上げて、重なっている木々の枝の濃さを見た。このまま山を回り込むようにして進んでも、視野が開けるまでは、恐らくあとほんの少し。

 枝が風に揺れて、それが山の音だった。足が枯れ葉を踏む音も、青々とした下草を踏む音もまた、山の音だ。幾種もの鳥が鳴いている。羽ばたきの音も其処此処から聞こえる。それらがすべて山の音で、山の息吹だ。老人は歩きながら目を細め、耳を欹てている。

 飢え餓えるような彼の五感が、何を欲しているか、ギンコも分かっていた。

 暫し後、少し先を歩いていたギンコがぴたりと脚を止める。目を閉じ、風の音に混じるそれを聞き分け、そして空気に混じるその気配を吸った。

「爺さん」

 脚を止めたまま、ギンコは呼んだ。

「…此処からは、あんたが先を歩け。笹薮が凄くて、俺じゃぁ方角が分らない」
「………」

 老人は何かを言おうとし、けれど向けられたままのギンコの背を見て、言い掛けた言葉を飲んだ。けして転んだりするまいと、ほんのひとかけすら体力を無駄にするまいと、逸る心を抑えつつ、老人は慎重に歩いた。

 足元に転げている石、落ちている枝の一つずつを見て、つまずかぬよう彼は一心不乱だ。右からも左からも突き出ている枝や笹の、ひとつずつに手を掛けて避けて、気持ちを落ち着かせるため、深く呼吸しながら、その呼吸を自分で数えている。

 ひとぉつ、ふたぁつ、みぃっつ、
 よーっつ、いつぅつ、むーっつ…

 一歩ごとの歩みもそれへ合わせるようにして、それを十まで、何度繰り返したろうか。そして、とうとう、それは聞こえてきたのだ。

 水の、音。

「あ、あぁ…あ…」
「焦るな。逃げやしない」

 まだ見えない場所を見ようと顔を上げ、すぐにも見たがる老人の脚が縺れる。いつでも支えられるように、後ろに居ながらにして、ギンコは彼を支えようとはしなかった。老人は最後まで、一人で、目的を果たすのだ。

「わ…」

 そして、老人は、打たれたように立ち竦んだ。声が零れる、涙もまた、ほろりほろり、零れ落ちた。

「渡来…川よ…。よく…。よくぞ……」

 ギンコも、彼の後ろからそこへと近付き、見たのだ。

 折り重なった笹の間から、敷き詰められた苔の下からも、確かに水が、溢れていた。緩い緑の斜面が、疎らに若い木を生やしながらも、そこから先へ広く続いており、その草の下にも水が流れて、集まっているのが分かる。

 重機で酷く抉られたらしい土からは、倒れかけた木々の根が突き出していたが、その剥き出しの根の先は、滔々と流れる水に浸っていて、傾きながらも木は生きている。空気にも水気が多いと分かるのだ。辺りの木々や植物は、どれも恵みを受けて一際瑞々しく生き生きとしていた。

 そうやって集まった水が流れとなり、涼やかな水の音が聞こえていた。

 その場所は水の湧く泉であり、湧き出した水が溜まる池でもあり、そこから流れ出す水は川となっていた。確かにそこが、渡来川の流れの、始まりであったのだ。

「川よ…。俺らが…川よ……」

 老人はしわがれた声でそう言った。彼の体はまろびかけたが何とか水の手前で踏みとどまる。今にも転びそうになりながら、老人の両足はそれでもしっかりと草を踏み、土を踏み締めていた。

 目の前に開けた光景の、あまりの美しさに、ギンコもまた言葉を失っていた。里とは反対側に広がる緩やかな斜面に、水が、川が、豊かに流れ落ちていたのだ。

「そうだ…。そうに、決まっていたさ…。たった一滴の雫も、細く消えそうな流れも、生まれ出でたからには、必ず、流れてゆく行き先を持つんだよ…」

 そこは鳥渡里の山の北。日が落ちる時、真っ先に山の影になる側であり、冬へと向かう季節の進みの、もっとも早い場所だ。紅と橙、黄、それぞれと混じって未だに残る緑が、まるで錦をおりなすような、美事な紅葉。

 湧き出でてすぐの川の流れに、とりどりの色が、影と混ざりながら落ちて揺れていた。それらすべてを含む目の前の光景が、まるで生きた絵のようだと、ギンコは思った。

 きれいだ、と、ギンコは言い掛けたが、言葉は出ない。老人の時を邪魔したくなかったからだ。だから今は、ただ見つめて、見つめるだけでいた。

「これが…。あぁ、これが、鳥渡里…だ…。われらの、里だ…」

 さいごに老人は、深く深く笑む。失くしたと思ったものが、少しも失われては居なかったのだと、魂のすべてでそれを見、吸い、掻き抱いて、そして…。


 ゆっくり。
 ゆっくりと。

 老人の時は…。
  


 見届けて、ギンコはカバンの中からカメラを取り出し、焦らず、丁寧にすべてを整えて、沢山の写真を撮った。足場を気にしながら、そこで撮れるすべてを、時間をかけてカメラに収めていき、やがてはカメラを静かに、自分の胸まで下ろした。

 そしてそのあと、彼は老人の傍に行き、木の幹にもたれて座り、もう動かない体に触れた。びくり、と一瞬、ギンコの体は強張っただろうか。

 それでも、その後は澱みなく、老人の体を出来うる限りそっと抱え、己の背に負う。動かない老人の体は重かったが、その重みも固さも、既に熱を失った冷たさをも、彼は静かに受け止めた。

 老人が最後に見た風景を、ギンコは「ひとり」で、もう一度見て、呟く。

「スグロ…。スグロ…。…なぁ?」

 これで、
 よかったのか?
 教えろよ。
 …なぁ。


 どこか、幼子のような、声だった。














 風景を、うまく表現できなくて、少し、悔しいです。けれど表し切れてはいないものの、死してゆく老人が、とても嬉しそうで満ち足りていて、惑はそれが満足なのでした。あの老人の見たものは、きっととても、美しく貴いものだったんだろうな。

 そんなふうに、思うのです。

 あー、化野とギンコが会うシーンまで行かなかったー。でも仕方ないなって思った。それにさ、この場合、二人が久々の再会だけに浸るようなシーンでは、ないですしね。

 うん、そうなのよ。

 次回も頑張って書きます。ありがとうございました。



2016/04/18