Flower Flowers 14
「間に合って…」
山を見ていた視線を、夫であるらしい男に向けて、女がそう言った。男は少し困ったように、けれど支えるように彼女の傍に寄り沿う。腕に抱いた子供は、うつらうつらと眠っている。その子の頭を撫でながら、沈黙を怖がって、また女が言った。
「…間に合ったって、きっともうおじいちゃん、長くは無い。だから一人で川に行ったんだと思うって、おばさんが」
彼女が言うと、夫はついさっきの彼女の言葉をなぞった。
「間に合いたいな。悠も、きっと久し振りに会いたいだろ」
「えぇ、会わせたい、この子、おじいちゃんが大好きだもの」
でも…。また途方に暮れたように、彼女は目の前に広がる山波を見つめた。
「川の場所はわからないって聞いたの。ダム建設のせいで渡来川は堰き止められて、どこかへ消えてしまったって。それでも、せめて古い地図が無いか、探してみるって言ってくれたけど」
「きっと大丈夫だ、間に合うさ」
少し離れているけれど、そんな彼らの声は、不思議なくらいイサザに届いていた。きっと風向きのせいだろう。彼は立ち去ることも出来ずにいて、心臓をさっきからばくばくと鳴らせている。
ダム
渡来川
消えてしまった川の流れ
何の話をしているか分かる。そして話の中の「おじいちゃん」の寿命が、もうあまり残っていないのだろうと言うことも聞こえてしまった。きっとその人は、ダム計画のせいで人生を壊された一人で。そうに違いないと、イサザは思ってしまって。
そこへ小さくてボロい軽四が一台走ってきて、家族の傍で泊まり、運転席から出てきたおばさんが言った。
「待たせてごめんねっ、結局、地図は見つからなかったよ。でもとにかく、元の川の所まで、行けるとこまで行こうっ。さっ乗ってっ」
「あ、あの…!」
イサザは無意識に駆け寄り、カバンから出した薄っぺらな地図帳を、彼らに差し出していた。
「ち、地図だったら、これ…っ。これに載ってるからっ」
付箋の貼ってあるページを開いて、よれて破けそうなその一点を指差し。
「ほら、ここに、渡会川って書いて」
見知らぬ相手にいきなり話しかけられて、皆びっくりしていたけど、夫婦はそれでも地図を覗き込んで、教えられた場所を確かめている。
「本当だ、ここに。駅はここだから、この道をまず真っ直ぐ」
「俺、ここで待ってるから! 後で返してくれたら。その…、それ、大事なものなんで、あげられないん…だけど」
父親の形見を、大事だと言葉にする。そのことを躊躇してしまったのが、イサザの胸に痛かった。でもそれもこの土地では仕方がないって、分かってる。
「だから、借りて、持ってっていいよ」
「…あんた、なんだか見覚えがある」
知らぬ間に、おばさんがイサザの顔をまじまじと見ていた。助手席に乗ったまま、窓をいっぱいに開けたそこから身を捩じって、おばさんは彼の腕を掴んだ。
「あんたの子供の頃を、あたし知ってるよ。…お父さんとよく来てただろ、あの、ダム計画の時に」
「…っ」
一瞬、イサザの腕が震えた。それは、捕まれているのをもぎ離したい衝動だったけれど、そうはせずに、ただ彼は何かに抵抗するように、ぽつりと言っていた。
「俺、もっと前から、よく来てたよ。ここが好きだったから…。父さんも…」
「……地図、借りてかせて貰うね」
少し強張ったおばさんの顔。それも仕方ないと思う。でもつい言った。気持ちが伝わったとは思わないけれど。
走り去っていく小さな車の中で、やっと目を覚ました男の子が、イサザに手を振ってくれた。それへ手を振り返しながら、広い広い平らな景色の向こうに車が消えるまで、イサザはそこで見守っていた。
荒い息がひっきりなしに後ろで聞こえる。ギンコは草を掻き分け、足元の石を軽く脇へと蹴りながら、前へ前へと進んでいた。酷く苦しげな声が、時折、行く先を彼に教えてくれる。
「その…樺の木を右だ、若…いの…」
「…あぁ」
「そしたら、次に左手に、もみじの…老木」
大丈夫か、などと言わない。手を貸しもしないけれど、歩調は緩めて、ギンコは老人を振り向く。皺深い額を伝う汗が、ぽたり、ぽたりと老人の足元に落ちていた。苦しいだろうと思いながら、ギンコは彼が歩くのを止めなかった。止めるぐらいなら、最初から同行を断っている。
「……」
老人の言ったもみじの老木は、根元から折れて倒れていた。朽ちかけた木肌でそれと分かった幹を、黙って道脇に見ながら、ギンコは思っている。人は、生き続けることだけが、大切なわけじゃない。もう命の先が見えているのなら、一層、そうなのだろう。
遠い地で、死にゆくものを何人も見た。あとたった数日、数時間でもいい、死が訪れる前に自分に時間があれば、したいことがあると呟いた彼らの願いを、他人が理解などせずともいいのだ。死にゆくものは、そんなものを望まない。
「なぁ、あんた」
少し休むべきだ、などと声を掛ける代わりに、ギンコは数歩老人の方へと戻って草の上に腰を下ろした。カメラの入ったバッグを、倒した片膝の内に抱え、すぐ隣の岩の上へ、なんとか老人が腰を下ろすのを眺め、続きを言う。
「渡来川、は、もう何処にもないかもしれないぜ? それでもあんたは行くのか」
「……行く」
「だろうな…」
感情を込めずにそう言っただけで、ギンコはもう老人から視線を離した。バックからカメラを出し広角レンズをつけて、パワーをオンにする。起動音が小さく鳴り、触れている自分の指の温度が上がるのが分かった。まるで、指がカメラの一部みたいに。自分でも気付かないで、ギンコはほんの少し笑んでいた。
…撮りたいって?
わかってる。もう少し待ってくれ。
ここじゃないんだ。
でもきっと、お前の写したいものは、
この先に。
「…ぅ、う…っ」
老人が短く呻いて、あっという間に体を前へと丸めた。岩から転がり落ちそうになり、ギンコの伸ばした手がぎりぎりで彼の体を支える。発作だ。さっき薬を飲んでからまだ時間があまり経っていない。重ねて飲ませていいものかどうか、ギンコには分らなかった。
「じいさん、さっきの薬をまた飲むか…?」
問い掛けた言葉に、老人は暫し答えることも出来ず、浅い息をただ繰り返し。やがて、ギンコの腕を力ない指で握りながらこう聞いたのだ。
「な、ぁ…お前さん、写真を…撮るの…か? この山の、写真も、その中に、入ってるのか…?」
眼差しに、少し前までの力が無い。繰り返し襲う痛みと苦しさに、老人の痩せた心がへし折れそうなのだと思った。草の上に置かれたカメラへと、ちらり、視線を投げてギンコは教えてやる。
「撮ったよ。そりゃぁ山ほどね。データの殆どは持ち歩いちゃいないが、ここ二、三日ばかりのはその中にある。何故聞く?」
「み…。み、見たい。見せてくれんか…頼む…」
胸を押さえて、せいせい、と浅い息。目の焦点が時折乱れる。それほど苦しいのだと分かったが、ギンコはカメラの方へと手を伸ばそうとはしなかった。
「大したものは撮れてない。あんたが今、命を賭して見ようとしてるものに比べたらな。本当に、見たいもののことだけ考えろ」
不器用そうに、ギンコは老人の背をさすっていた。無理に背筋を伸ばさせようとせず、軽く体を丸めた形のまま、その頭を己の胸に引き寄せる。意識して、呼吸をゆっくりと。鼓動も静かに。老人の胸の音が、己の体の音と添えるようにと意識を込めて。
「ここまで来たんだ。無駄死にはするなよ」
残されたものが、酷く悔いたりしないように。それが己へと跳ね返って、これまでの一生を、最期を、悔いることのないように。
「無駄死に、か…。は、は…言いおる、こ…の、若造…が…」
「…水をやる。飲め」
やっと息の落ち着いた体を、草の上に静かに座らせ、ギンコはペットボトルの水を、老人の口に流し込んだ。老人はほんの一口ばかりその水を飲んで、ほろりと笑んだ。
「不思議だ…。お前さん今、先生と、同じことを言った。見たいものを見ろ、と」
そう、あの先生は発作の時、好きなもののことを考えるようにと言った。同じ意味と、思えたのだった。
続
化野先生のところも書いたんですけど、少し長くなってしまったので、それは次回に致します。もう14話、20話までにどこまで行けるんだろうな、って頭の片隅に思いながら、今回も難産でございましたよ。
ちょっとギンコが冷たいように思えますが、うん、その…冷たいよねぇ。でもあれでも彼は彼なりに、おじいさんの願いを尊重しているんだと、私は思いました。なかなかあんなふうに出来るもんじゃぁないと思います。おじいさんの願いは、生きることじゃなくなってしまっているからね。
物語の進みがとてもゆっくりですが、作中の人々は頑張っておりますので、今後もどうぞよろしくお願いします。
2016/03/20
