Flower Flowers 13  








 ゆっくり、ゆっくりと老人は支度をしていた。

 毎日使っていた茶碗や箸、小鉢なども、きちんと洗って拭いて、棚に収めていく。布団はもう押し入れに入れた。普段使いの衣類も、今着ているもの以外、全部畳んで箪笥に片付けた。もともと広くも無い家なのに、それでも案外広かったんだな、と、静かに老人は思っている。

 片付けが終わると、今度は今まで片付けてあったものを、何ものっていない座卓の上に並べていく。通帳、印鑑、登記書などの書類。古いアルバム、小さな額に入った、死んだ妻の写真。そして最後に、真っ白な封筒を一つ、真ん中に置いた。

「さて、行くか」

 ポケットの中で、何かがカサリと音を立てたが、それは彼にとっての「お守り」のようなもの。すっかり片付いた家の中を見渡し、座卓の上に整えたものをもう一度眺めて、老人は満足そうに頷くと、一人でその家を出て、歩き出す。

 ハァ ハァ … ハァ ハァ …

 すぐに息は切れた。こんなに弱くなっていたのかと思い、それでも自分を励ましながら、老人は斜面を一歩、一歩と登って行く。途中までは楽な道だ、一時間もあればそこまでは着けるだろう。そんなふうに思っていたのに、着いて見ればその倍も時間が過ぎていた。

 腰に下げてきた水を飲んで、それでこの先へ行く元気が出るはずだと思ったのに、冷えた水を少し口にした途端、急に全身から力が抜けた。膝が震え、あの痛みが左腰に来る。

「う…っ、ぅう…」

 目が回って、立って居ることも出来ない。膝を付き、倒れ伏し、上着のポケットに入れてあるものを取り出そうとするが、体の下敷きになった右手を、そこから抜き出すことか中々出来なかった。

「あ、ぁ…」

 もがくうち、弱い思いがひたひたと寄せてくる。愚かなことをしたろうか。孫夫婦はきっと呆れるだろう。心配してくれた数少ない人達も、きっと皆。それに、あんなに良くして貰ったのに、ひとりでこんなことをして、優しいあの先生も、流石に怒るだろうか。

「すまんな、すまん…化野…先…」

 呟いた途端、俯せの体を誰かに軽くだけ起こされた。伸ばしていた体を丸めることが出来、息が楽になってくる。好きなもののことを考えろ、と、言ってくれたあの言葉を思い出し、老人は目を閉じて、瞼の裏に広がる風景へ心を飛ばした。

「…そこに、変わらず…おってくれ…。俺を、待っとって…くれ…。わたらい…がわ、よ…」
「渡来、って、言ったのか」

 老人の体を支えたものが、ぽつり、そう言った。半ば朦朧としながら、返事をしようとした老人の口に、小さな錠剤が押し込まれる。ひと肌に温まっているペットボトルの水を、その男は老人の口に少しずつ注いだ。

「ゆっくり、飲め」

 苦しげに、それでも咳き込まず嚥下して、やや暫くのち、老人の目がやっと、そこにいる姿に焦点を結んだ。

「……あ、んた、は…?」

 白い髪。けれど老いてはいない、若い顔。

「あぁ、そうだ。前に畑で、会っ…」
「もう少し休んだら引き返せ」

 素っ気ない言葉とは対照的に、そっと体を横たえられ…。けれど老人は抗うように叫んだ。背中を向け、今にも去って行く姿に、縋るような気持ちになっていた。

「まってくれ! 俺もつれていってくれ…! あんた確か、渡来にいくって言ってたろう。俺もいく、いきたいんだ、たの、む…ッ」
「戻れ」

 背中を向けたままではあったが、ギンコは言った。その視線が彼自身の足元に落ち、其処で土に戻ろうとしているものを眺めていた。折れて苔が生えて、腐った木の道しるべだ。剥げた手書きの文字には「渡来川」と。

「あんたには無理だ。ここから先の道は壊されて、進むのはかなり難しい」

 もう試したものの確かさで、ギンコはそう告げた。仮にあと少しなら進めても、きっとそのうち後ろへも戻れず、前にも進めなくなる。だが、老人は諦めなかった。土や草に指を立て、起きようと足掻きながらこう言い放ったのだ。

「無理じゃ…ないっ。俺はしってる。そっちだ、迂回路があるんだ、地図には無い。けもの道として、おそらく少しは残ってる…。俺を、つ、連れて行け…!」
「……あんた、死…」

 続けようとした言葉を言いやめて、ギンコは別のことを言った。

「あいつの…化野先生の、患者かい…?」
「…いいや、患者、じぁあない。あの人は、俺を分かってくれたんだ。…だから、友人、だ…」

 なのに待たずに、自分は一人で此処へ来た。目の奥に、一瞬悔やむ色を過らせながら、それでも老人の眼差しに籠る意志は揺るぎない。ギンコは今一度、足元の朽ちた道標を眺め、ふい、と屈んでそれを拾うと、少しは分り易いように、傍らの岩に、それを寄り掛からせるように立てた。

「…分かった。案内、して貰う」

 ギンコは老人に手を貸して起き上がらせ、彼のポケットから落ちかけている薬の袋を、丁寧に奥へと戻した。

 



「こんにちわ、今日は畑仕事はお休みですか?」

 声を掛けながら、化野はその家の戸を押し開けた。鍵などは常からかかっていないが、それでも何故か気持ちは急いた。日はもう高いが、家を包むように繁っている、針葉樹の枝が室内の影を濃くし、外との差で随分暗く見える。

「あの、化野です。上がりますよ…?」

 そうして化野は、家の中を見るなり立ち竦んだ。最初に目に入ったのは、座卓の上に並べられたもの達だった。焦るように見まわしたが、老人の姿は無く、ただただいつも以上に片付けられて、がらんとした室内が、化野の言葉を失わせた。

「あ…。どこに居るんですか、居ますよね…っ? 返事をッ」
 
 そう叫んだ途端、丁度開いた戸口から中を覗き込んでいた別の人が、びくりと身を震わせて、手にしていた野菜を取り落した。駅の傍に住むあのおばさんだ。彼女の足元に、人参やじゃが芋が転がって、それが転がり止んだ頃、彼女は部屋の中の様子に、こう言った。

「…あぁ…。じいさんは、きっと…ひとりで、山で」

 今度はその言葉を聞いた化野が、弾かれたように彼女を振り向く。自殺、という意味か。もしもそうなら、それは…

「ちがう」

 小さく呟いた化野の声が、彼女に届いたのかどうか。彼女は寧ろ落ち着いていて、化野が手にしている地図の、開いている箇所にも気付いていた。

「…じいさんと、何処かに行くつもりだったのかい? 先生」
「えぇ、行こうって言っていたんです。いつ行こうか、今日は話をしに来たのに、どうして」
「……なら多分、ひとりでそこへ行ったんだ。きっとそうだよ」

 一人で行った理由は、間に合わないと思ったからだろう。または、己の今の体を考えたら、医者の先生に止められるだろう、と思ったか。或いは…。

「あんたに、迷惑かけ過ぎてる、って思ったのかもねぇ。そういうとこあるから、あのじいさん」

 化野は、ぎゅ、と一度目をつぶり、信じて貰えなかった悔しさや、間に合わないかもしれない焦りを、無理にでも飲み込んだ。

「渡来川、です。行きたいと言ってた。俺も、今から其処へ行ってみます。ひとつ…頼みごとをしても構いませんか。電話を一本、掛けて欲しい」

 何処に電話をかけて欲しいのか、化野が言う前から、おばさんは安心させるように、笑って頷く。

「あぁ、お安いご用さ。大丈夫だよ。じいさん言ってたのさ、こないだ孫に、気持ちは伝えた、って」
 
 あの日病院で、遠くから自分に頭を下げていた、お孫さんの姿が、化野の脳裏に浮かんだ。

 彼は地図を広げ、いつものデイバック一つを提げたまま、外へと飛び出す。今日までも、ここへ来る電車の中でも、何度も見て来たのだ。渡来川への道順は覚えている。ただ不安なのは、地図のままの道が、今も残っているかどうか。 

 こんな時だと言うのに、空は明るて高く、降り注ぐ日差しは随分、美しかった。
 
 

 
 昼過ぎ。イサザは久しぶり過ぎるその駅に、一人で降り立っていた。懐かしくて、けれどもどうしても胸の痛む風景が、そこから広く視野に広がっている。

 最初から無理だったダム建設計画。偉くて身勝手な人間たちの、高い所からの指示により、この土地は簡単に引き裂かれた。そしてその後、嘘みたいな安い詫び料と引き換えに、傷付いたままに放られたのだ。

 イサザの父親は、そのダム建設側の、当事者だった。彼は最初からほぼ一人で、この土地の人々と話し合い、土地の売買の契約書に、サインをさせる役割だった。数年後、工事がかなり進んだ後で、彼は会社から裏切られた。その裏切りによって、この土地の人々を、彼一人が騙していたような形になった。

 つまりは、汚れ役、捨て駒にされたのだ。その後は一人で毎日、昼夜を掛けて詫びて回り、彼はやがては過労で倒れ、死んだ。

 父さんはなぁ、イサザ。
 そんなつもりはなかったんだ。
 でも、信じる相手を、俺は間違えた。
 お前は、きっと、間違えるな。
 
 珍しく酔って、そう言っていた父親。限りなくひとり言に近いような、その言葉の意味は、何もかも取り返しがつかなくなった、更に何年も後に、知った。

 分って欲しいんだ、お前には。
 父さんはなぁ、イサザ、父さんは…。

「分ってるよ、父さん。俺も同じ気持ちだったもの。今だって、そうだよ。だから来たんだ」

 父さんは、此処が、とても好きだった。

「もっと早く、来ればよかったな」

 変わってしまっていたって、相変わらず、ここはきれいで、澄んでて、やさしい。ギンコが撮りたいって思うほどだったんだって分って、凄く嬉しいぐらいだ。

 山の方へと、ゆっくり、歩き出したイサザの横をタクシーが追い抜いた。そしてすぐ目の前に停まったのだ。夫婦と子供が下りてきて、大人二人は途方にくれたように、目の前の山を見渡していた。










  
 おおっ、ギンコも、化野も、イサザもちゃんと出てる! 凄いっ。て、大事なのはそこじゃなくて…ですね。じいさん、とうとう…みたいです。ひとりの人間の最期を書くのは、ちょっと覚悟がいるというか、難しいですが、それでもこの「死」は、安らかな筈なので、あまり気負わず、それでも丁寧に書こうと思うのです。

 誰がどう立ち会うかは伏せますが、じいさんのその「時」、ギンコは、化野は、イサザは、どう思うでしょう。自分のとても大切な、今はこの世に居ない日とのこと、或いは、身内じゃなくても、自分が見送った沢山の、それぞれ大切な命のことを思うでしょうか。

 うん、丁寧に書きます。頑張ります。ありがとうございますっ。



2016/02/07