Flower Flowers 12
「言うかどうか迷ったんだけど」
やっと捕まった相手に、イサザはそう切り出した。手にしたスマホの向こうで、化野はまだ帰宅途中の外にいるらしい。車の音や、歩行者用信号機の音楽が聞こえている。
「ギンコが昨日の朝、一瞬戻ってさ」
『え』
「でもまた出掛けて行った。俺のバイトが休みの明後日に、また来るって言ってたんで」
『…ギンコ君、元気そうだった?』
化野は少しの沈黙の後、そう聞いてきた。
「あぁ、元気も元気。もう腹立つくらいいつも通りだったよ。最近撮ってた写真、見たんだけど、意外にも割と近場に居たみたいで、先」
「イサザ君」
先生もこないだ行ってた鳥渡里で、ずっと写真撮ってたみたいなんだ、あいつ。
そう言おうとしたイサザの言葉を、化野は急に遮った。
「ごめん、折角電話貰ったけど、俺ちょっと暫く忙しくて、明後日の日曜も用事が、あって。だから…。あ、でも、ほっとした。元気なんだってわかったから。ありがとう」
「あ、あー。そうなんだ、そしたらまた、連絡するから、うん」
電話は化野の方から切られた。きっと本当に忙しいのだろう。
「やっぱ、言わない方がよかったかなぁ…」
無音になったスマホをテーブルの端に置いてから、よれよれでもう千切れそうな地図を、イサザはキッチンのテーブルに慎重に広げた。父親の形見の一つだ。
鳥渡里、渡来川。
気をつけながら地図の上を指で辿り、かすれて消えかけている文字を、必死に読んで目当ての文字を探す。暫しかかってやっと見つけて、また見失わないように、見つけた近くに一先ずスマホを乗せ。
「うん、覚えてた通りの場所だな。上流って言ったら、ここから山を、高い方向へ向かって、こう…」
「分かった」
「…っ! ギ、ギンコっ、いつ戻っ…」
夢中になっていたから、ギンコが帰ってきていたことに、全然気付いていなかった。イサザが聞いた言葉に、ギンコは返事もしない。ただ、覚えた。案内は必要ない、とそう言って首にマフラーを巻き直している。
「え? 遠慮すんなよっ。俺も行くって。この地図古いから変わってるかもしれないし、山ん中で迷うとかシャレんなんないだろっ?! ここ結構広い山なんだぞ!」
「知ってる。その程近くまでこの前入った。間違ってなかったことが分かったんだ。それに、もし迷っても夜を待って、星を読むから大丈夫だ。充分だよ」
「ちょ、星って…!?」
パタン。ギンコを向こうに、あっさりドアが閉まる。イサザは追い縋るまでは出来ず、口の中で文句を言うしかなかった。
曇ってたらどうする気だよ、この馬鹿っ。
でもきっと曇ろうが雨が降ろうが、大した問題にもしないようなスキルがギンコにはあるのだろう。悔しいけれどそう思えて、広げていた地図をイサザはもそもそと片付ける。
せっかくギンコが戻ってきてたのに、先生は中々捕まらないし、やっと電話出たと思ったら、今は忙しいって。なんか、俺一人で空回ってない?
ついつい、そんなしょ気たひとり言まで零れてしまった。
「…そのうち、ひとりで行こうかなぁ」
「ありがとう」
そう言ってイサザからの電話を切って、化野は緩めていた歩調をまた速くした。横断歩道の向こうの書店は、閉店時間のかなり過ぎた今の時間も、シャッターを半分下ろしたまま、化野を待ってくれている。
「すみません、無理を言ってっ」
「いやいや、いいよ。他ならぬ先生の頼みならね。でも欲しいのは地図だっけ? 置いてるかなぁ。どこの地図を探してんだい?」
初老の店主は迷惑そうな顔一つせず、地図のコーナーに化野を連れて行く。コーナーと言っても狭くて小さな書店だから、十冊も地図はなさそうだ。
「ここいらの土地の地図が欲しいんです。確か私が越してきた時も、ここで買ったことがあるので、同じものがあれば」
「あぁ、それならこれだ。田舎だからさ、新しいのは中々出して貰えないから、これも七、八年前の版かねぇ」
「いいんです、それを下さい」
七夕町を含む、この近郊の地図帳。これで分かる筈だと思って開いて、化野はすぐに落胆した。鳥渡里の駅は載ってる。でもそれだけで、詳しい道はまるで無きが如し。山の中の道なんて、載っている筈もない。
「…これじゃ駄目だ。でも今から探して取り寄せしたら、週末までなんてとても」
書店の外に立ったまま、ぶつぶつと呟いていたら、出てきた店主が彼の肩ごしに言った。
「見たいのは鳥渡里の地図かい? 先生。最近よく行ってんだって? あすこの地図は他の地図帳買ったって駄目だろなぁ。ダムのことが起こる前の出版物じゃないとさ」
何か微妙なニュアンスの含まれる響きに、化野は真顔になって店主を振り向く。
「どうしてです?」
「…んー、大きな声じゃ言えないがね。そりゃぁ、そうだろうって思うよ。お偉い人らの私腹肥やしやら、色んなしくじりやらで、あの土地は目茶目茶んなったんだ。その爪痕がはっきり分かる地図なんか、出版させるわけないからなぁ」
言葉を失った。と同時に、その通りだと化野は思った。そんな彼の袖を引いて、店主は店のカウンターの奥まで化野を引っ張って行く。そして古びた段ボールの積み上がった一角の、さらに古そうな本立てから、一冊の地図を取ってくる。
店主はそっとその地図を撫でて、貸してやるよ、とそう言った。
「こいつはかなり古い版だからね。でも貸すだけだ、ちゃんと返してくれよ。なんもかんもが起こる前の、鳥渡里の姿を知る者は、これから先減る一方なんだろうからさ。地図ぐらい残してやらんと」
「あ、ありがとうございます…!」
化野は大事にそれを鞄に仕舞い、その鞄を胸に抱えるようにして家に帰った。食事をすることも思い出さず。ダイニングのテーブルの上に地図を広げる。
彼ももう、何度も何度も行った土地だ。土地の形や、高低差、道の走る様を地図上に見ると、脳裏には風景が浮かび上がってくる。「そのこと」があってからもう何年もが過ぎて、当時酷く掘り返され削られ、散々に荒らされた無残な跡は、草木に覆われ隠されていたのだということが、今更のようによく分かった。
「駅舎の傍を、小川が通っていたのか。小さな橋がいくつもかかって、ひとつひとつに名前が…。あぁ、この橋を渡ったところに小学校。中学校は二つ向こうの橋の傍に。この広い通りには、きっと、駄菓子や文房具を売るような、商店がいくつも」
必死になって、全部の道を視線で辿っていて、しばらく後化野は、本当の目的を思い出した。そうだ、探さなきゃならないのは…。
渡来川。
「なら、この小川を遡ればいいのかな?」
化野は指で、水色の線で書かれたその川を、山の方へ向けてゆっくりと辿って行く。でもその指は、途中で止まってしまった。
「駄目だ。ここは今は、この地図の通りにはなってない。ダム建設の時に、重機で大きく抉られて…そのままにされて。だから、ここに今、川なんて…」
化野は地図上の水色の線を他に探した。見つけた線を幾つも、同じように辿っては、その川の名前を一つずつ確かめる。渡来川という名前は中々見つからなかった。化野は途方に暮れて、でも気付いた。
そうだ、大地を抉られて、消されてしまった流れこそが、あの人が行きたいと言う『渡来川』。でもその川は、山の奥の川なのだと聞いているから。
途中で追うのを諦めた青い線を、もう一度化野は辿り直した。今が、どうなっていようと構わない。それに、抉られたのが下流だけだとすれば、上流はきっとそのままだ。どうかそのままで、あってくれ。
「あ、あっ…た…」
ワタライ と、随分小さく、記された名前。
「ここだ。ここに、あの人を連れていけば…」
願いを、恐らくは最後の願いを、叶えてやれる。はぁ、と、深く息を吐いて、化野はダイニングの椅子を一つ引き、そこにやっと腰を下ろした。座ると、日々の疲れが体へひたひたと寄せてくる気がする。
そして開いたままの地図を少し向こうへ押しやると、空いたところに、彼は額をつけた。
「……ギンコ君…」
零れた声に、自分自身で慄いて、化野は震えた。
「君の写真をまた、イサザ君は見たんだ。…羨ましいなぁ。俺はいつ、見れるだろう。…今度は君にいつ、会えるんだろう」
続
なかなか進展しないのですが、材料だけは少しずつ整ってきた感じです。先生が言う様に、オリキャラのおじいさんはもうどうなるか決まっておりますが、それを経て二人がどうなるか、ですよね。
ストーリーも進展して欲しいけど、二人の仲も進展してほしーーーーーーーーいっ、って素直に思っています。ヤってもいいのよ、ギンコ(何処でだよっ) また変なコメント書いてしまった気しかしない。う…っ。
ではでは、また次回~。
2016/01/11
