Flower Flowers 1
…ピピ… ピピピピ…
静かな電子音が響いていた。眠っていた白い姿が小さく身じろぐ。オフホワイトの毛布に肩までくるまり、顔以外で毛布から出ている片手首から先も、指が白くて。窓から差し込む日差しを浴び、それ自体淡い光を放っているかのようだ。
ピピピピ… ピピピピ…
白い睫が震えて、美しい硝子のような色をした目が開いて、髪に隠れていない片方だけで、ぼんやりと彼はその光を見た。
まだ殆ど覚醒していない。光がまぶしくて、白い場所だとしか思えない。ただ、手の中に何か温かなものがある気がする。視線をやっても何も無くて、それが不思議で、もう少しはっきりと辺りをその目に映した。
白い印象の、知らない部屋。また夕べ、ろくに相手を見もしないで、誰かをひっかけるか、ひっかけられるかしただろうか。そういう時はいつもそうだ。現を見ていても、何もかもが現実味を帯びない。
「…はー……」
鳴っていた電子音、時計のアラームはいつの間にか止まっている。気怠くひとつ息を吐き、身を起こして、透ける薄手のカーテンの向こうの青空を眺めているうち、やっとゆっくり、思い出す。
そう、だ。
ここは、あの男の部屋だ。
いいよと、そう言って俺を招いた。
冷たい冷たい氷のような体で、優しくしてくれようとしているあの男と肌を重ねた。怖気づくだろうと、確信をもっていたのだ。けれど震え上がっている癖に、あいつは逃げようとしなかった。必死で、俺の体に腕を回してきた。寒かった癖に、怖かった癖に。
あんなふうにまるで、死人のように体が冷えることが、時々ある。精神障害の一種だとか、聞いたような聞かないような、事実は知らない。知ろうとも思わないが。
がたがたと震えながらも、あの手が背中を撫でていたのを思い出す。皺の刻まれたシーツに視線を落として、眩しい照り返しに目を眇めながら、ギンコはぽつりと言った。
「夢」
ではない、と分かっていたが、唇から零れた言葉はそれだった。目覚めさえすれば消え去るものの一つに、カウントしておきたかったからかもしれない。
はっきりと目覚めてみれば、どうしてあんなに白く思えたのかと、疑問を浮かべるほどには普通の部屋だった。部屋の主の姿は見当たらない。確か仕事だと言っていたから、もうきっと出掛けたのだろう。
裸のままでベッドから下りようとすれば、かちゃんと音を立てて、フローリングの床に何かが落ちた。リングのキーホルダーとそこに付けられた鍵。拾い上げもせずにリビングに出て、ギンコはテーブルの上にメモを見つけた。
『 部屋のスペアキー
置いていきます
持っていってほしい 』
「……」
幾ら長閑な街だと言ったって、鍵を開けたままゆける筈がない。でも二階は大家と聞いているし、一階の商店に預けることも可能だろう。それを敢えて、持っていけ、と。
振り向いて、開いたままのドア一つ向こうの、床に落ちた鍵をギンコを見た。首を回して暫し眺めてから、歩み寄ってそれを拾う。金属で出来ている癖に、どうしてこんなに温かいのか。温かく、思えるのか。
「やっぱり鬼門だよ、あんたは」
俺の中に入ろうとする。大事に閉じてある場所を開いて、そこへと少しずつ入り込む。そのままにしておきたい。痛むままに。血を流すままに。まだずっと。
ちゃり…っ。
音を鳴らして、ギンコはその鍵をコンパクトカメラの紐に付けた。いつも持ち歩いているわけではないカメラだ。これで余計に持ち歩かなくなると、冷めた目をしてそう、思った。
「…っくしゅっ」
三度目のくしゃみで、たまたま傍に居た通行人が笑った。
「おっ、せぇんせ、どしたい。医者の不養生ってヤツかぁ? 駄目だねえ、そんなんじゃあ」
「は、はは、まったくですね」
確か今のオヤジさんは、床屋の店主だったか。これは今日一日、お客にその話をされるんじゃなかろうか。話の種にされるなど、普段からよくあることだから、いつもなら大して気にしもしないけれど、今日は少しだけ、気になる。
夕べ、深夜を過ぎてから、あの冷たい体を、寝落ちるまで抱いていた。その後もシーツ一枚掛けずに寝ていたし、シャワーで体を暖める時間も取らず、ぎりぎりの時間まで、震えるほど冷えた体のまま、一晩ベッドを共にした相手の寝顔を見ていた。
その、ずっと見ていた、美しい寝顔。
あんなに綺麗だとは思わなかった。正直参った。朝の光がゆっくりと差してくる間、白い睫が白い頬に影を落として、あまりにも、あまりにも…。
欲しいと彼が言った言葉を、別の意味に取り違えてギンコは笑ったけど、本当にそういう、気持ちになるのも分からなくはない気がした。触れたい。触れられるのではなく、こちらから触れて、愛したい。怖いぐらいだ、こんな感情を持つなんて。
それに、あの氷のような体を、他の誰でもなく自分が温めて、安らぎを与えて、腕の中で眠らせることが出来たなら。
これが人を想うということなのだろうと、強く納得してしまう。他の誰かにその役目を譲りたくない。これが嫉妬なのかと思う。
「んっ、くしゅッ…!」
また一つくしゃみをしたその時、化野は丁度、医院の裏手の入り口をくぐった。ナース長が化野のくしゃみを聞き付けて、マスクをひっつかみ走ってくる。
「院っ長っ! 何をくしゃみなどなさっているんですか、マスクもせずにっ。して下さい、今すぐ!」
「あ、す、すまない。その通りだった。ええと…お、おはよう」
「おはようございます。お薬はお飲みになったんですか、院長っ」
院長院長と、ここぞとばかりに。大袈裟なその呼び方が苦手で、あだしの先生とだけ呼んでほしいのだが、今はそれを頼める状況じゃない。大人しくマスクを受け取り、口と鼻を覆いながら、問われたことに答えた。
「いや、実は朝食をとって居なくて、薬もまだ」
「院長ぉ…っ」
「…すみません、あの、すぐっ」
「いったいどうなさったんです。風邪をひくなんて。いつも気を付けてらしたじゃありませんか」
あぁ、問わないでくれ。思い出してしまう。今まさにそうしているみたいに、はっきりと…。
互いに一糸にも纏わずに、絡められた冷たい脚。ぴったりと重ねられた胸。背中に回されて、強くこの身を抱いた腕。触れてくる息も冷たく、言葉が冷気になって肌の上を滑っていったのだ。ぶる、と思わず震えた化野の顔が、見る間に赤く染まっていって、ナース長はますます眉を持ち上げた。
「お顔が赤いです! こんなに震えておられて! 誰か別室で先生の体温を!」
「い、いや! 大丈夫だからっ。熱は無いっ」
別のナースが現れて、別室へ強引に連れて行かれる。勘弁して欲しいが、でもこのドタバタの中で、ギンコのことばかり考えずに済むのも確かだ。ありがたいと、そんなふうにも思えていた。仕事を終えて帰宅しても、きっと今日は、中々眠れない。
眠っても彼の夢を見るだろう。きっと何夜も繰り返し見る。会いたい、彼を少しでも温めたい、と、もう思ってしまっているのだから。
続
お久しぶりのワンフレーズシリーズです。
モノクローム → クローズドドア →フラワーフラワーズ という順に続く一本の話になります。長くて本当に申し訳ないですが、終わる兆しはまったく見えませんうぉぉぉぉ。最初からどんよりもアレなので、ちょっと爽やかな感じにしてみました。次回はイサザもきっと出ますよ! ちょっと最近更新が遅いですが、待っててやって下さいね。
14/11/09
