雪の東雲   5 









 温もりに雪が溶けるように、心で黒く固まっていたものが溶けた。それをしてくれたのは行きずりの旅の人。そうしてやっと溶け始めたものを、その黒い穢れを、洗い落としてくれたのは、彩雪…。ああ、私の妻だ。もうこの世にはいない。

 虹色をした淡雪に姿を変え、さゆは私を、救ってくれた。

 きらきらと降り続く雪を浴びて、熱い涙で頬を濡らす東雲。そんな彼の姿を、少しだけ離れて眺めていて、ギンコは今更のように彼は飽きれ返っている。

 白い襦袢一枚で、しかも裸足じゃねぇか。
 人がやっと助けたものを、死ぬ気か、おい。
 あぁ、そういや、死ぬ気でいたんだろうし、な。

「しの…」

 声を掛けようしたその時、東雲は不意にギンコを振り向いた。そうして眩しい日差しを浴びている彼を、どこか驚いたような顔をして見て、東雲は泣きたいような顔をしたのだ。

「…本当に、あなたの髪は、妻の髪にそっくりだ」
「髪…」
「真っ白い髪を、していたんです。目は少し赤かった。生まれつきの病で」

 そのように生まれつくものもいるのだと、ギンコも聞いたことがある。「白子」と言って、酷く体が弱く。殆どが若いうちに死ぬのだと。そのものらは大抵は生殖能力すらもなく、隠されるようにして生涯を終える。

「へぇ、そりゃ、珍しいな」
「私のせいで…死にました…」
「……あぁ…」

 もう察しはついていたので、ギンコは短く相槌だけを打つ。まろぶように斜面を下りてるのへ、黙って手を差し伸べ、ギンコは彼に背中を向けると、雪の中へ片膝をついて屈む。

「背負ってやるよ、そら。あんた裸足だろう」
「……はい…」

 最初と同じように弱弱しく返事をして、指図されるままにギンコの背にしがみ付く。背中で抱えた体は、怖いくらいに軽くて、痩せ過ぎで、ごつごつと骨が当たるほど。木箱の背負い紐を片腕に通して提げて、ギンコはよろよろと雪の道を歩いた。

 壊れ家に戻るまでの間、東雲は聞かれもしないことを、ぽつん、ぽつんと切れ切れに呟く。ギンコは聞いているのかいないのか、短く一つずつ返事をした。


 家の名を売ることなど、命に比べたら何の重みもない。

  ……そりゃそうだ。

 でも、私にはそうは思えなかった。

  ……ふうん。

 婿に入って、言われるままのことをした。

  ……そうか。

 私は病気で臥せっている妻に、薬だと思って、毒を。
 婿の自分が当主になり、秘伝薬の処方を盗めと言われ。
 家を恨みながらも、逆らえず…

  ……別に。

 
 ギンコは背中にいる東雲の体を、荷物ででもあるかのように、ひょい、と軽く揺すり上げた。

「言わねぇでいい。綺麗だったろ、さっきの雪。あんた、あの雪見て泣いてたな。何かが吹っ切れたんじゃないのか? どんな事情か知らねぇけど、もっと、自由に生きていいと思うぜ。あんたの兄の、化野のようにさ」

 人に奇異の目で見られてもお構いなし、珍品と呼ばれるものがあれば目の色変えて、金に糸目もつけずに買い漁り…。そんな妙なヤツだというのに、里の皆から信頼されて。

 たぶん、あいつにも色々あっただろう。その「色々」を乗り越えて、今のあいつになったのだろう。だから東雲も今、そうして乗り越えていくところなのだと、ギンコは思いたかった。どれほど辛いとしても、早くそれを過去にして、笑って欲しいと思っていた。

 壊れ家に戻って、東雲の体をそっと家の中に下ろし、ギンコは慌しく囲炉裏に火を入れる。やっと小さな炎が灯って、東雲の方を振り向いて、思わず彼は目を丸くした。

 腐りかけの冷たい木の床に手をついて、白いその額までもつけるようにして、東雲が深くギンコにこうべを垂れていたのだ。

「こんな私などの命をお救い下さいまして、本当に、なんとお礼を申し上げていいのか判りません」
「やめてくれっ。俺は人に頭を下げられたことなんか、ろくにありゃしねぇんだ」
「私は…生まれてから今まで、こんなに大事にされたのは初めてでした。自分の命など、心など、無いようなものと思ってきたのに、貴方は…」

 あー、と余所を向きながらギンコは呟く。

「…結構、手荒なことしちまったし、あんたの大事な箱も、あんなぞんざいに扱ったし、中の物は火に投げ入れちまった。頭下げられるような覚えなんかねぇよ。ただ、俺はあんたには…」
 
 不幸でいて欲しくない。

 東雲は、語られなかったギンコの言葉の続きを、彼の方を真っ直ぐに見ながら待っている。がりがりと頭を掻いて、ギンコは囲炉裏の火の中に、大きな薪を一本投げ入れた。白い灰が散って、げほげほと咽ながら、消えそうになる火に焦る。

「箱は…」

 東雲の言葉は続いた。

「この箱は私にとって、生家そのものでした。婿に入るとき、たった一つ携えた品です。家に逆らえず、人の命さえ奪った罪を償うのに、それを抱えて最後の毒を飲んで、深い山奥で雪に埋もれ、箱と共に消えようと思ったのです。だからもう…」

 頭を下げたままでいる東雲の前で、ギンコはいきなり立ち上がった。部屋の隅に転がったままの箱を、彼は無造作に拾うと、入り口に積んである薪の中の、一番大きくて太いものを拾い上げる。

「…こんな箱一つ捨てるのに、大袈裟なんだよ、あんたは」

 からかうようにそう言って、ギンコは東雲の箱の上に、右手にしっかりと持った薪を振り下ろす。バキっと、小気味のいい音がして、たったの一打ちで箱は斜めにひしゃげた。ギンコはもう一度薪を振り上げ、力を込めて振り下ろした。

 バキ…ッ!

 壊れてしまったその箱を、そのまま、ぽい、と囲炉裏の火に投じて、炎がめらめらとその箱を燃やすのを眺める。

「捨てたきゃ、こうすりゃよかったんだ。大事なもんなんか、いくらでもあるんだから、こんな箱に命かける必要なんか、ありゃしねぇって。判ったかい」

 呆けたように炎を見ているその顔が、化野がぼんやりしている時の顔に、また酷くそっくりで、ギンコは無意識に頬笑んでいたらしい。つられるようにほんの僅かだけ東雲も笑う。東雲の淡い笑顔は、あまり化野には似ていなかった。

 似ているのも落ち着かないが、似てないのも少し困る。ほんの少し、惹かれているのは変えようが無い事実で、怒ったように横を向いて、ギンコは言った。

「もう、自分から死のうなんて思うんじゃねぇよ」
「…はい。貴方に叱られるし、妻もきっと見ているから」

 なんで俺だよ、と、まだぶつぶつ言いながら、ギンコはもう旅に戻る支度を始める。冬の山はいつ天気を変えるか判らないから、発てるのならすぐにでも発ったほうがいいのだ。

 もう行ってしまおうとしているギンコの様子を、東雲は黙って眺め、自分も襦袢の上に着物を纏う。唯一の荷物は、火にくべられてなくなってしまったから、彼にはそれ以上何もすることが無い。きちんと姿勢を但し、火の傍に座っている東雲に、ギンコは背を向けたまま聞いた。

「で? あんた、これからどうする気だい?」
「…生きようと、思います」

 東雲はそう言って、ギンコはあまりに重たいその返事に、ひょい、と眉を上げて少し笑った。

「あぁ、そうだなぁ、それがいいよ」








 

 

  


 多分、次回でラストー。先生が出るまで書けなかったら、後日談を別に書いて先生出します〜。頑張るわー。二月は北海道ではまだ冬。冬のうちにこの話も終わりそうで、ほっとしていたりするよ〜。うんうん。

 オリジナリキャラ大活躍〜?な話ですが、読んでくださっている方、ありがとうございますっ。
 


11/02/12