雪の東雲   6 












 囲炉裏の中で、炎の弾ける音が元気だ。外から差す日差しは眩しい。何かをやり直すにはいい朝だな、と思いながら、ギンコは聞いた。

「つまり、家に戻る気はないってことだろ?」

 聞かれると、東雲ははっきりと頷いた。家というのは、彼の妻の家のことでもあり、彼の生家のことでもあった。東雲の言った「生きる」という言葉は、その二つの道を断った上で、別の生き方をしていくと言う意味だ。
  
 それがいいよ、と、笑って言ったものの、生きる、ということは簡単で難しい。ただ死なねばいいだけのことだが、豪雪の襲ったこの山奥の壊れ家の中、たった今、襦袢と着物と羽織しか着ていない東雲。荷も無い。食べ物も、金子も。

 たった今、外は気持ちのいいほどの天気だが、道さえ消えた山から、近隣の人里まで下りるだけでも、おいそれとはいかないのだ。

「人がいい、と言われることはあんまりねぇんだぜ…?」

 溜息と共にそう言って、ギンコは自分の荷を開く。抽斗を幾つか開けて、雑穀を干して挽いた粉や、痩せた魚の乾物などを取り出した。それを紙に包んで東雲へ差し出し、次には一番大きな抽斗から分厚い布を取り出した。

「金は分けてやるほど持ってねぇし、そもそもここらにゃ物を買うような店もないしな。里の近くまでは連れてってやるから、まずはあんたのその、無駄に高価な着物を売ることだ」
「…はい」

 東雲は、ギンコの好意を退けようとはしなかった。そこまでしてもらうのは申し訳ない、などと、言葉にすること自体が生きることへの甘えだ。今の東雲は、人の好意と助けがなければ、この山から出ることもできないほどに無力だった。

 だから彼は、懸命に目を開き、耳を傾け、ギンコの教えてくれることを聞いていた。

「あんたの着てるその羽織一枚売っただけで、俺の手持ちの金の十倍はいくと思うぜ。だから着てるものはまず全部売っちまってさ、旅に必要な衣服を揃える。その店の奥でも借りて全部着替えたら、今度はその店が見えなくなるくらい離れた別の店に行って、食べるものとか他の必要なものを買いなよ」
「……離れた、別の店で…」
「そうだ、そこが大事だからな。同じ店とか近くの店で買い物しようとしたら、元々が金持ちだと身なりで知られてるから、高値を吹っ掛けられちまう」
「…はい」

 ギンコは頭をガリガリと掻いて、あさっての方を向きながら続けた。きちんと正座をして聞いている東雲の、その頼りなさを直視してると、先行きが心配過ぎて胃のあたりがもやもやする。

「それと! なるべくでいいから、もうちょっと粗野な物言いをしろよ。服がぼろでも、そんな御丁寧な喋り方してたら、ぼっちゃんなのが一発で見抜かれる」
「はい…。そのように致します」
「……はぁ。だから、そのものの言い方が…」

 言い掛けた言葉を止めて、化野は目の前にある品を彼の方へと押した。言われたからといって、すぐになおらないものもある。

「里へ出さえすれば、着物を売った金で食い物も買えるけどな。とにかく、すぐ手に入るから、と過信はするな。特に食い物は絶やすなよ。命に係わる。それから、こっちのでかい布は防寒用。首や頭を覆っとけば、あったかいぜ」

 広げて肩に掛けてやると、東雲はその布の上から体を抱くようにして、何故かそっと目を閉じた。零れてくる声に、微笑が滲んでいる。閉じる寸前の目が、潤んで見えたのは錯覚だろうか。

「あなたの…匂いがします」
「……そりゃあな…」
「夕べ一晩、この匂いを…」
「…勘弁してくれ」

 そう言ってギンコは立ち上がった。勿論、わざとじゃないだろうが、置いていかないでくれ、と縋られているようなものだった。化野そっくりな顔と声で、そんな態度に出られると、その都度くらくらと眩暈がする。

 あいつもこんな綺麗だったっけ?などと、化野の姿を思い浮かべ、浮かんできた朗らかな笑顔を、心の中でじっと見つめた。想いが揺らぐ。

 お前、弟に会いたいか?
 このまま、連れて行った方がいいか?

 今すぐに聞く術があっても、きっとそれを確かめるのを、俺は随分躊躇するだろう。だから今はここで離れる。確信できるようなものじゃないけど、きっと東雲は大丈夫だ。何しろ、血を分けたお前の弟だから。

 そうして最低限の支度を終えると、ギンコは東雲と共に外へ出た。教えることは沢山ある。あまり心を差し挟まないように、歩きながら淡々と教えた。

 蟲が見えるようになった彼は、ギンコが視線を向けるのと同じ方向を静かに見る。何度も、何度もだ。化野が蟲を見ているようだ、と、そう思って、黙って眺めているギンコの顔は楽しそうだった。

 暫くして、何を思ったのかギンコは不意に吹き出し、その笑いを隠そうと項垂れた。もしも今、こうして隣にいるのが化野だったら、大騒ぎになって大変だ。あれは何だ、あっちも蟲か、と、一時も黙っていないに決まっている。

「…東雲」

 やがて、ギンコは眩い雪原を行きながら、すぐ後ろにいる東雲を呼んだ。真っ直ぐに右手を伸ばし、黒い手袋の指先で、遥か遠くにいる淡い青灰色の山並みを差す。

「ここの雪原をよく覚えておくんだ。それから、ここから見える風景を覚えるといい。あそこに三つ、山の稜線が重なって見えるだろう?」
「はい」
「一番遠くに見えるあの山へ登ると、真っ直ぐ下には海が見える。その海の傍に、小さな里があってな」
「…はい」
「そのことを、忘れずにいるんだ」

 覚えていたら何があるのか、ギンコは言わなかった。その里が何なのかも言わなかった。だけれどどうしても、それだけは言いたくてそう告げて、東雲が何も聞き返さずに、じっと遠くの稜線を見つめる横顔を見ていた。

 時間を掛けて、その広い雪原を抜けると、馬車の車輪の跡が刻まれた道へと出る。道は段々と広くなって、木々の隙間には人里らしきものが見えてきた。ギンコは足を止めた。

「あんたは、ここを真っ直ぐにいきな。俺は右へ折れる」

 見えている道は一すじだけで、まだ一緒にいて貰えると思っていた東雲は、驚いたようにギンコを見た。

「え、でも…」
「真っ直ぐいけばもう里だ。車輪の跡を残したこの馬車が、次の峠にいるだろうから、なんなら頼み込んで乗せて貰いな。この車輪の深さなら、荷を積んだ商人かもしれない。もしそうなら丁度いいだろう。急がないと追いつけないぜ」
「…はい、…判りました」

 東雲は眩しそうに、ギンコを見た。顔の半分を覆っている布を、いつくしむように片手で握り、その匂いを吸い込んで、彼は言った。深く頭を下げて…。

「本当に、ありがとうございました。…忘れません」
「そりゃまぁ…忘れようったって、そうそう忘れられんだろうぜ。色々な」

 それは俺も同じだ、と心の中でだけギンコは思う。

「忘れません。さっき、教えてもらった…ことも…」
「あぁ…」

 あの雪原から見える、三つの稜線。その一番奥に見える山から見下ろす海。その海の傍の小さな…里…。

 ギンコの言葉を脳裏に刻み付けて、東雲は車輪の跡の続く道を見た。一歩を踏み出してから、もう一度ギンコを振り向き、既に背中を向けている姿を、東雲はじっと強く見つめた。

 降り注ぐ日の光の中を、またあざやかに虹色をした雪が舞い始めた。東雲が体を包む布にも、その雪は舞い降りて、ゆっくりと溶けていきながら小さく光っていた。指先で触れると、それは一瞬で消えていき、雫さえも残らない。


 東雲は、しっかりと顔を上げて歩き出した。
 自分自身で切り拓かねばならない、
 新しい日々の中へ。
 
 明るい光差す、自由な道を…。













 あー、よかった、一応地元的には雪の降る季節にエンディングだー。

 一応「雪の東雲」は終わりましたが、後日談書きます。「雨の化野」ってタイトルにしようかと思ってます。短い話の予定で、先生とギンコが出てきます。はーあ、オリキャラばかり目立たせてすみませんでした〜。
 
 いや、ここんとこいつもだけどね。しかも東雲さんは、また書きたいと思ってますー。読んでくれた方が、彼を少しでも好きになっていてくれますように…。




11/02/20