雪の東雲 4
どうやら今日も、雪は降っていないらしい。
壊れ家の壁の隙間から入ってくる光を、ギンコは横目で眺めた。あれから一日半、東雲は目を醒まさない。時折、肌に滲む汗を拭いてやり、温い湯で乾いた唇を濡らしてやる。
痩せ細って弱ったこの体は、少しずつ毒を飲み続けていたせいだろう。それへ更にああして毒を飲んで、死のうとしていたのだろうと思う。ここにこのまま置いていけば、その望みの通りに死ぬのだろうが、ギンコは東雲の傍を離れる気など欠片もなかった。
「…参ったね…こりゃ」
伏せた睫毛が、長いな。と、そう思う。顔色は紙のように白いのに、唇だけはほんのり赤くて、男だとは判っていても、女を見ているように思える時がある。化野も…そういえば、ランプの明かりだけの薄暗がりで、ふと見た顔の陰りが、女のように見えたり…。
そもそも、外を歩き暮らすギンコよりも、ずっとずっと化野の体の方が華奢だし、肌なども綺麗なのだ。
そういうふうに、ふと垣間見える「女」のような陰り。それから多分、たおやかさの欠片のようなものを、自分は化野にも見ていたのだ。抱かれてばかりいるのじゃなくて、抱きたい、と思う気持ちを、ずっと持っていたのかもしれない。
「あんたも。早く、目ぇ醒ましてくれよ」
溜息が、一つ出た。化野そっくりの顔かたちをして、化野よりもずっと細くて、頼りなげで弱弱しい。しかも夢うつつなのだろうが、あんなに縋りついてきて…。
眠り続ける東雲の姿から無理に視線を逸らし、特に理由もなく壊れ家の中を見回せば、壁の際で転げた真四角い木の箱が見える。
ギンコの木箱などとは違う、上等のものだ。漆を薄っすらと塗って美しく仕上げたその箱の蓋に、何かが浅く彫り込まれてあって、目を凝らしてみれば、それが家紋なのだと判った。幾種類かの植物が、真四角の中に綺麗におさめられた不思議な紋。
あれは、恐らく薬草が描かれた紋だろう。医者の家だからなのか。だが、人を救う生業でありながら、この男は、恐らくあの毒で自分の妻を。そして、自分自身も。
いったい…。
考えようとして、ギンコはやめた。視線を戻すと、少し寝苦しいのか、東雲は枯れ枝のように細い腕を、ギンコが掛けてやった着物の上に出している。その腕を黙って掴まえて、元通り着物の下に入れてやった。
囲炉裏の火が、少し弱まっている。それへ薪を放り込んで、ギンコは静かな溜息をついていた。
* ** ***** ** *
さゆ …
さゆ、殿 …
あぁ、長かった夢が浅くなる。ずっと傍らにいてくれた、白い姿が薄れていく。もうこの世にはいない人を、追い求めるように手を伸ばし…。
東雲は数日振りに目を覚ました。囲炉裏で火が燃える、ぱちぱちと言う音が響いている。ぼんやりと周りを見回し、上手く力の入らない体で、やっと何とか身を起こすと、彼は白い襦袢だけを身に着けている己の体を見下ろした。
はだけた襟元の中の、痩せた胸に数箇所、淡い痣のような跡が。それが愛撫の跡だなどと、東雲には判らない。
「ここは…? あ、あの人は?」
もう一度見回すが、自分以外には誰もいない。朧げに覚えている、あの人の荷物も上着も見当たらない。行ってしまったのだと判ると、酷く空虚な思いがして、東雲は項垂れた。
思えば、妻の姿だと思っていたのは、あの人だったのだ。うっすらと意識が戻るたび、白い髪をした横顔を何度も見た。もう、捨てると決めていたこの命を、あの人はあんなに必死になって、繋ぎとめようとしてくれた…。
ふと気付けば、閉じた木の引き戸の向こう側から、眩しいほどの光が差していた。東雲はよろよろと立ち上がり、なんとかしてその戸を開いて外を見る。
白銀色一色に染められた世界が、そこには広がっていた。それへ眩い日差しが降り注いでいて、東雲は一瞬目を閉じる。もう一度瞼を開くと、壊れ家から真っ直ぐに進んでいく、一筋の足跡が見えた。
何一つ考えもせず、彼の脚は前へと進む。ギンコの残した足跡を、ひとつひとつ踏むようにして、彼は真っ白いばかりの緩い雪の斜面を登った。見るものが皆、眩しく、穢れなく美しく、まるで世界が生まれ変わったかのようだ。
一歩一歩と歩くその足元に、淡い紅色の、蛇のようなものが纏い付いている。それは東雲の足に触れると、裂けるように二つになり、そのすぐあとにまた一つになって、また彼に絡みつく。こんな生き物は見たことが無くて、避けようとしてはよろけて転ぶ。
転んで手をついたその場所から、半分透き通ったような、丸いひらひらとしたものが、驚いたように飛び出してきて、数歩先の雪の中にまた隠れる。
雪にまみれながら顔を上げて、少し遠くに見える杉の木を見れば、その枝には薄茶色の布のようなものが、引っかかってゆらゆらと風に揺れていた。見たこともないものばかりだ。
不思議そうに手を伸ばして、ついさっき、丸いものが隠れたところを探れば、その少し先の雪の中から、その珍しい生き物がひょこりと顔を出す。膝で這っては、何度もその先へ手を伸べて…。そうしていたら、不意に光が陰る。
「目ぇ、醒めたんだな。大丈夫か、こんなとこまで出てきて」
東雲はギンコを見て、酷くほっとしたように表情を揺るがせる。ほんの少し、微笑んだように見えるその顔が、自分の回りの雪を見て、それから上を見上げて、そこらに漂う紐状の何かを見て、どうしていいか判らないとでもいうように、彼は言った。
「これは、みんな生き物なのですか?」
「……あんた」
ギンコは東雲に手を貸して立ち上がらせ、いぶかしむように彼の顔を覗きこんだ。顔色が随分いい。それに…。
「もしかして、見えてるのか?」
ギンコは頭を掻いて、丁度傍へ飛んできた丸い白いひらひらしたものを、ひょい、と掴まえて東雲に見せる。数日の間、下手をすれば死ぬかもしれないような状況にあって、多分、東雲は体質が変わったのだ。
今まで見えていなかったものが、見えるように…。
「あぁ、生き物だよ。生き物、っていうより、命、と言った方が近いけどな。…来な、いいものを見せてやれそうだ」
そう言って、ギンコは東雲の手を引いた。少し急な、踏み固められた足場すらない、降り積もった雪の斜面だ。ギンコも東雲も、膝までが簡単に埋もれ、中々先へ進まない。それでもギンコに手を引かれ、時折顔から雪の中に突っ込んでしまいながらも、東雲は必死についてきた。
息が切れて苦しい。転ぶたびに口にまで雪が入って、その冷たさに息が詰まる。
「ほら」
不意に足を止めて、ギンコが言った。四肢をついたまま、東雲は顔を上げて、そうして彼は、ゆっくりと…ゆっくりと目を見開いた。見渡す限りの、足跡一つない雪原。眩い青い空から、光が降り注いでいる。
そしてその雪原に、ちらちらと細かい雪が降っていた。それは確かに雪に見えたが、白い雪ではなかった。それぞれに、きらきらきらきらと色を纏い、虹色に彩られ、その雪は降っていたのだ。
あまりにも美しくて、儚げなのに、消えることはなく降り続いて、東雲の白い襦袢の上にも、その雪はうっすらと積もった。手を差し伸べて、その雪を浴びながら、東雲はいつしか涙を流していた。
あぁ… あぁ…
なんて…きれいな…
「 彩 雪 … 」
妻の名を呼ぶ。彩る、雪、と綴り「さゆ」と読むその名前を、彼は呼んだ。彼の妻が、さゆが…最後に聞かせてくれた言葉が、東雲の耳の中で揺れて、その心の中へと解けた。
どうぞ もっと 自由に
生きて くださいますよう…
続
お詫び。先生、出てきそうにありませんっっ。すみませんっ。もしかして後日談を書くかもしれず、そしたら先生も出てくる感じでしょうか。あー、最近書いたのって、もうオリキャラばかり目立つ話で、どうしたらいいんだろう。
こんな話でも、とりあえず読んでくださってた方、ありがとうございますっ。後日談を除けば次回で終わると思うですー。おおぅー。頑張らなくちゃっ。ではまたー。
あ、今日は節分ですね。
うちは豆まきしましたよ〜。
恵方巻きも食べたのよー。
11/02/03
