雪の東雲   3 









薄暗がりに、濃い影で誰かの背中が見える。燃え続ける囲炉裏の炎が、その影をゆらゆらと揺らしていた。白い枝のように痩せた手が、薬の包みの中から、小さな粒を一つ摘んで口に入れ…。

 その手首が、後ろから伸びた誰かの手に掴まれて、そのまま強く捩じり上げられる。

「……ッ…!」
「……」

 指先に薬はない。きつく結ばれた唇を、その顎をギンコはとらえて、無理に押さえつけ、抉じ開け…。

「何をした…ッ!」
「……くぁ…あ゛…っ」

 だん…ッ

 古びて腐りかけた木の床が、派手な音を鳴らす。痩せた背を打ち付けて、仰け反る東雲の白い喉、その喉に食い込むギンコの指。もう一方の手は顎を掴み、頬に指を刺すようにして強引に口を開かせた。息をつかせる間もなく、唇を斜めに絡める。舌を突き入れる。

 嫌がる東雲の、尖った指がギンコの頬を引っかいた。全身で抗い、脚をバタつかせ、彼の振り回す腕が、肘が、床にぶつかって、狭いあばら家に大きな音が響いた。

 ギンコが顔を上げて、囲炉裏の火の方へと、口から小さな何かを吐き飛ばす。

 間近で見た東雲の目は、とても正気の目ではなかった。なのにもがく手は酷く正確に、開け放しの箱に伸びた。見ぬままで彼の指が中を探る。ギンコは追いかけるようにその腕を阻み、自身の指に触れたものを掴んで、それを激しく火に投じた。

 炎が一瞬青く勢いを増す。投げられた小瓶が、ぱりん、と音を立てて火の中で割れる。たった二つばかり薬包紙が、めらめらと燃えて灰になってゆく。火からほんの僅かだけ、逸れた場所に落ちた封筒も、火を免れることはなく、ひとすじ書かれた薄墨色の文字と共に燃えた。

 だが、何の偶然か、一瞬だけ燃え遅れたその中の紙片の、幾つかの言葉は、ギンコの視線に触れてから灰になる。


 薬…   露呈 ぬうち処分…

 
 見開かれたギンコの目が、怯えたように歪んだが、それは手紙を見たせいではない。口に残るほんの微かな苦い味に、ギンコは戦慄する。背中を嫌な汗が伝い、彼はまろぶように外への木戸を開け放った。伸ばした手で雪の塊を掴んで口に含み、それを吐き出し、もう一度同じように口に含む。

 さらに雪を握って東雲を振り向けば、崩折れたように床に這いながら、まだ薬の箱の中に毒を探していた。それへ足音荒く駆け戻り、髪を掴んで喉を反らさせ、強引に雪を口に含ませる。

「…吐き出せ! 早くッ!」

 その剣幕に、一瞬目を見開き、咽るようにして数回雪を吐き、その雪の溶けたものを、東雲はだらだらと口の端から零した。力なく咳き込む痩せた男を、まるで見下すかのようにギンコは見て、それでももう一度、戸口へと行って雪を運び、自身の口に含んで溶かしては、その水を口移しで与えた。

 その都度、乱暴に頭を押さえて床に吐かせ、もう抵抗もせず言うなりに、そうやって口を漱ぐ東雲の体を、最後にはギンコは、黙って胸に抱いた。

「あんたの事情は…、知らねぇが……」

 ちらり、ついさっき燃えて灰になっていった文面を思う。あまりに似ていて、化野の声と聞き違えたあの、女の名を呼ぶ声も耳に蘇る。酷く静かに、穏やかにそう言うと、いつの間にか縋りつくようにしてくる東雲の髪を、ギンコは殆ど無意識にそっと撫でた。

「ここであんたを死なせたんじゃあ、俺が随分、寝覚めの悪ぃ思いをすることになるんでな…」
 
 無茶、するんじゃねぇ…
 無茶させるんじゃ、ねぇよ…

 小さな声を耳元に告げて、ギンコは崩折れた東雲の体を、そっと床に横たえた。囲炉裏の炎は少し小さくなっている。まだ薪が切れたわけではないが、あばら家の中は、さっきよりも随分と寒い。

 抱き寄せるようにして、ごつごつとした細い体を腕に抱いて、自分の上着と、そして東雲の着ていた着物とを引き寄せると、それをすっぽりと被って、ギンコは長い長い息を吐いた。忘れていたが、東雲は一糸纏わぬ姿だった。ギンコ自身も胸を曝している。抱き合うと素肌がぴったりと触れて、互いの熱を、触れた肌に感じた。

   さゆ…    さゆ 殿 …

 どれだけ時間が経っただろう。また女の名を呼ぶ声が聞こえる。呼ぶごとに、さらさらと髪を撫でられ、うっすらと目を開くと、東雲の目が、酷く切なげな色を揺らしながら、ギンコを見ていた。

   ゆる  して  くれ…    さゆ…

 髪を撫でられる。眼差しも、ただただ髪を見ているように思った。不思議な夢見心地で、その声を聞き、髪に滑る指先の優しさを思いながら、薄く開いた目は閉じずに、東雲の目と、女の名を呼ぶ彼の唇を見ていた。

 そっと動いて、唇を塞ぐと、無抵抗に東雲は目を閉じる。抱いた腕で、背中を包み、その腕に力を入れると、少しも嫌がらずに身を寄せてくる。頬に口付けし、顎に小さく歯を立て、首筋を吸った。耳朶をちろりと舐め上げて、耳元で名前を呼んだ。

「…し、の…のめ…」
「……っ…」

 胸の奥底から、隠していた何かを喉へと突き上げるように、東雲は小さく嗚咽を零した。

「…さ、ゆ…殿……」

 あぁ、何かが胸に迫る。この男は、それほどに女を好きなのだ。

 女の何処かが、ギンコに似ているのかも知れなかった。髪に絡める指先の優しさが、それを物語っているように思えてならない。なのに、運命は、その女と東雲とを結ぶことはなく、これほどに心で求めた絆の強さを裏返すように、おそらく…この男は、女を…。

 詳しくを、ギンコが知る術はなかった。

 薬問屋の大棚の一人娘と、それへ婿入りした、由緒ある医家の出の三男。二つの家の間に、何があったのか。入り婿の東雲が、妻となった女を殺すことになった理由。その命の尊さに比べた、あまりの下らなさも。

 家柄も、その家の名の盛衰も、無論、金などというものも、命を秤にかけて守るほど価値はない。

 ただ、ギンコは心の傾くままに、酷く弱弱しく見えるその男の肌に、愛撫の印をつけた。首筋に、喉に、胸に、愛しむような愛撫を落とす。嫌がる仕草など見せぬまま、ただぼんやりと空を眺める東雲の目には、もう、この世にはいない女の姿が、ずっと映っているのに違いなかった。

 これは、ただの、哀れみだ。

 そっと撫でてやるのと差異のないような、小さな愛撫と抱擁だけ。それだけで、時を過ごしながら、ギンコは何度も化野の顔を思い出していたのだった。



















 なんか少し短くてすみません。この続きが…実はあまり考え付いてなくて、ちょっと今日は考え疲れたもんだから。ここでそろそろ先生を出しておくか、それとも東雲とギンコの翌朝を書くか、決めあぐねているのでしたよ。

 それにしてもハードな展開で、書いててドキドキしてましたが、書き方が下手じゃなかったら、もっとなんというか、緊迫感とかあるんじゃないかと…。うまく書けなくってねぇ。次からこんなハラハラな部分じゃないけど、頑張りますー。

 それにしても、東雲。キャラを深くし過ぎた。捏造オリキャラなのに…。それでも楽しんでくださってる寛容な方、ありがとうございますっ。そうでない方、どっ、どうもすいません…。せめて、早く先生出た方がいい???


2011/01/10