雪の東雲 2
彩雪が逝くことで、
だんな様は、なにひとつ重荷を背負うことはない。
だって、もう、彩雪は死んで自由になる。
だからだんな様も、これからは、
もっと自由に生きてくださいますよう。
びゅう、と風が強く吹いた。項垂れて目を閉じた闇色の視野に、東雲はひと月前のことを思う。
妻は、痩せ細った手で、花の茎のような、か細く白い指で、私の手を握り…。最後に今一度、ほんの少しばかり強く握り、それだけでもう力尽きてしまったかのように、ぽつり、と命を途切れさせた。
細い細い首が、かくん、と横に傾いて、あれほど最期を苦しんだのに、それでも少女のように微笑んで逝ったのだ。それから後のことを、葬儀の事をさえ、私はあまり覚えてはいない。妻の、命がぽつりと途切れたときに、私の中にある、元々掻き消えてしまいそうな心も、途切れてしまったかのようだったのだ。
なのに、あの手紙が私を掻き乱した…。
大棚の薬問屋の、この家に、送られてきた文。私の生家からの弔文には、酷く巧妙に、私にしか判らないように、二重に設えられ封筒の隠しに、もう一通の短い文。
『飲み残した薬があれば、露呈せぬうち処分せよ』…と。
あぁ、あの手紙が、私を…
「そろそろ、もう少し寄っても構わねぇよ」
声を掛けられ、東雲はびくり、と顔を上げた。囲炉裏の炎に彩られる白い髪の色を、たった今見ていた悪夢の中から、現れたもののように錯覚して震える。声は、乾いてひりつくようになった喉から、他人の声のように遠く零れた。
「……いえ、ここで充分暖か…」
あぁ、さゆ殿。
まるで、さゆ殿のようだ…。
もう燃やされてしまったあの髪は、
灰になっても美しく清らかな色だった。
濡れた服を脱いだ方が良いと言われて、服を脱いだ。炎を隔てて、向かいに座っている男の視線が、変に自分を見ていると判っていたが、そんなことは気にもならなかった。
体を曝すと、男は息を飲んで、不躾なほどに私の体を眺めている。それほど、酷いだろうか、と私は思って、ただ次に何かを言われるまで、着物を落とした裸のなりで立っていた。
しゅるり、と布の滑る音がした。雪の溶けた水にぐっしょりと濡れていても、上等の布地は肌の上を簡単に滑るのだろうか。炎を見ていた目で、ギンコは東雲を見て、引き連れるように息を止めたのだ。
ギンコより、幾つかは若いだろう筈の男の裸体は、酷く痩せ細っていた。骨の一本一本の形が、透けて見えるような気がするほど。肌だけはまるで少女のそれのように、白く穢れなく美しいだけに、その痩せ方がいっそ無残に思えた。
「不躾ですまんが、病でも…?」
「……さぁ、どうなのでしょうか…。医家ではないので、判りません」
「診せてないのか…?」
「……」
その痩せ細って、弱りきっているであろう体で、この、すべてが凍りつくような雪の中、この男はどこへいこうというのか。ギンコは半ば愕然として、暫し視線を離すのすら忘れ、三度、火種の弾ける音を聞いて、やっと我に返る。
「いや…。すまんな。首を突っ込む立場じゃねぇか。にしても、あんた、その体でたった一人、しかもそんな軽装で、雪の山越えかい…。下手をせんでも命を落とすぜ?」
それもまた、深入りするような言葉だったかもしれない。そう言ってしまった言葉を、今更引っ込めることも出来ずに、ギンコは自身が背中に掛けていた上着を取って、片腕だけを伸ばして東雲へと差し出した。
「外側は乾いちゃいねぇが、この上着は水を通さねぇから、あんたの脱いだ服が乾くまでだけでも、体に纏っていりゃあいい。……ずっと旅暮らしの身の上でね、洗い立て、ってわけにゃいかないけどな」
散々な埃塗れの上、雪に濡れた上着など嫌がるだろうか、と、らしくもなく思ってしまうほど、目の前の痩せた男のなりは小奇麗で、旅どころか、日頃は外も歩かないのではないかと思うほど色が白く。
それでも東雲は自分から手を伸ばし、ギンコの差し出す上着を手に取ると、言われた通りに背に纏い、前で掻き合わせるようにしながら囲炉裏の前へと座った。布の一枚も敷かぬ板の間に、きちんと正座をして背筋を伸ばし、だけれど首だけはがくりと前へ項垂れている。
そうしてそんな彼の体の傍には、腰の後ろへとぴったり付けるように、件の真四角い木の箱があり、東雲は不自然に片手を後ろへやってそれへ触れていた。
「あんた、その箱、余程…」
ギンコの言い掛けた声が、まったく聞こえていないように、東雲の唇から、言葉が零れた。
「先刻……あなたは私のことを、『あだしの』…と…言った…。それは私の『兄』の…名…」
「…お、おい…っ!」
がたん…っ。
あとほんの少し前に座っていたら、囲炉裏の火の中に倒れ込んでいたかも知れぬ。ギンコは唐突に意識を失った東雲を、狼狽しながら抱き起こした。心のどこかで、その骨のごつごつと手に触れる、痩せ切った体を哀れだと感じている。
これほどそっくりな姿形をしていて、彼がそれでも化野と違って見える理由が、今頃になって判った気がした。この男には、生気がないのだ。ただただ真っ直ぐに、「死」へと向かう魂の匂いが、傍にいて辛いほど漂っている。
抱き起こし、殆ど無意識に抱き寄せながら、未だ冷え切ったままの細い体を、その素肌を、ギンコは手のひらでゆっくりと擦り始めた。
さゆ殿…。
さゆ…。
さ…ゆ…。
化野が、女の名を呼んでる。繰り返し繰り返し、愛しそうに呼んでる。なんだよ、どこか女のような顔して、女のように白い肌してる癖に、とうとう女を好きになったのかよ。繰り返し、その名を呼ぶ声が聞こえて、ギンコは肘枕している自分の肘に、自分の耳を押し付けた。そうしていれば、声は少し遠くなる。
お前、あれほど俺を好きだと言った癖、それはねぇだろ。そんなことなら、金輪際、指一本も触れさせやしねぇぞ。
夢の中に漂うように、おぼろげにそう思っているギンコの肌に、すぅ、と冷たい空気が当たる。寒くて薄っすらと目を開けて、まだはっきりとは見えない薄暗い視野に、誰かの背中を見た。
真四角い木箱を開けて、中から瓶を一つ取り出し、その中に詰めてあった薬包紙の、指先に隠れそうに小さな包みの一つを、開く。包まれてあった一粒が落ちて、ころころと床を転がり、丁度ギンコの顔のすぐ傍で止まった。
香りがする。甘いような、糖衣の匂いだ。匂いのきつい薬や、苦い薬を子供に飲ませる時などに良い。だが、その匂いの下から、隠し切れていない特殊な匂いが僅かに零れて、ギンコは鼻にきつく皺を寄せる。
「……」
睡魔から抜け掛けながら、ギンコは白いその丸薬の粒に、爪を立てた。固い床にあるままで、きり、と爪を立てて、小さなそれを割ると、中から墨のように黒い別の粒が零れ出る。これ、は…?
紛れも無い 「死」の 匂いがした。
続
カプは化ギになるようです。東雲さんの設定が、だんだんと明らかになってきました。…なんて、格好イイこと言ってますが、昨日の今の時間くらいに、彼が既婚者で、妻が他界してるらしい、と決まったので、偉そうなことは言えないのです。
これからも書きながら新事実に驚きたいと思います。中々先生が出てこなくてすみませんが、いづれ出ますので、東雲で我慢していてくださると嬉しいです。無理ですか…。そーですよね。
次回は、きっと急展開です。どうぞお楽しみに〜?
あー、年内もう二本書きたい。←無理だと思う。
2010/12/29
