雪の東雲 1
視野が、酷く狭まるほどの雪だ。
里の最中だが、誰も歩いているものはいない。人のないのは、ここが海里でも、田畑の多い稲里でもないからかもしれないとは思った。こんな厳しい天候の下、夜半も近いこんな刻に、誰と擦れ違わないもの別に不思議でもなかったのだが。
ずっと降り続く雪に、足が取られる。古物屋で買った藁靴は、安かったのでなんとか買えたが、今にも破れそうに心元ない。
「は…。かと言って、いいもんを買う金もねえし、な」
呟くと共に、ギンコの唇から白い息が零れて、一瞬視野を覆い、その息の冷えたものを顔に浴びた。うっかり吸い込むと、喉の奥まで凍りつきそうに思う。顔を横にそむけて、頬でそれを受け流し…。その時、逸らした目が、濃い錆色に、人影を見たのだ。
こんな酷ぇ天気に、ね。
物好きも、居たもんだよ。
思いながらその男と擦れ違う。雪のせいで道幅はぎりぎり擦れ違えるくらいしかないから、布も被らずに髪を雪で染めている、その男の顔が、ギンコにはよく見えた。
「あ、あだし…?!」
「………」
行き過ぎて一歩、擦れ違った男の足が止まった。襟巻きもしていない首にまで、雪を纏いつかせたその肌が、酷く寒そうだと思うと同時に、別人だとギンコは思った。似ている、どころではない。そのままの顔なのに、これがけっして化野ではないと。
立ち止まった男は、振り向いているギンコの方など向かずに、声すら立てず、じっと動かなかった。体の前に、真四角い木の箱を抱え持って、それへ雪が積もらないように、自身の羽織の袖を、その上に被せているようだった。
「いや、人違い…のようだ」
その男の声が聞いてみたくて、ギンコは何も言われぬうちにそう言っていた。男はもう一歩だけ前へと進み、足の進みを邪魔している雪を、じっと見下ろしたまま、淡々と、低く、こう言った。
「旅のお人。…この雪はまだ降り続くのでしょうか…?」
「…あぁ、どうだろうな。…多分」
「雪を遮る術を、何か御存知ですか…」
この先の空のことなど、判る筈もなく、ギンコは答えた。すると男はまた短く言った。雪風の鳴り響く音で、はっきりとは聞こえなかったけれど、一瞬、自身の息の音すら止めて聞き取ろうかと思ったほど、その声も似ているのだ。
「…その先に、壊れ家があったようだが。分かれ道で左へ下って、三本杉の手前を右に…」
「………」
さっきから、視野を塞ぐばかりのこの雪だ。分かれ道の標など見落とす。三本杉など、杉に見えるかどうかも判らぬ。何もかもを白く染める深夜の刻に、例え里の中だろうと、慣れぬものなら進むも退くも封じられるかも知れなかった。
「こっちだ」
ギンコはいきなり男の腕を掴んだ。途端に、ひ…と、短く悲鳴のような声を上げられて、反射的に手を離したが、立ったまま、半身だけで蹲るようにして、男が木箱を庇うのが見えた。
「悪ぃ…。大事なものかい…?」
「……い、命より」
「…なら、このまんま雪ん中を行ったら、その箱もろとも、次に大事な命まで落とすだろうぜ。付いて来なよ。雪を避けられるとこを教えてやる」
「…恩に…着ま…」
ぐら、と男の体が傾ぐ。ギンコへと向けた体が、そのまま前へと倒れてきて、膝を付くかと思った。だが、男はなんとか持ち答えて、真っ青な顔色でギンコを見た。
あぁ、怖いほどだ。こんなに似ていて、これでもしも血の繋がりすらなかったら、人の姿形を作る神だかなんだかが、随分と手抜きをしていると思うだろう。なのに明らかに別人で、どこがそんなに似ていないのかと訝る。
「歩けるかい…?」
「あぁ…。はい、歩け、ます」
震える唇が妙に艶めいて見え、ギンコは意識して目を逸らした。何故だか判らなかったが、一瞬、自分自身が怖い気がして、それから先、壊れ家に着くまで、彼は男の顔を見なかった。
* ** ***** ** *
ぱち…っ。
囲炉裏の中で火が爆ぜた。壊れ家は、もう半分崩れかけの様相で、屋根にまで隙間があったから、ちらちらとだけ雪が室内に降っている。ギンコが力ずくで、要らない場所の板を剥いで、火を熾した囲炉裏にくべていたから、それでも充分に暖かい。
天井の隙間から入ってくる雪が、途中で溶けて消えていくのを、男が部屋の隅で、ぼんやりと見ていた。座っているそのすぐ後ろに、件の木の箱。足が生えて逃げるでもないだろうに、男は不自然に右手を後ろに回して、その箱にずっと触れている。
「そろそろ、もう少し寄っても構わねぇよ」
言いながら、ギンコはまた木切れを火の中へ放る。男の体が氷のようだったから、すぐに火の熱気に当たらせるのは、止めた方がいいと思ったのだ。手足の凍傷もあり得る。それほどでなくても、冷え切った体を急に熱するのは、あまりいいことじゃないと判っていた。
「……いえ、ここで充分暖か…」
「寄りなよ。そんな離れてちゃ、声もよく聞こえねぇしな」
「…はい」
随分とお育ちがいい。ある程度以上、地位も金もある人間だと判るのに、見るからに粗末ななりの、ただの旅のものと判るギンコに、最初からずっと丁寧な物言いだ。素直に火の傍に近付いた男に、ギンコは聞いた。
「名を聞いていいかい? 俺はギンコ、と言うんだ。言いたくなきゃ、嘘の名でもいいぜ。ただ、呼ぶのに不便なだけだから。少なくとも朝までは、ここに一緒にいることになるしな」
「…しの…」
火を見ていたギンコが、僅かに顔を上げる。あだしの、と言ったのかと思ったのだ。
「しののめ、と、呼んで下さい。東の雲と書く…。嘘の名じゃない。私の、本当の名です…」
「そうかい? じゃあ、東雲。あんた、その濡れた服は、とりあえず全部脱いだがいいよ。風邪どころか、肺炎になっちまうからな」
言った途端に喉が渇いた。言葉に他意は無い。無いが、ずっとこの男から目を逸らして、見ないようにしようなどと思えなかった。さっき雪の中で、間近にこの男の唇を見た後、ここまで歩きながらギンコはゆっくりと自覚したのだ。
いつも、彼に女の役割をさせて抱いている情人に、心の底では自分が、どんな欲を持っているのかを。
ぱちッ。
また火が爆ぜた。囲炉裏から外れた場所に、赤々と火の欠片が零れて、その小さな火は中々色を失わず、金色、黄色、橙、朱…と、微妙に色を変じながら光っている。
それが黒い小さな焦げ跡を残して消える頃、火ばかり見ているギンコの視野の外で、しゅるり、と布の落ちる音がした。
続
突発です。書き始める一分前まで、思いついてもいませんでした。そして今も、「続」と一話を結んだ先を、殆ど考え付いてもいないのでした。行き当たりばったりってねぇ…。面白いんだわ。…危険だけどよ。行き当たりばったり過ぎて、カプまで未定って、どうすんだか。
この話は、2010/6/9ブログで書いた「端切れ」という短文…と、6/15のブログの「双子」という短文…に、ちょっと影響?を受けてます。まったく同じ設定ではないけど、ほぼその設定。
だからこの話は、お題を考えてくれ、イメージ絵を見せてくれたe様のお陰でもあります。遠いその地へ感謝御礼を投げます。
だだだだだ…っ。てっ…えーーーーーーーいっ。←投げ槍風。
2010/12/12
