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… 桜花の性 7 …
目を見開いたギンコの視野には、必死になった化野の顔が見えた。蔵の壁や天井。棚や階段。それらが視界でぐるりと回り、そうして彼の片腕には、酷い激痛が走ったのだ。腕だけじゃない、肩にも。そのあと続けざまに背中や腰にも。
何が起こったのか判らないまま、気付いたら二人は互いの体を支えあいながら、狭い階段の途中に引っかかっていた。
「無事…か?!」
苦しそうに化野が言った。痛みを堪えるような声だった。返事の代わりにギンコは頷いたが、「無事」と言えるかどうか疑問だ。
多分、着物の裾を踏んで、階段から転げ落ちそうになった俺を、化野が身を挺して救おうとし、代わりに危険に曝された化野の体を、必死に伸ばした俺の腕が助けた…のだろうと思う。
とにかく、あちこちぶつけたり何だりしたであろう全身が痛かった。一番痛いのは、片方の肩と腕と手と、手の指。見れば化野も、同じような場所をさすっている。互いが互いを助けようとし、辛うじて届いた片腕だけで、相手を必死に支えて引き上げた結果だ。
「とにかく、下へ下りよう…。戸を開けて光を入れて、お互いどこか傷めていないか、よく診ない…と…」
「…………」
化野の視線が、突然じっとギンコを見た。見つめられたギンコは、困ったように苦笑し、そのから気まずそうに下を向いて黙っている。
「お前、もしかして…、ギンコ」
「あぁ、どうも今ので、戻った、らしい」
「あぁぁあ、あ…」
髪の長いのは同じ、当然来ている女着物も同じ。だけれど顔も体つきも声も、すっかり元のギンコだった。男の姿で桃色の襦袢を着ていて、花柄の着物を纏いつかせていることに、ギンコは居た堪れなくなって無理にもがいた。
全身痛くて辛いのに、下へと下りて行って、いたた、いてて、と言いながら、木陰に隠れつつ家の方へと行ってしまう。案外平気そうに歩いている後姿を確かめてから、化野は天上を向いて深く溜息をついた。
「結局、ちゃんと抱いてもいないうちに…」
二人して階段から転げ落ち、大変なことになるところだったのを、ある意味随分と不謹慎な悩みごとだ。けれど本当は、それだけじゃない、化野は難しい顔をして項垂れ、暫し一人で眉をしかめているのだった。
先に母屋へ戻ったギンコは、さっさといつもの服に着替え、平らに戻った自分の胸を、しつこいくらい手で触って確かめ、ぼり、と頭を掻いている。思い出して、楽なように胡坐で座りなおし、華奢ではなくなった腕やら脚やら触ってみて、そうしながらやっぱり、いてて、と顔をしかめる。
「残念そうな声出しやがって…。判ってんのかねぇ」
思わずぽろり、と本音が零れた。もしあそこで自分が、弱々しい女の体のままだったら、十中八九、二人して階下へ転げ落ちていたのだ。軽い怪我では済まなかったかもしれないし、頭でも打てば、下手すりゃ命に係わっていたかもしれない。
長いままの髪も、もう切ってしまおうと思って、首をめぐらせ木箱を探し、体を動かそうとしてまた、腕の痛みに彼は呻き声を上げる。
「ギンコ」
「んん?」
「体、大丈夫なのか。すまん、お前を助けようとしたのに、逆に…」
「なに言ってんだ。お互い様ってやつだろう」
「まぁ、そりゃ、俺もあちこち痛いけどな」
蔵から戻ってきた化野は、そう言って笑っていながら、残念そうにギンコの姿を眺めている。縁側に腰を下ろし、腕やら肩やらをさすり、化野はぽつりと言った。酷く小さな声で途切れ途切れの、なんだか彼らしくない声だった。
「さっきの話、さ」
「…なんだっけか」
「そのぅ、め…」
「め? 目がどうかしたか」
「違うっ、俺と、め…、めっ、『めおと』に、ならんか…って話だ…っ」
ギンコも化野と同じように、せっせと体をさすっていたのだが、聞いた途端にぴたりと動きを止め、暫し沈黙してから顔を上げる。
「はぁ? 何言ってんだ、先生。この男姿に戻った俺に…よくも、そ…」
「だ、駄目か。いや、だって俺はもともと、男のお前に」
ギンコは言葉の途中で不自然に言葉を切ったまま、畳に手を置いて、くるり、と化野に背中を向けた。どきどきと胸が高鳴るのは、別に嬉しいせいでもなんでもなくて、蟲が…。彼に憑いた蟲が、酷く騒いだからだった。桜の香が、また部屋に満ちて、ギンコは動揺する。
「ギンコ、もし…もしもな?」
化野はギンコのそんな様子の変化には気付かず、縁側から部屋の方へ入ってきて、そうっと、おそるおそるギンコの体を抱いた。着物は脇に脱ぎ散らかされたままなのに、ギンコ自身から花の香がすることに、気付いている余裕は今の彼に無い。
「もしも俺を、好きなら…口約束だけで構わんから、俺と自分は今から『めおと』だ、と、一言…」
「……『めおと』だ」
「は…?」
あまりにも唐突に零れてきたギンコの言葉を、化野ははっきり聞いていながら、それへ仰天するあまりに聞き返した。
「一言でいいんだろう。言ったぞ。腕を離してくれ」
「え…っ、いや、も…もう一回言ってくれ!」
「化野」
「う、うん…っ?」
「この着物な、なんとか上手いこといって、茶屋の女将に返しといてくれよ」
「ええっ!?」
ぐい。と、腕を突っ張って身を離し、ギンコは木箱のところまですたすたと歩いた。それからさっさと上着を着て、いつものように、手早く木箱の中身を確かめて背負う。
「じゃ、な、化野。また来るよ」
「ちょ…っ…。そんな。や、だから…着物返しとけってったって、どう言っ…。いや、それより、おまえ…今の…。んん…ッ」
顔だけ、突然近寄せて、ギンコは化野の唇を吸った。彼から口づけすること自体酷く稀だったから、化野は数秒間呆け、そうしているうちに、ギンコは外へと出て行き、どんどん歩いていってしまう。化野が正気に戻った時には、遠くに見える木箱の背中は、酷く小さくなっていた。
「『めおと』…かぁ…」
呟いた顔が少しばかりにやける。ついつい脳裏に浮ぶのは、女姿の美人のギンコだ。けれどその顔は、すぐにいつものギンコの顔に変わり、その唇が動いてこう言う。
着物、茶屋の女将に返しといてくれ
なんてぇ難題置いていくんだ、お前、と、化野は思わず呟いた。しかも昨日来たばかりなのに、もう行ってしまうなんて…。着物を引き寄せて畳んで、帯も襦袢もその上にまとめ、風呂敷に包んで、化野はそれでも立ち上がった。見れば、庭には桶に入った淡い黄色の菊が一輪。
あの、可憐なギンコを思わせるような、可愛らしい姿をして、菊はそこで咲いているのだった。
終
ギンコさん、大胆!? 何が? ちゅーが? いえ「めおと」宣言が、です! えーと、さて、ですね。
この後の、ちょこっと話?が、ありますので、よかったらそちらもどうぞー。なぁに、本編で消化できなかったことを、言い訳染みて書いている、というだけのことでしたよ。とほほー。でも、ラストは好きなんです!
ちょっと泣ける様な気持ちに、私はなりましたー。
09/04/27
