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… 桜花の性 6 …







 目を覚ました時、しっかり捕まえていたはずのギンコは傍らにいなかった。起き上がって着物を羽織り、あたりを見回すけれど部屋の中にはいないし、別の部屋を見て回っても、気配もしない。

「ギンコ…?」

 元の部屋に戻ると、脱ぎ捨てられた着物と帯はあって、襦袢だけが見当たらなかった。ギンコが髪を縛っていた、短い紐も畳の上に弧を描いて落ちたままだ。木箱…。木箱はある。ほっとして…、知らずに不安がっていた気持ちを楽にして、化野は外へと出てみた。

 縁側の外、玄関の前、裏へ回って井戸の傍。そこらに見当たらないとなると、家から離れていったか…それとも、蔵。視線をやると、はたして蔵の重たい扉が、ほんの少し開いている。

「蔵なんかに…?」

 襦袢と帯をまとめて持って、化野は蔵へと足を向けた。朝の目映い光は届いているはずが、そのあたりは地面も湿っていて、ほんの少しの苔が生えており、ひいやりと寒い感じがした。

 なんとなく、声をかけずに蔵へ入って行き、二階への階段を上がるにも、音を立てずに化野は進んでいく。だが、きし、と、小さく響いてしまった階段の音に、二階の明り取りの窓の傍にいたギンコが、ぎくりと身を震わせる姿が見えた。華奢な後姿。きちんと着られずに、乱れがちの襦袢…。

「…どうした? ギンコ。からだ、大丈夫なのか?」

 怯えたように振り向いた、その頬が赤い。幾らか開いていた襟元を、片手でぎゅ、と掴んで押さえ、ギンコは睨むような目を向けた。

「お前が、それ、言うのか…?」
「あー、悪い。辛いか、腰とか、その…」
「…ひりひり、する」

 ぽそり、と小さく呟いた言葉の、その意味を判って、化野は言った。

「あぁ、そうか…。薬、つけてやろうか…? 自分じゃ見えないだろうし」
「馬鹿…っ。誰がっ!?」
「すまん、つい…。謝る。もうしない。その、あんなふうには、だな…」

 どこが「ひりひり」しているのか、よく判っているふうな態度が憎らしい。ゆっくり近付いてこようとする化野から逃げたくて、ギンコは座り込んでいる膝に力を込め、立ち上がろうとするが、それが容易には出来ない。こうして蔵の二階へ上がるのだって、酷く難儀をしたくらいだ。

「こっちに来るなっ、怒るぞ!」
「怒るだけか? なら、怒っていい。怒られるだけのことはしたしな」

 そう言いながら、化野はどんどん近付いてくる。帯を傍に置き、抱えていた着物を広げ、寒いだろう、とかなんとか優しげなことまで言っていた。
 そもそも蔵の二階は、階段を使って階下へ下りるしか出来ないのだから、逃げようとて最初から無理なことなのだ。昨夜の事が恥ずかしくて、少しの間だけでも、身を隠したくてここにいたが、隠れる場所を間違えている。

「あだしの…」
「んん? なんだ?」
「俺のこの姿は、そもそも蟲のせいで…」
「あぁ、そうだってな。最初に聞いたよ」

 ふわり、と背中に着物が掛けられた。その上からすっぽりと腕に包まれ、静かに力込めて抱かれると、どきどきと胸が高鳴り出してしまう。火照ってくる首筋に、そっと化野の唇が触れた。

「化野…」
「ん? なんだか、随分といい匂いがするんだなぁ。これは香か? 桜の花に似た匂いだ」
「………」
「細くて、小さいな、お前」

 化野の声は、どうしてか嬉しそうだ。旅に暮すギンコの体は、けして華奢ではなかった。この里で医家をしている化野とギンコならば、きっと力も彼の方があるだろうし、生きていくための知識だって、何かあった時の機転だって…色々なことが、多分、ギンコの方が優れているのだろう。

 ずっと、化野はそんなことを、心の片隅に思ってきた。一人で生きてきたギンコ。一人で生きていけるギンコ。こんな小さな里で、ただ医家をしてきただけの自分などいなくとも、ちっとも不自由などなく、大丈夫なギンコ…。

 だけれど、今のギンコならばどうだろう。旅をするにしても、女一人では危ない。木箱ひとつだって、重そうに背負っていたくらいなのだから、もしかしたら、もっともっと、自分を頼ってくれたりはしないだろうか。来る回数だって、きっと随分増えてきたり…。

「ギンコ、好きだぞ…」
「……うん…」
「なぁ、今こそ、言い返してはくれんのか」
「…もしも…」
「ん? なんだ? 言ってくれ。何を言いたいんだ?」

 ギンコは化野に背中を向けたまま、嫌がるように首を横に振った。さらさらと、白い長い髪が揺れて、彼の表情を隠している。ギンコは震えて、自分の言おうとしている言葉に怯えているようだった。

「なぁ、もしも…俺がこのまま女でいたとしたら、お前…いつか誰かを娶る代わりに、俺を…、つ、妻…に…」
「馬鹿だなぁ」

 化野はそう言った。ギンコは自分の言ったことを、愚かだと言われたのだと思って、震えながらもがいた。化野の腕に爪を立て、項垂れたまま暴れて、滲んでくる涙を、ギンコはひっそりと零している。
 あぁ、そうだろうよ。一目見れば女だとしたって、体は半端なままの、こんな奇妙な女もどきなんか、可笑しくって妻になんか…。

「なんで『代わり』だって? 俺はお前が女だろうと男だろうと、生涯ただ一人の相手だと思ってるんだぞ。お前、人がいつも『好きだ』と繰り返している真心を、なんだと思って聞いてたんだ?」

 ギンコは相変わらず項垂れたまま、目を見開いて聞いていた。涙は止まらずに、さっきまでよりももっと、大粒の雫になって零れ落ち、埃っぽい蔵の床に模様を書いた。

 化野は力の抜けたギンコの体を、静かに自分の方へ向けさせて、着乱れた着物の襟の中の、浅くてささやかな胸の谷間に唇を付ける。震え上がっただけで、逃げようとしないギンコへ、彼はよく聞こえるように、一つずつ丁寧に言ったのだ。

「じゃあ、今度も本気で言うから、ちゃんと聞いてろよ。ギンコ、もしもお前が嫌でなかったら、俺の妻になってくれ。祝言ってわけにいかないだろうが、二人きりで誓うだけでも構わないから」
「…だ、だから、この姿は、蟲がそうさせてるだけで…今に」
「つまりは、子を産むとか、そういうのは無理だというんだろ?」

 ギンコの頬や首筋が、見る間に真っ赤になっていくのを、化野は心底愛しく思って見つめていた。化野は薄々判っていたのだが、昨夜の『お前の産んだ子が』云々というのを、ギンコは聞いていたのだろうと思う。

「そもそも、本当の女の体じゃないのに、子供なんか無理に決まってる」
「そうだろうな、残念だよ」
「もしもずっと体がこうだったって、お前の妻になったって、蟲を寄せる体質は変わらないんだ。傍にはいられない」
「あぁ…それは、切ないなぁ…」
「だ、だからそんなのは」
「でも、絆がもっと強くなるかもと、そう思うのは判るだろう。『友』よりも、『妻』だと思えたら、今よりも幸せだと思わんか」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、ギンコは胸が詰まった。女と似たような体になって、女のような心になって、化野への深い愛しさは、その心の脆さになって、自分へと跳ね返ってきてしまう。

 ちゅ、と軽く唇を吸われ、ギンコはそれでも化野の胸に腕を突っ張って、彼の抱擁から逃げた。涙がぼろぼろと零れるのを、少しでも隠したくて、急いで階段の方へと走る。

「ギンコ、着物が…」

 危ない、と、言おうとしたのだ。彼が背中に羽織ったままでいる着物の裾が、長く床へ伸びていて、そのままでこんな狭い蔵の中を、項垂れたままで走っては…。名を呼びながら背中を追いかけて、肩へと手を伸ばした瞬間だった。目の前にあるギンコの体が、ガクリ、と前のめりに傾いて…。

「あ、危ない…ッ」
















 えーと、前回はエロくし過ぎて反省しましたので、エッチは終了と致しましてね。へろりー。で、そろそろラストへ進んでおりますが、この回はまた…オチが見えるようで、どうもスミマセンー。というわけで、多くは語らずにアップ作業をしちゃいますよー。

 読んでくださっている方、ありがとうございます♪


09/04/17