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… 桜花の性 1 …





「せんせいっ。なぁ、化野せんせいッ」

 うっかりと徹夜をして、難しい医術書を一冊読み終えてしまった朝のこと。聞き覚えのあるでかい声が、閉じた雨戸の向こうから聞こえた。立ち上がってガタピシ言わせながら雨戸を開ける。
 あー、いかんな、ちょっとこの雨戸、痛んできてるみたいだ。

「どうした、そんな大声出して。なんか急患かね。落ち着いて話してくれ」
「あぁ、いや、違うよ、病人やら怪我人じゃない。でも驚いちまったもんだからね。峠の向こうの茶屋でさぁ、白い髪に緑の目の人を見たんだよ」
「なにっ、ギンコをかっ」

 けれど干し魚を近隣の里に売り歩いているその男は、首を横にゆっくりと振ったのだ。

「ギンコさんだったら、俺だって知ってんだ、そんなら名前を言うよ、せんせい」
「……? ギンコだろう? 白い髪に緑の目…って。違う、のか?」
「だって、女の人だったんだよ」

 ガタ、と雨戸を尚更ガタつかせて、化野は慌てて草履に足を引っ掛ける。寝不足で酷い顔だと判っていたが、顔を洗ったりなんだりしている気分じゃなかった。ギンコじゃないのに、ギンコと同じ白い髪、緑の目。
 そんな女が峠の茶屋にいるというのだ。しかも女はそこの二階に泊まっているらしく、口ぶりだともう三日、そこに滞在しているという。

「まだその女、そこに居るんだな…っ?」
「判んないよ。だって、俺が話をしたわけじゃないし。だけど茶屋の女将との雑談で、それらしいこと言ってるのが聞こえたし、その上、先生、どうもその女はね…っ」

 こちらの里から茶屋へくる旅人に、化野先生のことをいつも聞くんだ、と。

「い、行ってみる…!」

 小石に躓き、垣根を跨ぎ越しながら着物の裾を引っ掛けて、それでも化野は止まらずに、道を山の方へと走っていった。峠の茶屋と言ったら、ここから遠くも無いが、そう近くもない。着くころにはきっと、半刻やそこらは経っているだろう。

 走りながら化野は思った。どうしてこんなに自分は急いでいるのか。ギンコじゃないのは確かだろうし、ただ、髪や目の色が同じというだけだ。自分のことを、聞きたがっていたというだけのこと。なのに本能に突き動かされるように、化野は走っている。

 鼻緒が擦れて足の指が痛むほど、そんなに懸命に走り続けて、やっと茶屋が見えた時、一番端の景色のいい場所に座って、こちらを見ている白い長い髪の女が見えたのだ。

 ギンコ…。じゃない…。
 そりゃ、判っていたが、どうみたってあれは女だ。判っていたのにどうして。どうしてこんなに、がっかりしているのだろう。

 女は驚いたように顔をあげ、いきなり立ち上がって脇にある荷物を引っ掴み、そのまま茶屋の奥へと入って行く。二階に宿をとっているんだとか。じゃあ、部屋へ行ったのか…。

「ま、まっ…待ってくれ、ギ…。あんた…っ」

 ついギンコと呼びそうになりながら、化野が茶屋へと走り込もうとする。その袖をむず、と捕まえて、茶屋の女将がにこやかに言った。

「おーーっと、あんたさん、ご注文がまだだ。うちじゃ茶と菓子かなんか。あるいはお食事を頼んでもらってから、中に入ってもらうって習慣でね。何食べなさる? 美味い魚の煮付けとか、今なら出せるよ。どうだい?」
「茶、茶でいいっ。それと、あーーっだんごをふた串っ、袖ぇ離してくれっ」
「だんごね。胡麻と餡でいい? それともどちらか一方をふた串? あぁ、胡麻だけがいいのかい。じゃあ茶は? 冷たいのも出せるけど? あんたさん、随分と汗かいてなさる」

 判っててしているとしか思えないほど、女将は化野を引きとめた。胡麻をふた串でいいと急いで告げたのに、今度は冷えた茶と熱いのと、どちらがいいかと聞いてくる。しかも袖を掴んだ腕の、その強さときたら。

「お、女将」
「あいよぉ、なんだね。やっぱり餡だんごも食べる?」
「化野ってのは俺だ、そっちへいった里の高台で医家をしてる。それ聞いても引きとめるのか…っ」

 ぱ、と唐突に袖が自由になった。女将は化野の顔をまじまじと見て。そうかい、あんたがかい、と真面目な顔でいい、それから、にまり、と嬉しそうに笑った。

「いいや引きとめない。あんた、あんな怖い顔して走ってくるし、娘さんは怯えたみたいに逃げるから、てっきり悪い男かと思ってさ。そうかそうか、そんなら悪かった。なんだか判んないけど、さっさとお行きよっ」

 ばし、と背中を叩かれて、化野は店の中へと走り込んだ。またも躓きながら入っていって、二階へ上がる階段を見つけ、もどかしげに草履を両足脱いだところへ、外から女将の声が掛かる。

「何してんだいっ、二階へなんか上がってないよ、店ぇ抜けて裏へ出てったんだよ」

 どうせなら、草履を脱ぐ前に言ってくれ。脱いだ草履をまた履いて、化野は店を抜けた向こう側へと走り出た。どちらへ行ったか判らないまま、当てずっぽうに駆けてゆくと、まだ新芽の一つも出ていない大きな桜の木の前で、女は背中を向けて立っていた。

「…え…っと」

 そういえば、何しに来たかも自分で判らなかった。どう声を掛けていいのか迷ったままで、化野は言った。

「そのぅ、俺のこと、き、聞きたがってたんだって? 俺がその、ここから下った隣里の、医家の化野なんだが」
「化野…先生……」

 あ、と思った。背中を向けたままの彼女の声が、ギンコの声に似ている気がしたのは、ただの気のせいなのか、それともこの女はもしかして、ギンコの親類とかなのか?

「その…あんたは、ギ…」
「俺…」
「え?」
「俺だ。化野…」

 少し低いが、声は女性のそれだった。なのに彼女は言う。俺だ、と。酷く不思議なことを。化野は開いた口を閉じるのも忘れ、ゆっくりと振り向いた彼女の姿を見ていた。

 まだ新芽も出ていない桜の木だというのに、どこからか桜の香りがした気がした。














 完っ全っっっな突発ノベルです。数時間前は考えてもいませんでした。あー、なんか浮かんだなぁ。こんなん浮かんじゃったーとでも、ブログで喋ってこよ。特にブログネタもないしさー。ふぅ…。とかなんとか思って、ぽっちぽっちと打ち始めたら…。

 気付いた時は「どががががががががかかかー」と打っていて、あっという間に一話分。笑。まぁ、こんな内容ではございますから、読んでみて、あーこういうのイヤっ、と思った方は、すたこら逃げといてくださいますと助かります。あははー。なにしろギンコさんが、そのぅ…ねぇ? あはははー。

 このままいくと、ヤバイシーンまで書いてしまいます。あーあ、あーあ、もう、どうすんだっ。て感じですぅ。これがバレンタインに書く話かねぇ。あはー。


09/02/14