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… 無音幾日 2 …
やはり疲れていたからだろう。昼寝もしたくせに夜も随分と深く眠ったらしく、うつらうつらしたつもりで起きたら、もう夜が明けていた。ギンコが目を覚ましたことに気付いた化野は、何やら寝不足のような赤い目で近付いてきて、彼の枕もとの紙と筆とを自分の手元に引き寄せた。そしてそこに、昨日は聞かなかった問いを書いた。
『治るんだろう?』
真っ直ぐな目が、見ていて困り果てるくらいに親身で、しかも自分の事のような怯えまで含んでいて、ギンコは喋れないことを忘れて口を動かしてしまう。
「 ひとつき 」
口を動かしてから声が出ないことを思い出し、改めてギンコは化野から筆を受け取る。少し長く言葉を綴った。
『ひと月で治る。蟲のせいだが、症状が抜ける時期も分かっている。心配いらねぇ』
『それを聞いて安…』
とまで文字を書き、化野は途中で書くのをやめて、ギンコの顔を真っ直ぐに見た。一枚の紙に二人で交互に書いていたから、それなりに距離が詰まっている。まさに息の掛かる近さで、化野の笑った唇が素直な気持ちを告げた。
「 よ かっ た 」
たった三、四文字の音のない声には、心から安堵している化野の心が乗せられている。そしてその時、ギンコの片手は、まったくの無意識で動いたのだ。そんなことをするつもりなどなかったのに、指先が化野の首筋に、触れて、彼の髪を撫で。
「 っ、ど、どうし… 」
焦ると、筆談の必要をすぐに失念する。慌ててギンコから身を離した化野が、自分の右手の甲で唇を隠して逃げた。耳が染まっていた、それも熟れた何かの実のように随分赤く、甘いような色に。
お前、そんな男だっけか? と、ギンコは思った。そして、それへと続いて今度は自分に問う? 俺も、こんなにお前を意識してたっけか。問いの答えは後半部分だけはすぐに分かった。自分の感情くらい、普段は蓋をしていたって理解している。
意識は、していたのだ。
しかもずっと前から、かなり濃厚に。
でも、今まではそんなことを、
自分から匂わせる気はなかった。
警戒されるのも、苦手視されるのも詰まらないと思ったし、それを無理やりどうこうするつもりはますますなかったからだ。もしも何かの拍子に、そういう空気になったとして、化野に否やがなければ、一度くらいはそういうことも…などと、心のどこかで思っていただけのこと。
へぇ。なら、今がそういう空気、ってことか?
もしもそうならば、お前と、
流れる方に流されてみてぇけどな…。
そんなことがあってから、ここにいる間のギンコの楽しみは一つ増えた。ギンコは態度を変えなかったし、化野もいつも通りと言えばいつも通りなのだが、ふとした瞬間の、空気が違うのだ。
やむを得ずの筆談の時、紙や筆を受け渡す指が触れる。暮れた後、光源に乏しい場所でやりとりするときは、互いの口元が見えるように近付いたりもする。そしてその都度、化野の体に小さな緊張が走るのが分かるのだ。近寄った距離を、あっと言う間に離す様子には、嫌悪ではなくて、何かを隠しておくような身振りが含まれていた。
それを見ているだけで、十分楽しかったが、それでも二人それ以上へ流れるほどの切っ掛けがないまま、日は三日、四日とすぐに過ぎていく。そして五日目の夜、雨戸の隙間を開けて外を見ていたギンコが、小さな雑紙に一言書いて、化野に差し出した。それへは、いつも声で言うのと同じ言葉で、こう書かれていた。
『明日の朝、発つよ』
その時、化野は見事なまでの反応をした。弾かれたようにギンコの顔を見て、何かを口走る。ギンコには当然聞こえなかったのだが、言葉の殆どは表情と唇で見えていた。多分こうだ。
どうして…っ
だってまだ聞こえないんだろうっ
口もきけないままじゃないかっ
言葉は見えたけれど、ギンコは分からない振りで、困ったように首を横に振って見せる。化野は変に震える指で筆を取って、それを急いで墨へとつけて、紙に乱れた文字を書く。
『治るまでいてくれるものだと思っていた。聞こえない、喋れないままで一人旅なんか危険だ。行かせられない』
『発つのはいつもと同じ理由だ。蟲が寄っちまう』
冷たいほど淡々と、ギンコは返事の文字を書く。ギンコのその文字からして、少し墨が足りなくてかすれたのに、余裕がないのか気付かないのか、化野はそのままの筆でまた気持ちを綴る。
『それなら、持っていく紙とか墨とか用意するからあと数日だけでもいてくれ。持ち歩ける食べ物もいつもより多く渡す。薬も、もっと、渡……』
そこまでだった。描く墨を失った筆は、意味不明のかすれた黒い筋を紙に残すだけで、読み取れる文字は書けていない。化野はまた焦って、筆先を墨に付けようとして手を滑らせた。藍色の着物の膝に、ぼたぼたと黒い滴りが落ちて、それが畳の上にまで。
拭こうともせずに項垂れて、それからゆっくりと顔を上げた化野の両目には、激しい感情が、浮かんでいるように見えた。その感情に名前をつけるとしたら、多分、漢字では一文字。かなで二文字。
意外なようで、逆に分かっていたような気が、ギンコにはした。そして自分が、無意識にそれを試したことにも気付いたのだ。
墨は零れてしまった。勿論、墨壺の底を筆でなぞればまだ書けるだろう。でも化野はそうせずに、行燈の炎だけで光源とする部屋の中、ギンコへともう少し身を寄せた。息がギンコの唇に届くほど、近く。
そんなことをせずとも、ギンコの目には化野の口元が見えるのに、それも失念しているのだろうか。それとも、それは、忘れた振りなのか
耳さえ普通に機能していれば、息遣いがはっきりと聞こえただろう。もしかしたら鼓動さえも聞こえたかもしれない。化野の唇は、震えながら、ゆっくりとギンコに話しかけた。声は多分出ていないのだろう。ギンコにはどちらにしても聞こえないが、声音もろとも心まで響く。
「 いかないで くれ ここに いてくれ 」
それは多分、今だけの思いじゃない。そんな表情でも空気でもないのだ。今までギンコがここにきて、旅に発つ時に、化野はきっとそれを思って、ただただ秘めていたのだろう。ギンコの着ている夜着の着物の袖に、化野の指が掛かって震えている。
ずっと化野の唇を見つめて、彼の息遣いだけの「声」が途切れてから、ギンコは笑った。薄っすらと。満足そうに。少しずるそうに。そして墨を墨壺の底から、筆先でこそげて彼は書いた。
『そうまで言われるとな。今すぐ、発たねぇと、こっから一線、越えちまいそうだが、いいのか、化野』
それを読んだ途端、化野はギンコの手からその紙をもぎ取って、ぐしゃりと丸めて、固く丸めて、それが今、傍にある紙の最後の一枚だと気付いて焦っている。返事をどこへ書いたらいいのか。困って、探しに行こうとした化野の体が、ギンコの腕に引き留められる。ギンコの唇が問うた。
「 い や か ? 」
化野は文字でも、唇で表す言葉でもなく、身振りでギンコに返事を伝えた。ゆっくりと首を横に振り、ギンコと揃いの夜着の着物の腰の紐を、項垂れて解いたのである。
伝えた手段は、大胆だが適格だった。ギンコは今夜去ろうという意思を投げ捨てた。翌朝に、という気持ちも同時にあっさり捨てた。そんな気持ちを大事に抱えている余裕がなかったからだったし、今、焦るほど蟲が寄っていないこともある。
行燈の灯は消さなかった。唇で互いに何かを伝えるかと思っていたが、油が切れて、じきに灯りは掻き消えた。
暗がりに、化野の裸体が夜具の上できつくのけ反る。うつ伏せに横になった格好で、ギンコはその上に体をかぶせ、手だけを彼の前に差し入れて触れている。今、触れているのは、脇腹と胸だが、指先で化野の胸の粒を、軽く弾いただけで、その体は堪らないような反応をした。
苦しいような、恥じるような所作で、それでいて酷く感じるらしく、のけ反っては体を縮こまらせ、布団にそこを擦らせながら、喉奥に声を押し殺す。
なんでそこまで声を抑えるんだかな、とギンコは思っていた。どうせ聞こえねえのに、必死で、息で喘いで喘いで声までは出さずに、唇を何度も噛む顔が、宵闇に浮かんで見えている。
声出しゃあいいのに。そう思って、ギンコは、する、と手を下へ滑らせた。まだ下帯をつけたままの化野のそこを、片手のひらで丸く包んで、軽く、揺するようにしてやる。反応は可哀想なくらい激しかった。化野は堪えるなど出来ずに叫んでいた。
ん…ぁっ、あぁ…ッ、ギンコ…っ!
多分、迸ったのはそんな声だ。聞こえない筈のそれが、化野自身の体に響くことで、振動としてギンコの体に伝わってきた。
うわ、こりゃぁ、たまんねぇ。
そうギンコは思って、ごく、と唾を飲んだ。触れて瞬時に分かったのは、化野が男と初めてだということ。それから、もしかするとだが女とも、かなり経験が浅いということだった。そのくせ感じ方は尋常じゃなくて、うなじを噛んでも、脇腹をなぞっても、胸を弄っても、痙攣するみたいな反応を見せる。
おいおい、もっと早くヤっときゃよかったな。閨のお前がこんなイイんだったら。などとギンコは思っていたが、実は化野も、喘いだり震えたりしながら思っていることがあった。
そうか、こうやって引き留めればよかったのか。
初めてギンコの手でイったあと、化野はチラ、とギンコ方を振り向いた。何かが浮かんだその表情は、ギンコが読む前にすぐに伏せて隠された。秘められたものは「駆け引き」だったのかもしれない。
それは短いような、長いような夜で、さらには秋とも思えぬような、熱のある夜であった。
続
いやぁ、なんというか、流されたのは私だ。この話のギンコの性格ってなんだろう。化野の性格ってなんだろう。そもそも性格ってなんだっけ? あれ? すいません、眠いみたいです。また次回書くのが楽しみなような、怖いような無音幾日。
聞こえないとか喋れないとか、地味に難しいことに今更気付いた。ちくしょー頑張るわっ。
12/10/21
