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… 無音幾日 3 …
ぼんやりと、化野は目を開けた。朝の光が、開いたままの雨戸の隙間から、部屋へと細長く入り込んでいた。隙間だけとは言え、開けたままで夕べのあの出来事があったかと思うと、焦りと羞恥で体に熱が灯る。
傍らにギンコはいなかった。視野のどこにもいなかった。まさかあの後、夜のうちに発って行ったのかと、今度はひぃやり身が冷える。おのれの身をもって引き留めることが出来たと、そう思って喜んだ自分が愚かだったのだろうと思った。
そこらへ放られている自分の帯や着物や下帯、転がったままの墨壺と筆と丸めた紙。点々と黒い墨のあとを残した畳。片足を立てて床を踏んで、着物を拾おうと手を伸べた途端、重心がずれてよろけ、四肢をついた格好になる。
脚が細かく震えていて、しかも力が入らなくて、それが夕べのあれのせいだと分かり、尚更虚しいような気がした。自分にとっては、別世界に足を踏み入れたと思うほど特別のことだったのに、ギンコからしたらあんなのは何でもないことか。つまりは俺と言う存在ごと、ギンコにとっては取るに足らない…。
「…し……」
何やらかすれたような声が、ほんの微かに聞こえた気がして、這い蹲ったまま顔を上げれば、縁側の板の上に立って、こちらを見ているギンコと目があった。
「あ…、ギンコ…」
「……のか…」
「ギンコ…? 声…」
もう居ないと思っていたギンコがまだいてくれて、など、思っている気持ちなど霧散した。彼の唇は動いているが、声は本当に、一音、二音ほどしか聞こえない。それでも確かに聞こえていて、ギンコもそれを分かっているようだった。おのれの喉に手を当てて、顔を顰めながらまた少し声を出す。
「……やら…、…けて……」
何やらかなり辛そうな。無理に喋るな、と身振りで告げて、化野は痛む腰や震える四肢に鞭打ちながら起き上がる。着物を纏い、髪を撫でつけ、それなりにいつもの姿に戻ると、彼はギンコのために水を一杯汲んできた。そして墨と筆と紙を持ってきて、促すようにギンコへと差し出す。
書けってか? などと、少々面倒くさげな顔をしながらも、ギンコは化野の為に、筆先を墨へと浸した。
『蟲が徐々に抜けてきている』
『耳は相変わらず聞こえないが』
『それもじき良くなりそうだ』
『ゆうべのお前のお蔭かもしれん』
「俺の?」
怪訝な顔をする化野。意味など分からなくて当然だ。蟲に憑かれた日から数えて、今日は確か十四日目か。治るのが早いようだが、何かがよかったのだろうか。一つ思い当たることがある。雨戸を開け放った縁側で、柱の一つに背を寄り掛けたまま、ギンコは化野の襟元を掴んで引いた。
殆ど息ばかりの聞こえにくい声が、化野の耳朶を撫でるように、淡々と。
「 こんやも おまえが ほしいな 」
「…っ! ギ…っ」
囁かれた耳を抑えて、顔を赤らめて、化野はそれでも拒絶などしなかった。ギンコは見通すような目をして深く笑うと、蟲煙草を咥えてふらりと山道へ入って行ってしまった。家に居座っていると、ここを訪れる里人とのやり取りが、筆談だの身振りだのと煩わしいからである。
「ねぇね、せんせぇー」
早速朝餉のおすそ分けにと、近所の娘が訪れた。捌いて塩した魚を持ってきてくれたようだが、化野の姿を見るなり、その若い娘は変な顔をして足を止める。
「あ、あの…先生?」
「あぁ、お早う。ん、どうした?」
「え…っ、いえあの別に。なんか…感じがいつもと、違うかな、って」
どこがどうとは言えないが、強いて言えば艶っぽい、というか。でも流石にそれを口には出せず、娘はざるごと魚を置いて行ってしまった。化野からしたら、訳が分からないばかりである。夕方まで、何人かが来て帰って行ったが、何やら不思議そうな顔をした里人が、ひとり、ふたり。
日も沈んで、歩くにも行燈が必要な頃合い、山の道からふらりとギンコが戻ってきて、化野の姿をじろじろと見て笑った。
あぁ、ただもれだな、お前。
もちっと隠せよ。夕べの「色」を。
ギンコは何も「言えず」に筆と紙をとり、そこへ大きく『不在』と書いた。そうして墨壺を重石代わりにして、それを縁側の板の上に置いたと思ったら、乱暴な手つきで化野の腕を掴む。そうして蔵へと引きずって行き、重たい扉をぴったりと閉めた途端に、彼の着物を剥がしに掛かった。
「な…っ、おいっ!」
耳朶にまた唇が付けられる。息だけで音の無い声が、化野の芯を蕩かすように言う。真の闇に近いほどの暗がりで、囁くような声の存在感が凄かった。
「 おまえの こえが ききてぇ 」
その方が、多分治りも早いのだ。まだまだろくに声も出せないギンコの代わりに、化野の「声」が蟲を追い立ててくれるだろう。例えギンコの耳がそれを聞けなくとも、彼の体はそれを受け止め、それを「響かせる」。
昨夜と違って、今度は化野の声を出させるのが目的だ。蔵なら構わないというものではないだろうが、家の中より随分マシだろう。逃げを打つ化野の体を押さえ込んでまた囁く。
「 こえ だしな って 」
「そん、っな…っ。駄目だ、ギンっ…!」
駄目だ、と、嫌がる傍からもう声が零れそうだ。昨夜と同じ、いや、昨夜以上の乱暴さで、ギンコは化野の快楽を引き出しに掛かる。きつく抱き寄せられたまま、下肢を広げられて下着を剥がれ、容赦なく弄られて、喉奥から声が迸った。
や、っあ! ぁあ…ぁう…! ギンコ…ぉ
耳には聞こえない声が、重ね合わせたギンコの体に響く。ひっきりなしの悲鳴と、許しを請う声と。恥じらいながらも曝される化野の乱れた姿が、じっと見据えるギンコの片目に映っている。音など聞こえずとも、興奮の度合いが跳ね上がった。
慣れた仕草で、ギンコは化野のそこを扱く。あっと言う間に力が抜けてしまうように、声を堪える理性を裂くつもりで。
化野の手が床に伸びて、脱ぎ散らかされた着物を掴んだ。それを口へ持って行って、零れる声を隠すつもりだろう。ギンコはそうさせまいと化野の両手首を捕え、片手で一纏めに掴んだ。
「 きかせろ そうすりゃ なおるんだ 」
ロクに喋れない、聞こえない。そんな危険な旅を俺にさせたくないんだろう。なら、せいぜい喘げ。声を出せよ。と。ギンコの目が言っている。囁く声が告げている。俺を好きなんだろう。体を差し出すほどなんだろう。
化野は、泣きたいような想いをした。だからと言って、利用させろ、と、お前は言うのか? 闇の中で、化野の顔が引き歪む。そんなのは、辛い。そんなのは、酷い。だったら、声など聞かせまい。
噛む布を奪われて、化野は自分の唇を噛むしかなかった。すぐに噛み切って血が滲んで、それに気付いたからなのか、愛撫するギンコの手が止まる。
「ギンコ…?」
「………」
「ギンコ、怒ったのか? …だ…だって、俺にだって心はあるんだよ。お前の為に何かしたいが、ただ利用されるだけは嫌なんだ。俺はさ、前から…」
淡々と続く言葉が、ギンコには聞こえないと分かっていたが。いや、聞こえないからこそ、素直に言えるのだ。体を重ねられたままで、化野はぽつぽつと言った。
「前から、お前の事が好きだったよ。し、したいと思われるのも嬉しいくらい、好きだ。だから、されるのは嫌じゃないが、でもお前が別に、俺じゃなくても、他の誰でもいいっていうんなら、そんなのは…」
「 よく、おくめんも、無く言えるな、そんなことを」
囁くような、息だけのギンコの言葉が、途中からはっきりと音を伴った声になる。化野は驚いたように目を見開き、体を捩じってギンコを振り向こうとした。抱き寄せるギンコの手に力が入って、それを封じる。
「な、治った…のか?」
「…声を聞かせてくれりゃ治る、と、言ったろ」
「そ、そう、か…」
嬉しいような、複雑な気がして、化野は自分を抱いているギンコの腕に触れる。
「なら、もうこんなこと、しなくていい、な?」
「…あぁ、まぁ、最初から別に、喘ぎ声とかイイ声じゃなくてもよかっただろうしな」
「な…っ」
振り向いた化野の顔は、さすがに少し怒っていたが。
「けど欲しかったしな、お前が。こんないい口実、滅多にありゃしねぇし?」
にやり、と笑うギンコの顔が、暗がりの中でも見える気がして、化野はぐったりと体を弛緩させた。身を起こし、蔵の戸を開けて、外へと出て行きながらギンコは言った。
「なぁ? 俺の前で乱れるのは歓迎だが、俺以外のヤツの目の前に出る時は、ちったぁ顔を引き締めとけよ、化野。今日のお前の色っぽさときたら、男に興味のねぇ野郎だって、ぐらっと来ちまいそうな感じだったぜ?」
あぁ、これは嫉妬って言うんだよ。そのくらい分からせといてやるさ。お前に浮気、されねえように。
翌朝、ギンコは早々に旅へと戻って行った。己が身をもって知ったこの蟲の対処法を、急ぎ、とある里へと告げに行くのだと言う。意外に、などと言っては失礼だが、仕事には誠実な男であるらしい。
大きな音を嫌い、ヒトに付けばその人間の聴覚と声とを封じる「みぶせ」。「みぶせ」が憑いたら、半月は耐えて体を貸してやり、その後ならば容易に払う方法がある。
自分が声を出せずとも、他の誰かと身を寄せ合って、体に声を響かせてやればいい。「みぶせ」が嫌うのは「音」のみならず。生き物が「声」を発する時の「振動」もまた嫌うらしい。
聞かせる声は、どのようなものでも、特に効果の変わりなし。
終
書き上がりましたーーーー。しかしびっくりすることに、大いなる間違いが作中にあってですね。書きながら設定を変更したりすると、時々こういうことがあるわけで。すいません、今頃気付いたんでさ、直したよ。恥////
ていうか、変わった蟲が出ている割に、ベタな話になってしまった気がするわっ。
12/11/03