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… 無音幾日 1 …



 今にも露の滴り落ちそうな、重い重い薄暗がり。夜ではない。まだ日の陰ったばかりの夕の筈だが、分厚い雨雲が空を覆い尽くし、その上こうも木々の茂った山中に居ては、暗いのも道理なのだろう。
 
 ギンコは一人、その山中を歩いていた。ゆっくりと山の峰を目指し、九十九折に続く細い道を、黙々と。蟲患いに悩む山麓の里から依頼を受け、恐らくはこの山に原因となる蟲がいると、探すために踏み入ったのである。気配はそこここに感じたが、どれもそこらへんでよく見掛ける蟲ばかりで、もうじき峰に着き、そこを越えてしまう。

 ふ、と突然に、空気に混ざる湿度が濃くなった。雨がくる。しかも半端ではない雨が。とすれば、そういう雨の来る前置きもあるだろう。直感的に一際高い木が近くにありはしないかと振り仰ぐ。あれば離れるつもりで。

 空は次の一瞬に、不規則な金色の線で裂かれたのだ。高い空からギンコの居場所のすぐ傍まで、ひとつ息吐く間すらなく。瞬間、仰いだ幾多の木々は、白くぼう、と光を放った空の前で、悉く影となって見えた。そしてまた刺さるような光、耳をつんざき、大気をびりびりと震わせる、その『音』。
 
 …が『音』は不意に、掻き消すように途切れたのだ。

 鼓膜をやられる、と、ギンコは両耳を覆って蹲っていたが、手のひらの蓋ごときで防げるような音ではない筈だ。稲光は今も、近くなり遠くなりして続いていたし、そのいくつかが山中に落ちているのだろう、地面が揺れるのも幾度か感じた。それでも音は、もう一欠けらも聞こえてこないのだ。

 段々と遠くなる雷光を眺めながら、ギンコはついさっき見かけた大木の洞へと這い戻る。雷が去れば、次に来るのは車軸る雨の筈、判断に間違いはなく、木の洞へと這い込んだ途端、野草の葉の上を雨足が叩いた。

 だがやはり、音は無い。まだ遠くに見える稲光に、遅れて添う筈の雷の音も、雨音も、自身が枯葉を踏む音も、息遣いも、そして、一人ごちる声すら。

 何も聞こえねぇ

 と、ギンコは呟いた、筈だ。これは、多分、声も出ていない。自分の声が聞こえていないだけかと思ったが、発声の時に喉を震わす振動も感じないから、十中八九、口がきけなくなっていると分かった。どうしたことかと思いながら、ギンコは木の洞の奥へと背を寄り掛けた。

 木箱の角が奥へと突き当たったが、その振動こそ感じるものの、ゴツと鳴った筈の音がやはり聞こえない。外ではますます雨が地面を打っていて、それも無音だ。空を見ないと、雷がまだそこらにいるかどうかも分からなかった。

 幸い、こうした現象を引き起こす蟲のことは、文献で読んだことがある。確か名前は「みぶせ」。字で書くと「耳伏せ」で、耳を塞がれると言う意味の名だ。ただの黒い丸薬のような、もしくは何かの種のような、極小さな粒状の蟲で、大きな音を嫌う。

 物音から逃げるように、普段は土中の奥深くで生息しているが、たまたま地上に出ている時にでかい音に遭遇すると、途端に酷く衰弱して、弱った我が身の回復を図るため、自身で無音の場を作り出すという。

 生き物の脳に入り込み同化し、その生物の聴覚を封じることで無音の場所とし、そこを居心地のいい療養の場に作り変えると言うのである。耳を聞こえなくするだけで、音は掻き消せる筈だが、発声まで封じる理由は不明だ。

 それでわかった。雷の多いこの頃、この山で山菜をとって暮らしている山麓の里のものらに、耳が聞こえず、喋れないものがたびたび出ていた理由は、この蟲だったのだ。しかし症状は常にひと月前後で解消される。蟲が憑かれたものの体内で衰弱から立ち直り、今度は里の音を嫌って山中に逃げ出すからなのだろう。

 やがて雨が上がり、ギンコは仕方なく無音の中を里へと下りた。音がないだけで随分勝手が違い、難儀しながらの下山であった。面倒臭がりながら筆談でその説明をし、今後は峰までは行かずに山菜採りをするよう言って、報酬の半分は日持ちする食い物がいいと所望した。

 何しろ、今後ひと月、声も発せず音も聞こえない旅路である、食糧調達にも当然支障が出るだろう。

あぁ、参った。

 声の無い独り言を言いながら、彼の足は海の方へと向く。聞こえない、喋れない自分が行ったら、あの気のいい医家はどんな反応をするだろう。近いようで遠い距離に、何かの変化がありそうな…気がした。

 ギンコは知らずに足を速める。




 ゴツ、と縁側で音がした。

 このくらいの時間には、いつも少々差し込む日が眩しいので、障子だけ閉めてあるその向こうでである。調べものをし、それを書き止めていた諸々を卓の上に放り出し、化野は急ぎその障子を開けた。見慣れた姿が、そこにはあった。いつもなら、おぅ、とか、来たぞ、などと短く掛ける声もなく、ギンコはただじっと化野の姿を見ていた。

「よく、来たな?」

 いつもと違うその些細に、思わず疑問符付きの声が出た。ギンコは目の前に置いた木箱の抽斗を一つ開け、ごちゃくたと紙類の入った中から、白い紙切れ一枚と筆を取り出して短く描いた。本当に短く。

『耳と口』
『使えない』

「使え、ない? って、口がきけないってことか? 耳も聞こえないのか?! どうして! いったい何が…っ」

 見るなり目を見開き、そう捲し立てる化野の姿を黙って眺めて、ギンコはまた筆で紙に一言書いた。

『聞こえない』

「あ…。す、すまん、書いてもいいが、お前も返事をいちいち書くんじゃ、大変だしな…。でも…」

 でも。かと言って何も聞かないままでは不安過ぎる。医家の自分を頼って、治してもらいに来たのか、そうではないのかも分からぬままというわけにいかない。化野は文机へと戻り、ためし書きなどに使う雑紙と、自分の筆とを持って縁側に戻ってきた。そして、几帳面で丁寧な字で、さらさらと、聞きたいと思う最低限を書く。

『そうなった原因は』
『治すために、俺に出来ることはあるか』
『喋るのと聞こえないのと以外は、具合が悪かったりはしないのか』

 ギンコは自分の筆をさっさとしまい、化野の筆を奪って、彼の書いた文字の後ろへ返事を書いた。一行目には「蟲」二行目には「無い」三行目にも「無い」と。素っ気ないにも程があるが、開いた抽斗の中、何かを書いた紙がびっしりと詰まっているのを見て、もう少し何か、と思う気持ちが失せた。

 多分、ここへ来るまで必要にかられて書いたものだろう。

 喰い物を買いたい、だの
 日持ちがいいのが欲しい、だの
 もっと安いのはないのか、だの
 水をわけてくれないか、だの
 雨宿りさせてくれ、だの、
 安く泊まりたい、だの。

 そんなことが書いた紙。そしてそう尋ねた返事が様々な文字で書かれていて、それが山ほど。紙も安くはない。捨てずに持っているのは、同じことを聞きたい時に、また使うつもりでなのか。しかしこれでは、筆談にもいい加減飽いているだろうと思った。かと言って、それをせずには食うにも泊まるにも行き詰まる。大変だったんだろうな、と化野は息を吐き。

『わかった。ここにいる間は、少しでも気を抜いて、ゆっくりして行ってくれ』

 そう書いた文字を見ると、ギンコは軽く笑んで遠慮なく部屋に上がり込み、奥の間ですぐに体を伸べて横になってしまった。疲れた顔だなぁ、と、化野はギンコの顔を眺めて思い、丹前を出してその身を覆った。

 ギンコは化野がしてくれたことも知らず、半日もそこで眠っていた。音も聞こえず野宿する危なさは、最初の一日で思い知り、それからあとは安宿をとったが、それもすぐに金が底をつき掛けて諦めた。人里からそう離れない場所に、なんとか安全そうな場所を探して、見つからなければ多少危険そうでも我慢して、いつも通りに繰り返し野に眠った。

 しかし危険が迫っても気付けないということが、常に頭にあっては熟睡できず、眠るのは空に明るみのさした早朝か、まだ暗くならない夕方へと切り替えた。深夜に山中を進む危なさもあって、どっちもどっちな選択だったが、眠らないわけにいかないからだ。

 ともあれ、久しぶりに、身の危険を一切考えなくて済む睡眠が、拝みたくなるほど有り難い。ぐっすり眠って目を覚まし、そろそろ腹が減ったな、などと、自分勝手なことを思って身を起こすと、丁度二人分の夕餉の膳を、化野が整え終えたところだった。

「夕飯、出来たぞ、ギ…。あ…」

 普通に声を掛けようとして、バツが悪そうに化野は黙った。そうしてまた文机から、紙と筆を持ってきて書こうとする。いい、とギンコは片手を顔の前で振って見せた。得も言われぬ美味しそうな匂いが、既にギンコの鼻をくすぐっている。

 わ る い な

 ゆっくりと、ギンコは唇を動かした。分かるまいと思いながらだったが、化野はちゃんと意味をとらえたらしかった。首をゆっくりと横に振る。嬉しそうな笑顔と、うっすら上気した頬まで見せて。




 あぁ、たまんねえよ。

 とは、夜を迎えた後のギンコの独白。やはり声は出ていない。せいぜいがその言葉の数と同じに、唇から微かな息が漏れているだけ。化野はギンコの布団に自分の布団をぴったりとくっつけて敷いた。勿論そんなことをするのは初めてで、いつもなら常識的に、身一つ分以上は間が開いていた。

 化野は何も言わなかったが、何か用があればすぐに手を伸べて、ギンコが自分を起こせるようにとの気遣いだ。それ以外の意味など無い。無いが、聴覚がまともなら、すぐ傍らの息遣いが、その温度まで含めて聞こえる距離。

 たまん、ねぇん、だって…お前。

 す、と身を起こせば、化野はすぐに気付き、寝返り打ってギンコの方を見た。真っ直ぐな視線がぶつかる。枕もとに用意した紙と筆を探っているようだが、どうせこの暗がりでは、文字を書いても見えないだろうに。

 外は月夜だ、畳一枚分の幅で、開けたままにしてある雨戸の隙間から、障子越しの月明かりが、辛うじて部屋の中を照らしていた。互いの顔は見える。夜目の効くギンコは余計にはっきり。それに気付いたのか、化野が身を寄せて彼に自分の顔を見せようとする。正しくは口元を。

「 な に か よ う は 」

 何か用がないかと唇の形で問うて、ギンコが首を横に振るのを見る。

「 し て ほ し い こ と は 」

 しつこいくらいだが、遠慮をするなという意味だと分かった。正直、してほしいことなら、無くはない。部屋行燈をつけたりする代わりに、光源を得ようと開けてある雨戸。そこからは秋の夜の空気が入り込み、部屋は幾分寒かったのだ。ギンコは平気だが、これでは化野が寒いだろうと思えていた。

 だから、なんなら、身を寄せてぇな、とギンコは思っていたのだ。互いの体温で、寒いのを凌ごうか、と。そう思って、暫し返事をせずにいて、それからまた彼は首を横に振る。

 布団の中でうつ伏せで、肘をついて半身を持ち上げている化野の、枕もとにある手の甲へ、ギンコは指先で文字を書く。

『無くはねぇけど、別にいい』

 遠慮させまいとして身を乗り出す化野から、視線を素早く逸らし、ギンコは彼に背中を向けて睡魔を引き寄せようとする。昼寝が長かったせいで眠れず、仕方なく寝たふりをしたギンコであった。










 何だか説明的な部分が多い気がする。読み難い感じでごめんなさいっ。しかしギンコが化野センセのところへ来てからのシーンは、書いてて楽しくて楽しくてもうっっっ。先生さー、こんなろくでもない男にベタぼれって感じですよね。(今後もってろくでもなくなりますごめんなさい!)

 この話については、シブのスタックでもぶつぶつ言っていましたが、そのブツブツと、かなり近い内容になりそうな予感がします。あくまで「予感」だけどね。早くもこの続きが楽しみな、書いてる本人でありましたっ。

「無音」は、うちのサイトにしては珍しいギ化。いや、シロオオカミとか元々パラレルなのは別としてっ。ともあれ、化ギじゃない別のくくりってことで、「異色もの」改め「ギ化・他」ってところに置きますね!

 おお、まさに雷が鳴りだしたぞっ。



12/10/14