… まもりがみ 3 …
落ちて、落ちていきながら、ギンコは朧に思っていた。
まだ、切っ掛けを与えていなかった筈なのに、虚はあの場所から虚穴へと逃げた。大量に居た潮喰らいたちに驚いたか、それとも、自分があの朽ち舟の底に横たわったせいで、気付かないほどの隙間が何処かに開いたのかもしれない。
何にせよ、ギンコと潮喰らいたちは、彼の願い通りに虚穴へと迷い込んだらしかった。
岩に背を打ち付けて呻いた彼の視界で、潮喰らいたちは、わらわらと泳いでいる。けれど、見る間にその数は減っていくのだ。青く淡く発光するその光が、広くて異様な虚穴の中を照らしていたが、徐々に光は失われていった。
恨んでいいぜ、とギンコは、いつかも言った言葉を呟く。
自分が生きる為に仕方なくでもなんでもなく、ギンコは彼らを殺したのだ。でも、もしかしたらだの、万が一だの、そんな小さな可能性すら、彼は潰さずにおれなかった。
海で膨れ上がった潮喰らいたちが、里を飲むほどの大波になって、他の島や里ではなく、あの場所へともしも押し寄せたら、里はひとたまりもない。高台に住むあいつは無事かもしれんが、でももしも、もしも浜に居たとしたら?
そんなことは耐えらない。
そんなのは、嫌だ。
こんなにもギンコは、
あの里を守りたかった、のだ。
ギンコはぼんやりと座ったままで暫しいたが、ふと微かな音を耳にして身じろいだ。懐の隠しを探ると、木箱から其処へ移しておいた虚の筒を取り出す。更に筒から繭を取り出し、彼は指先で封を剥ぐ。先端が鍵の形に曲がった棒で中を掻けば、かさりと小さな感触がした。
やはりふみだ。取り出して開く。ふみから香る微かな潮の匂い。大丈夫だ、もう潮喰らいの気配は無い。でもこんな暗がりでは読めないから、煙草に火をつけて、小さな灯りでもって、読む。まるで最後の褒美のように。
あぁ、少し癖のあるこの文字。いつもいつもどうでもいいことを、つらつらと綴って寄越す、あの男の。ふみには、こうあった。
そろそろ秋も終わる
この季節になると
ついお前を待ってしまうよ
呆れた話だろう
年の暮れを此処で共に
新年を一緒になど
もうそんな我儘は言わない
今願うのはひとつきりだ
無事でいてくれ
無事で、いてくれ
宛名も、差し出し人の名も無いふみだった。こんなもん、虚が迷って他人に届いたら、誰かが自分宛だと思って読んじまうだろうが。ギンコはうっかりそんなことを思い、口をへの字に曲げている。
そんな自身の想いを苦笑し、彼が目を閉じると、瞼の裏に見えてくる、もの。
きらきらと光を反射する海、波の頭は白く泡立ち、岩にぶつかり、弾ける。波は透き通りながら、砂浜にも寄せている。落ちている巻貝や、ばらけた二枚貝を踏まないよう、下を向いて歩くギンコの姿を、少し離れて歩くあいつの視線が、ずっと、ずっと、追い掛けて。
なんて目だ、と、何度思っただろう。海でだけでなく、田畑の間を歩く時、あいつの家で酒を飲み、蟲の話をしてやっている時も、縁側から、じゃあなとすら言わずに、旅に戻る時も。
あぁ、あぁ、
なんて目をして、
俺を見るんだ。
お前が、そんな目するから、
俺は…。
今だって、読んだふみの中から、あの眼差しが俺を見ている気がする。手でくしゃりとふみを握り、その時気付いた。繭の封が開いたままなのだ。ぎくりとするも、ギンコは逆に封紙をすっかり剥がして、虚繭を手の中でころころと転がす。
自分はもう、此処で終いだという時に、他の命を縛っていることもない、そう思ったからだった。
「もう、何処へでも、好きなとこへ行きな。なぁ、虚よ。何処へも行けなくなった俺の分も、行きたいところへさ…」
今は気配はしないが、この虚がまったく戻らなくなったら、虚守もきっと何かを察して、対の繭を処分してくれるだろう。
暗い無数の洞が、いくつも見えるだけの風景を、ギンコはまたしばらく眺め、やがてはゆっくり、意識が途切れていく。あぁ、思っていたより随分早いな、もうなのか。微かに眉を上げて、そんなことを思い、彼はまだ、あの里のことを想う。
思い出そうとすればいくらでも。あの里の海の音だけだって、きっともう聞きわけられる。砂の色だって覚えている。潮の匂いも勿論。朝早くには小舟が幾つも沖へ浅瀬へと出て、海苔とり、貝とり、網漁も。
朝日が舟を影にしている、その風景を、あの縁側でギンコは、彼と何度も見た。行かなくなってどれだけ経ったのかなんて、一度も数えたことが無かったが、もう忘れられたとだけは思ったことがなくて、そんな自分を女々しいと思う。
なぁ、呆れた話さ。
「化野」
ぽつん、と彼はその名を呟いた。忘れてしまうと分かっていて、此処に来ることを選んだというのに、今更そのことが酷く辛くて、また名前を呟く。
「化野、化野…」
友に向かって自分のことを、忘れちまえと何度も思った。こんな根無し草のことなんか、こんな住む國の違う俺のことなんか、何も言わずにあっさり縁を切るような、二度と来なくなるような男のことなんか。
でも今は、今思っていることはまるで真逆だ。おかしい程に。
忘れたくない、忘れられたくない。
俺を、覚えていてくれ、化野。
ほんの、少しだけでもいいから。
ほろりと、温いものが頬を伝う。でももう、それで最後だった。ギンコは目を閉じて、ずるずるとその場に横たわり、じっと、動かなくなった。眠ったのだ。忘れていくのが恐ろしくて。
すさすさ すさ
すさ すさすさ
何かが岩の上で蠢いている。二匹だ。でも、その蟲の姿を、誰も見ていない。二匹はまるで、じゃれ合うようにして、共に蠢いている。そうして、そのうちの一匹は、自分が元々いる場所へと入り込む。残りの一匹も、まだ火のついている蟲煙草の煙から逃げるように、仲間の後を追い掛けた。
二つの命が逃げ込んだのは、小さな丸い繭。その繭にもしも、繭を作る絹糸にもしも、ひとかけらの心でもあるのなら、思っていたかもしれない。それは、遠い記憶。
いつだかこうして、
小さなふたつの命が、
ワタシの中で、
息づいていた。
ワタシはそれを守っていた。
命たちが育って、
その先も生きていくのを、
願っていた。
でもきっと、
それは叶わなかったから、
今度こそ、
ワタシの中に逃げ込んだ、
この命たちを…。
目を覚ました時ギンコは真っ先に思った。体が痛い、ほんの僅かも動けない。なんでこんなに、此処は狭いんだ。そして共にある気配に気付いた時、ぎゅっと縮こまったままで、彼は青ざめた。
まさか、ここは、虚繭の中? 逃がしてやるつもりだった虚は、俺まで連れて繭へ戻ったのか? じゃあ俺は、これからどうなって…。
そう思った途端、彼は広い場所に放り出される。見開いた目に、二匹の虚の姿が一瞬映って、すぐに遠くなった。
どさっ。
「うぅっ、いって…ッ。…またかよ」
今度は肩やら脇腹やらを強く打ち付けて、ギンコは声を上げる。あまりの痛みに、腕や肩や腹をさすって、その時気付いた。
「あー、くっそ、上着に穴が開いてる。これはあれか、蟲煙草の火でか?」
あちこちを自分で触れて、打ち身以外どうもなっていないと分ると、ギンコはやっと楽な姿勢になろうとした。でも、足も腕もちゃんと伸ばせない。
さっきよりは格段に広いが、ここも案外、狭い場所であるらしい。暗くてなにがなにやらだけれど、かちゃん、と器のぶつかるような音がし、手でもってあたりを探ると、蝋燭のようなものが触れたりも。それから札のようなものもあるような。
「どこだよ、ここ」
ギンコは慎重に気配を探り、もう虚の気配はないと分かると、密室を作っているもののあちこちを手で押した。動くと周りのものに手足がぶつかり、またガチャガチャと音が鳴る。何にか細いものを倒してしまって、誰も居ないのに、すまんね、などと詫びていたら、外から人の声がした。
「中になんかいるぞ、音がする」
「なんだなんだ、狸かなんかか?」
声は複数だった、しかも一人二人では無いようで、周囲もやけにざわざわと。
「確かに音がしたねぇ。祠ん中、荒らされてないといいが」
「困るよ、みんなでこれから神様に、新年のご挨拶をしようっていうのにさぁ。とにかく早く開けてみなよ」
「開かねぇんだよ、凍り付いてよ」
中に居るギンコは思った。どうやらここは祠であるらしい。そうして海の音や潮の香りもするから、海の傍であることも分かった。ただ、気付いたのはそのことばかりではなく。
「俺が戸を引っ張ってみようか?」
「アオザよ、それは駄目だよ。てぇか、お前さん一昨年だったか、それで戸を壊しちまったんじゃないか。無理はいけねぇ」
「はははっ」
アオザと、いうわりと珍しい名前に、ギンコは聞き覚えがある。それだけでなく聞こえてきた声の幾つかも知っている気がした。それに、さっき、笑った声。それを聞いた途端に、何故だか、酷い眩暈がして。
うそだろ、まさか。
まさか、そんなことが…。
「その狸とやらに、内側から開けて貰ったらどうだ? 狸や、狸、お前さんにも振る舞い酒をやるから、開けとくれー」
「やっだよ、先生ッ、狸がそんな賢いものかいっ?」
今度はみんながどっと笑う。それを聞いていた狸ならぬギンコは、なんだかもう何もかもに疲れてしまった気がして、声のしている方向の壁へと、体全部で寄りかかり、ぐい、と押したのだ。
ギンコは大勢の見ている前で、開いた祠の扉の外へと落っこちた。今度は殆ど頭から落ち、痛みに声すら出てこない。
ただただ、真っ先に駆け寄った化野が、自分の名を呼ぶ声が聞こえて、ぎゅう、と抱き着かれて、すぐ目の前に見えた、彼の耳にこう言った。
「……悪かったな、狸じゃなくて…」
続
この3話とラストの4話、本日同時アップいたしますよー。
2022.01.04
