… まもりがみ 2 …
ギンコはもう随分と長いこと、その浜辺に突っ立っていた。潮の香がますます濃くなった。沖からの風が強く吹き付けているからだろう。上着の裾がうるさく乱れ、白い髪もなぶられどおしだ。それでもギンコは、ずっと其処に立っている。
足元に複数置いた蟲除けの香、口には煙草を絶やさずに。そうでもしなければ、あっという間に蟲に憑かれてしまうだろう。
「随分と、増えたもんだ…」
風の来るたびに増えていく潮喰らいたち。だが、彼らは波飛沫を嫌がるように浜辺で逃げ惑う。
それは彼らがまだ、完全に育ち切ったわけじゃないからだ。育つ前に波をかぶると、傘の部分が弱って溶ける。傘が朽ちると足は霧散し、跡かたもなく消えるのだ。その様をもういくつ見たろうか。
「波が苦手なら寄らなきゃいいものを、潮の香が無ければ生きられない。生きる、ってのは難儀だよなぁ」
言いながら、ギンコの目は遠くに見える陸地を眺めていた。右のそれは人の住まぬ小さな島、左ふたつはどちらも同じような規模の海里だ。そして、一番左のそれは……
あいつの住む、里。
短くなった煙草を、ギンコは革の手袋越しに握り潰した。体を屈め、足元に置かれた皿二つを無造作に片手で重ね、軽く揺らすと、もう消えかけていた蟲除けの香の光も消える。目を眇めると遠いかの対岸に、小さく、いくつかの灯り。
「気のせいさ」
と、ギンコは微かな笑いを漏らすように呟く。今や百とも数百とも分からないぐらい、無数に増えた小さな蟲たち。それらが絡まり合い重なっている視界に、あれほど離れた里の灯りが、ひとつだろうと見えるものか。
「見えやしない。なぁ、お前さんらも、そう思うだろ?」
ギンコは木箱を下ろし、中から小さな竹筒を取り出すと、蓋を抜き取り、目を閉じて中味を一息にあおる。
「初めて飲んだが。なるほどこいつは、美味いねぇ…」
そう独り言ちる彼のうっすら開いた目の緑に、淋しげな色が差したのを、彼自身も含め誰も見てはいないのだ。
「…そら、ずっと俺に憑きたかったんだろう? いいぜ。蟲を寄せる体質なうえ、大盤振る舞いでこうして光酒まで飲んでやったんだからな。さぁ、来いよ。一匹残らずだ」
そう言い捨てると、ギンコは砂を踏みながら、朽ち舟まで歩く。そうして一人入れば精一杯の、狭い舟室へと身を滑り込ませたのだ。
蟲たちは彼の四肢に、首に、胴に、指にすら足を絡ませ、取り憑いている。でもまだ一匹他よりも小さい潮喰らいが、浜に残って。
「お前もだ、こっちへ、来い」
誘う声が蟲に分る筈もない。なのに蟲はゆらゆらと、ギンコの方へと近付いてくる。
「来いよ、ほら、悪いようには…しねぇさ」
笑みを含んだ自身の声に、ギンコは急に可笑しくなる。こんな優しい声、かけたい相手にすらかけたこともなかった。そしてもう、二度とそんな機会も無くなるのだ。そうすることを、彼は選んだ。遠く離れた、この海で…。
「おっ、と。もう逃がさねぇよ」
近付いていた最後の一匹を、ギンコは伸べた手で握る。数十の細い足がもがいて、暴れて、だけれどもギンコがその一匹を胸に押し当てながら、舟室の底で身を丸めると、そいつもすぐにおとなしくなった。光酒の匂いのするギンコの体に、蟲は抗えないのだろう。
「…悪ぃな、ただ生きていたいだけだってのにな」
沢山の小さな蟲と共に、ギンコは舟底の更に下。片腕だけを外へ出し、彼はそこに在った木の蓋を引き寄せる。内側から丁寧に蓋を閉めると、あらかじめ確かめてあった通り、外の明かりすら漏れ入ることのない暗がりが作られた。
急に海が荒れた時、雨が来た時。ひとり仕事の漁師は、舟の中に水がたまらないよう、上に蓋をしたのちに、こうして狭い場所に自分を籠めるのだろう。そこでじっと体を丸めて、息すら潜めるように、嵐が過ぎるのを待つのだ。
朽ち舟だけれど何処も壊れていなかったこの舟。傷みは少なく、特に舟底のこの場所は無傷だったから、ギンコはこうすることにした。思う通りになるのかはわからない。けれども、何かせずには、どうしてもいられなかった。
いつだか読んだ文献の、短い文面をギンコは思い出している。
潮を含んだ空気に触れていなければ、生きていられない潮喰らい。幼生は海の水に触れただけで死ぬものを、成体になれば今度は海の水の中に生きて、何処までも巨大に膨れ上がる性質を持つ。故にこの蟲を『水禍の海月』と呼ぶものもいる。いったい幾つの海里が、この蟲の為に消えただろうか。
ギンコの居る場所は、風も入らず静かで、波飛沫の一粒もかからない。そして潮を含んだ空気は、ほんの僅かにあるだけだ。彼と共に閉じ込められた、罪なき無数の潮喰らいは、あっという間に餓死して消えるだろう。
だけれど、それではまだ完全ではない。ほんの少しの危惧も、残したくはないのだ。だからギンコは、懐にある小さなものを指先で弄っている。
なんだか此処は、不思議だ。
たぷん、と、水の下に、
己が沈んだような気がする。
こうしていれば俺も、
誰かに害なすことのひとつも、
もう、ない。
無数の青い海月と共に、
水の無い場所で溺れるなんてな。
どうだい、珍しいだろう?
なぁ? どう思うね。
珍しもの好きの医家先生。
でも万に一つもその姿、
お前に見せてやるわけに、
いかんのだ。
カリ、とギンコの指先が、あの古い虚繭の表面を掻いた。見るからに金に困っていそうで、こんな使い古しでも売りたかった、あの蟲師の持ち物だ。
カリ、とまたギンコの指が、繭に貼ってある紙を剥いでいく。その内側でざわざわと、虚の気配がする。そしてその気配は、蓋の開いた繭から逃げ出して、もう少しばかり大きな密室で、さわさわと泳ぐ。
お前に託すよ。
そう、ギンコは小声で呟いた。
自分勝手な話だけどな、と。
その途端、舟の底のさらに底が、すとん、と抜けた気がした。ギンコはもっとずっと暗い場所へと、落ちていく、落ちて、いく。
「新年おめでとうさん、先生っ、俺が一番乗りかねぇ?」
干した魚を持って、里の漁師が顔を出した。年が明けての一番の挨拶は俺かい、と男は問うてきたが、その言葉に答えたのはもっと早くから来ていた別の漁師だ。
「お前なんか一番なもんか、三番目だよ、寝坊のヤサカめ」
「んだとトヨシチぃ、そういうお前も二番なんじゃねぇかっ」
「なんでわかるっ?」
「そこな半干しのった笊、ショウタのじゃねぇか、わからいでか」
奥から湯気の立つ鍋を両手で持って、家の主が戻ってきた。
「人の家へまできて喧嘩をするな。しかも新年早々に。あぁ、おめでとうさん。みんなして、うちで雑煮を食べていくつもりかね」
そういう化野の手にしているのは、せいぜい二人分しか入らないような小鍋だ。
「いやいや、そういうつもりじゃないんだ。早く起きて、ひとつ新鮮なのを獲って来ようと思ったんだが、こう凪いでいちゃねぇ。だから干してあったのを持ってきたのさ」
「真似するないっ、俺もだよ、先生」
「ありがとうよ、二人とも。でも漁から戻ったはずの大黒柱が、さっぱり帰らないんじゃぁ家族が案じるだろう。早く帰れ、俺はひとりでいいんだから」
少し前のショウタと同じで、二人はそそくさと腰を上げ、何やら話しながら帰っていく。
「しっかしなぁ、なんでこう新年早よから凪ぐかねぇ」
「魚ども大人しくって、網にかかりゃあしないったら。馳走の刺身がねぇじゃねぇかい」
「ま、明日は獲れるさ、今日は海も新年休みなんだろぜ」
其処に残った化野は、誰にも見られる心配のないひとりの家で、器ひと揃えを二人分出し、雑煮や煮しめ、酢の物やら豆の甘く煮たものを盛り付ける。そうして差し入れられた魚の中からも、小さなイワシの干物も数匹、有難く小皿に調えた。
化野はおしまいに祝い酒をふたつの盃に注ぐと、きちりと調え並べたお膳に向かい、静かに手を合わせ、感謝と願いを静かに込める。
無事に新年を迎えられて、
こんなありがたいことはありません。
だけれど、願って叶うものならば、
何処を旅しているか分からない、
あのつれない男にも、
穏やかで安らかな新年が、
訪れています、ように。
続
もう一話で終わるかどうか、心配…というよりは、ラストをちゃんと決めていないので、ちゃんとその時までに扉が開くかどうか、不安でございます。相変わらずそんな書き方かいっっっっ、っていうツッコミは自分でしますね
ともあれ初詣など、外出の多かった本日だけど、なんとか二話目が書けましたので、飾りまーす。
2022.01.02
