… まもりがみ 1 …
ふ、と蟲煙草の匂いを感じた。見れば道の傍らの倒木に、腰を下ろした男がいる。脚の間に置かれた古びた木箱。蟲師だ。男はギンコが目の前に来るまで黙っていて、通り過ぎる時になり声をかけてきた。
「なぁ、あんた。この先の店に行くんなら、紹介された仕事は断ったがいいよ」
「何故だい?」
足を止めギンコはそう聞き返す。まぁ聞きなよ、と言って男は話をし始めた。その男とギンコと、二人分の煙草の煙がゆるり漂う。
「なに、ちょいと蟲を駆除する仕事だったよ。口入れ屋を越えてさらに行くと、海沿いへと抜けるだろう? その里に『潮喰らい』が居ついているらしい。知っているかい? 厄介な蟲だよな。特に、あんたや俺みたいなのには厄介だ。命が惜しいからな、俺はすぐにも断ったさ」
「ほぉん…。その海里ってのは、向こうだな?」
「あぁ、そうだ。なんだい知り合いでもいるのかい?」
「そういうわけじゃない」
ありがとうよ、と短く言って、ギンコは口入れ屋へと足を向ける。後ろからこんな言葉がギンコの背中へとかけられた。
「あんたぁ、俺より余程ひどいねぇ」
少し行った襤褸屋で、ギンコが建付けの悪い戸を開くと、中に座っていた老爺が眉を上げる。
「おぉ、お前さんか。久しいね、元気にしていたのか?」
目の前の台に身を乗り出して、店主は何処か嬉しそうだ。
「仕事を探しに来たのかい?」
「あぁまぁな。何かあれば」
「無くはないんだが、ギンコ。お前さんにはなぁ」
思案顔になりながら、もう一度腰を落ち着け、台の上に並べてあったものを、店主は雑に脇へと寄せている。台の端から、ぽろりと何か小さなものが落ちかけた。それは丁度伸べられたギンコの手の中に納まる。
「……どうした? これ」
「あぁ、さっき来た蟲師が置いて行ったのさ。要らないと断ったんだがね。いくら道具屋を兼ねていると言ったって、そんな、もう使えもしないものなんか」
それは蟲の気配のしない、虚繭。弐の巣、と消えかけた文字の書かれた紙が貼ってあるけれど、もうかなり古いものだと分かる。こんなに古くては、もう虚は何処かへ抜けてしまったものだろう。
「そんなもん、居るかね? お前さん、そういや蟲の絡むものなら、何でも欲しい御仁がいるのだろ?」
「そういう話、俺はあんたに話したかい?」
「おぉ、随分前に聞いたし、ここからも幾つか買ってったろ? ほれ蟲の抜けたあとの貝とか、蟲の影響を受けて色の変わった石、とかさ」
そうだったかもしれない、とギンコは思い、その頃の自分自身に少し苛ついた。なんでそんな、尚更にあいつの興味をひくようなこと。今は違う。とそう思いながら、ギンコはその虚繭を安価で手に入れたのだった。
けれどその買い物だけでは立ち去らず、客の為に置いてある藁の丸座にギンコは腰を下ろす。そして少し長居する態を見せながら、店主に話を促した。
「で? お前さんにはなぁ、ってのは? どういう意味で、それはどういった仕事なんだ? 聞くだけでも金が要るような特別な話かね?」
懐から新しい蟲煙草を出し、ギンコはそれへと火を灯した。どこから火種を出したのかよくわからないその仕草に、店主は落ち着かない風情を見せる。こうなれば聞くまで帰らないギンコを、古なじみの老爺は知っているのだった。
老爺は煙管に火を入れて、一服しながら考えているようだった。しばしのち、ふぅっと煙を吐いて開いた口で、彼は言った。
隠すつもりはないさね。
あえて言おうとしなかっただけさ。
「潮喰らい」は知っているか?
潮の香に棲み、海水に混じると増える。
だが、それだけじゃない。
お前さんなら、
他の特性も知ってるだろう?
だから場所は教えない。
聞いたって言いやしないよ。
お得意を失くしたくないからだ。
悪いな、ギンコ。
そこまでを聞いて、ギンコは立ち上がる。一度は下ろした木箱を片方の肩だけで背負い、店を出ながら彼はこう言った。
「さっき来た蟲師も、わずかだが蟲を寄せてたぜ、店主」
店を出たギンコは、道なりに歩いて行く。それほど広くない山を、登りながら突っ切れば、そこから先の下りは幾度ものつづら折りだ。折れるたびに少しずつ海が近付き、冬枯れた木々の間の青灰色と白の光とが、藍色と銀に変わってゆく。潮の香りも、鼻孔にはっきりと濃くなった。
浜で砂を踏み、潮風に髪をなぶられたその時、ギンコは気配に目を細める。
「…確かに、いるようだ」
潮喰らい。潮を含む風を好む蟲。そしてそれだけではなく、蟲を寄せるものにも引き付けられる蟲。
「どの個体もまだ幼生から変態したばかりだな、小さいし、群れも大きくはない」
けれど、びゅお、と風が音を鳴らし通り過ぎるごと、蟲は見ていてわかるほど成長する。透き通っているのが青灰色に変わり、海月に似た姿になっていく。半月型の傘の下から、幾筋も伸びている脚が、さらにずっと伸びてたなびく。
ギンコは後ずさり、けれど片腕を既に潮喰らいに絡まれ、たじろいだ。もう一歩後ずさり追い払いながら、彼はあたりを見回した。里、と聞いていたものの、どうやら此処にはもう誰もいない。四つか五つ、かつて人家だったのだろう建物が、風雨にさらされ褪せているのみだった。
彼は今度は、沖の方を見る。薄曇りの空の下、遥か遠い陸地が右に一つ、左に二つ見えていた。そして、波打ち際から少し離れた岩と岩の間に、斜めに傾いて引っかかっている古い舟。
「朽ち舟…」
壊れているようには見えないが、置き捨てられてしまったのだろう。里人の戻るのを、ここでじっと待っているようにも見える。
「あてなく待つのは、辛いかい…?」
その時ギンコの胸の辺りで、何か気配が揺らいだ。隠しに片手を入れれば、そこへ入れたあの虚繭が、小さく小さく、震えていた。
ぱたぱたぱた。
ガタタ、ゴト。
さっ、さっ。
ガタン…っ。
「おぅ、落ちるなよ!」
「だ、だいじょぶっだって」
化野が古ものを詰めた箱を持ち、庭を横切りながら子供に声をかけた。子供は踏み台の上ではたきを持って、精一杯の背伸び。届く限りの場所の埃を払ってくれている。
たたたたた、とととととっ。
軽快な足音と共に、縁側を雑巾がけしてくれているのは、頭に手拭いを被った近くの家のだんな。台所で煮物を作るなり、立ち働いてくれているのは、そのだんなの妻である。
「せんせいっ、えびす様とだいこく様はここでいい? この向き?」
布でもって棚を拭き清めてくれていた子が、両手を丁寧に神様の像に添え、化野に尋ねてくる。
「そうさな、恵比寿様はもう少し左へ。もう少し」
「こうっ?」
「あぁ、それでいいよ。里の方、海の方へ向けてな」
「はぁいっ」
年の暮れ間近、化野の家の中は賑わしい。里で悪い風邪をひいた一家があって、その看病にこの数日かかりきりだったからだ。
祖父母と両親、子供のひとりいる家で、今朝になってようやくみんな熱が引いた。ありがたいことに、里人らは大掃除や片付け、年明けの準備が出来なかった化野を手伝おうと来てくれたし、また別の何人かが、大事をとってまだ寝ている一家のところへ掃除に行っている。
次はどこをきれいにしようかと、布を手にした子供が棚から離れたのを見て、化野は皆へと言った。
「もう此処は充分だよ。助かった。だから向こうの家の手伝いに行ってくれ。まだ腹が緩いようだったから、粥を炊いてやるといいかもしれんな。精がつくよう、うちから卵を持って行くといい」
蔵へと箱を置きに行き、ついでに目立つところを簡単に整えた後、化野はひとりの家へと戻る。棚の上の恵比須様と大黒様、その間に彼は、そっともうひとつの像を置いた。
猿田彦大神。
丁寧に手を合わせ、三人の神様に祈るのは、海での豊漁と安全、田畑の豊かな実り。そして、旅を歩く大切なひとが、今までもこれからも、無事でありますように、と。
「…つれないやつめ。今頃どこでどうしているのやら。なぁ、ギンコ」
来なくなってもう二年半が過ぎてしまった。俺の、何が嫌だった? 他にわけがあるのか? それともただの気紛れか。そんなことはどうでもいいから、無事で居てくれ、どうか。
ふと海を見ると、風もないのに白い色に波が立っていた。化野は冷たい空気の中、縁側へと腰を下ろし、口脱ぎ石の上に両足を投げ出し柱へと身を寄りかける。
しなだれかかるようなその後ろ姿が、酷く疲れていた。
続
あけましておめでとうございます。昨年中、来てくださった方、支えて下さった方に深くお礼を申し上げると共に、今年もまたご愛顧くださいますようお願い致します。
さて、新年にあわせてのお話をひとつ、昨日の大晦日から書き始めました。正直、新年っぽいお話では全然ないですね! しかも昨日の朝にざっとあらすじを考えたら、どうしたって一話完結は無理ですね! というわけで、まず一話、書きましたのを飾ることにしました。どうぞ見てやって下さいませ。
2022.01.01 LEAVES 惑い星
