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蔵の五つ実   3






 気付けば、月が出ていた。月明かりが注いで、庭に敷き詰められた落ち葉を照らしている。ギンコは縁側から立ち上がり、木箱の肩紐の片方だけを左肩に掛け、数歩先で軽く身を屈めた。

 拾うのは折れた小さな枝。その中ほどの尖ったところに、夜目の効くギンコでなければ見えない、血の色がほんの僅か。ぽい、とそれを投げ捨て、化野の逃げ込んだ蔵へと向かう。

 蔵の前の石段に、ゆっくりと腰を下ろして木箱を傍らに置いて、ギンコは閉じた扉に背中を寄りかけた。

「…足、切ったんじゃねぇのか。枝を踏んだだろ?」

 話しかけると、見えない蔵の中で気配が動いた。逃げ込んでその場で戸を閉めて、そのままそこで座り込んでいるのだろう、化野の姿が、見えるように思い浮かぶ。寒々しい白い襦袢一枚きりで、投げ出した素足、床で震えている指。

 返事は無く、ギンコは一つ溜息をついた。それから木箱を開けて、書付を取り出す。最初の二枚を捲って、そこに綴られている言葉を、低く読んだ。

『薄青の…硝子の角瓶。
 蓋は削った木片。
 あざやかな赤い、五つの実。
 蟲だと伝え聞くが、確かかどうかは知らず。
 どんな障りがあるのかも、一切が不明。
 海里の、珍品好きと有名な若い医家に、
 高値を吹いて売り渡した』

 言い終えると、ギンコはそれを開いたまま傍らに置いて、物音に耳を澄ませる。やがては震える声が聞こえた。

「…し…、知って、たのか…?」
「あぁ、まぁな。珍品好きの医家先生と、白い髪の蟲師が知り合いなのは、案外と有名なんだ。だからここから南へ少し行った山道で、なんとなく胡散臭い物売りが、擦れ違うとき項垂れて目を逸らしたんで、掴まえて白状させた」

 がり、と片手で髪をかき混ぜて、ギンコの眼差しが木々の向こうの空を見る。星がかすかに瞬いていて、言いにくい言葉をますます言いにくくさせた。

「ヤバいかもしれん蟲を、ろくな説明もせずに医家に売った、とな。…聞きゃあ、多少は、お前の安否…」
「……う…」
「痛むんだろ。ったく、馬鹿をやったもんだ」

 はぁ、はぁ、と粗い息遣いが中から聞こえる。その息の音に、心配する以外の思いもかすめて、ギンコは軽く唇を噛んだ。こんなろくでもねぇ男の気を、そんなに引きてぇなんてな、と罪悪感がチラリと過ぎる。

 中途半端で途切れた愛撫。さっきまで目の前にあった痴態が、あの色っぽい姿が、脳裏にちらちらして困る。

「そこから出て来い…。お前、女じゃねぇだろ。多少肌が奇妙に爛れたくらいで何だ」

 そう言い終えたあたりで、中から、がたん、と鈍い音がした。目を閉じて、耳を澄ませる。床で擦れる布の音。カリ、と爪立てて掻く音。喉の奥で押し殺した声が、細い喘ぎになって、かすかに零れている。

「痛むか? …あんまし、興奮すんなよ。其れはお前の心情に糧を貰って広がってくんだ。苦痛、熱、それから悲しさとかにもな」

 そう言いながらギンコは、言葉には僅かも滲ませずに顔を歪める。

 この男の心を揺るがしているのは自分だ。気まぐれに、刺さるような事を言い、ろくに会いには来ずに焦らし、さんざ待たせたあげく、無理に抱こうとする。そんな非道い存在だというのに、それでも心を寄せてくれるのなんか、物好きなこの男くらいだろう。

 この珍品好きと名の流れた医家が、蟲に血道を上げ始めたのは、ギンコと知り合ってからだ。そうして何か蟲絡みと聞くたびに、いけない、あぶない、と思いながら手を出して、期待と不安の入り混じった顔をして、ギンコにそれを打ち明ける。

 へぇ、こりゃ珍しい。
 こっちへ貸せよ。
 どうやって手に入れた?

 などと、調べ始める横顔を、うっとり、としか形容できない目をして、見つめる視線にも、前から気付いていたのだ。

 あぁ、やっぱ、こいつ、かわいいよなぁ。と、そうギンコは思って苦笑した。別にここに来るのは、見たことの無い蟲を見たいが故じゃない。そんな理由なら、あちらこちらを放浪してる日常の方が、それへ遭遇する度合いは遥かに高いのだ。

 嘘偽りの紛い物やら、噂ばかりの蟲とは無縁の品やら、そんなもんに引っかかってる医家の住まいへ、足を運ぶ理由なんか…。そりゃぁ、憎からず、思っているからに決まっている。


 言ってやることは、無かったが。


「…ギン…コ……」
「あぁ、いるよ」

 か細い、か細い、その声が、もう返事の返らないことを、殆ど決め付けて震えてた。

「…ゆ、ゆるし…」
「なんで俺がお前を許すってんだ」
「…っ…」

 明らかに、誤解したであろう痛みが、分厚い扉越しに響いた。

「元々、そんな話じゃ、ねぇだろ…?」

 ギンコは長い溜息をついた。そうして手元の書付をぱらり、と捲る。最初に書かれてある、白い枝を広げた赤い実の絵を、じっと眺めながら彼は言った。

「件の角瓶は、そこにあるよな? 其れは元々蔵好きの蟲だから、そこでお前に憑いた筈だぜ。傍にゃねぇか?」
「…あ、あるよ」
「そうだろ。なら、体に巻いた布を解いて胸を曝せよ。それからその、赤い実の幾つか残った角瓶を、胸の爛れに押し当ててな。その五つ実は、五つそれぞれの存在に見えるが、本当は一つの個体だ。だから、そうやって、いくつかがお前の肌に移って、外へと運び出されちまったから、戻りたがって騒いでるんだ」

 肌に広がる枝のような爛れも、布に滲んで外に落ちる赤い色も、元の場所へ戻してくれと訴える、蟲からの伝え言。刺すような痛みも同じだ。

「痛むんだろう…? 今からでも、この扉を開ける気はねぇか? 化野。そんなに俺に見られたくねぇってか? 他のものに…犯されてる体を」

 言ってしまってから、ギンコは蟲に嫉妬している自分に気付く。項垂れる化野の痛みが、赤い色になって見えるような気がした。好いてる相手に、こう責められれば、開く扉も開かなくなる。

 ギンコは暫し化野の返事を待って、また空の上で瞬く星を見上げた。冷たい風が強く吹いて、彼の白い髪をかすめて、枯れた葉が飛び過ぎる。

 かさり、とその葉の幾枚かを踏んで、ギンコは黙って立ち上がり、一歩、一歩と蔵から離れた。扉から離れてしまえば、もう化野の息遣いも、躊躇いも想いも聞こえなくなってしまう。

 そうしてギンコの気配がそこから消えたのを、化野もきっと気付いただろう。声が届かなくなるほど離れてから、ギンコはまたぽつりと言った。


 あぁ、まったく、面倒くせぇ奴だよ、お前は…



















 うん、当初の予定より、随分とギンコが優しいようです。不思議と変わっていってしまうのですが、先生が健気で可哀相だからかなぁ、とか。一話目から今まで、イメージが変わってて気になるかもですが、勘弁してやってください。

 このろくでなしだって、可愛い化野にはほだされるんだよー。

 みたいな、ね。多分、次の話でラストです。よかったら最後まで読んでやってくださいましね。ありがとうございましたーっっっ。   



2010/11/23