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蔵の五つ実   4







 あぁ、そうか。これは、罰なのだ。

 そう化野は思った。愛しい男への会いたさに、知らぬこととは言え、一つの蟲を二つに裂いた。五つに見えて、本当は一つの、その体を裂かれる痛みはどれほどだっただろう。

 手を伸ばして、視野の遠くにある角瓶を取る。ひいやりと冷えた硝子の中で、二粒の小さな赤い実が、ころころと転がって艶光っていた。言葉のない、生き物よ。それでもきっと裂かれた半身を求めて、声なき声で泣いていたのかもしれないのに。

 すまないなぁ。
 すまなかったなぁ。
 今、そこへ帰してやるからな…。

 片手で角瓶を持ったまま、化野はもう一方の手で晒を解いた。すぐに曝される白い肌には、銀色に見えるほど白い色で、枝のように広がる痣が浮き出ている。ところどころにきらきらと、赤い赤い実が、三つ。

 瓶の中では残り二つの実が、ちりちりと音を鳴らして震え出す。

「…う…っ、ぅ…ぁ…」

 刺すような痛みが、胸に広がる枝の上を走る。皮膚に刃物が滑るようだ。真っ赤に血が流れないのが不思議なほどの苦痛。

「こう…こうか? ギンコ…」

 もう、そこに居ないであろう相手へ、化野は言った。胸へ強く瓶を押し当てると、体が跳ねてしまうほどに痛い。喉を反らし、背中も胸も捩じって、冷たい蔵の床で身悶えする。体を這う枝が、ゆらり陽炎のように揺れて、瓶の表面に映っていた。

 化野は痛みに震えながら四つん這いになり、床に額を摩り付けて、ぽろぽろと涙を零す。


 今はもう、遠くを歩いているギンコ。
 お前の気を惹きたくて、
 こんな愚かをした俺を呆れているんだろうな…。
 それでも、ほんの僅かでも気にかけてくれてた。
 強引なことをして、来るたびに非道いけど、
 それでも、教えてくれた。

 ほとんどが蟲のためでも、
 あぁ、それでもいいよ。
 お前の言葉の通りにするよ。
 どんなに痛くても、辛くても。

 好きなんだ…。ギンコ…。


 項垂れて、胸に抱き込んだ瓶を見ると、その中にきらきらと、艶光る五つの赤い実。枝は胸から瓶へと映って、硝子の表面に、氷で出来た美しい飾りのように見える。

 疲れ切って、ぐったりと横たわり、ぼんやりと暫し瓶を眺めていた。やがては深々と体が冷えて、早朝の寒さにかちかちと歯がなってしまう。化野はもそりと身を起こし、襦袢の前を掻き合わせて、蔵の扉の内鍵に手を掛けた。

 がちゃり、と重たい音を鳴らして開けて、肩で寄りかかるように扉を開けば、蔵の中よりもずっと冷えて、肌を斬るように冷たい空気を感じる。

「そうか。もう…冬がくるのか…」

 ギンコの来ない季節だ。だったら今年最後の逢瀬だった筈なのに。そう思って悔やんで、震えて我が身を抱いて、蔵の前の石段を素足で踏んだ、その化野の目に…。

 少し離れたケヤキの大木の根元に。
 見慣れた、皮の靴を履いた足が…見えた。

「なぁ、随分痛んだだろ…。少しは懲りたかい? 化野先生」

 あぁ…。居ない筈の、男の声。
 もう、ずっと遠くを歩いていってしまった筈の、
 愛しい、愛しい、男の姿。

「…どうして…」
「言わせるか。それを」

 肩をすくめたその姿は、真っ白い洗い立ての布に包まれてた。化野の、布団の敷き布。それを頭からかぶって、たくし上げるように胸のまえで掻き合わせ、ギンコは白い息を吐く。

「…今度こそ、ちゃんと体を見せな」

 そう言って、咥えていた蟲煙草を、皮の手袋に握り込んでくしゃりと潰す。手袋を脱いで手招きしたその手に、引き寄せられるように化野はギンコの前へ行って、着ていた襦袢の帯を黙って解かれた。

 無抵抗に胸を曝す化野を、くす、とギンコが意地悪く笑う。胸を見るより先に、下帯に包まれているそこをそろりと撫で、夜半のあの時から濡らしたままの其処を揶揄した。

「馬鹿だな。解くくらいすりゃあいいだろ。こんなに濡らしたまんまで、冷てぇだろうに」

 だけれど、布越しにそれを擦るギンコの手も、氷のように冷えている。愛おしむように、いつまでも、すりすり、すりすりと撫でてやりながら、視線ではちゃんと化野の胸を確かめた。どこにも痣は残っていない。赤い実も全部、あの角瓶に戻ったのだろう。

 残っているのは、寒さに凍えて縮こまるようになった、左右の二つの、小さな粒だけ。男のくせして、どこか可愛い色をした、化野の胸の。

「こんな早朝でも、里人はここへくるかい?」

 言いながら、ギンコは顔を寄せてそこへ口を付けた。ちゅ、と音を立てて吸って、もう一方は舌先で舐めてやり、そうしながら下帯を緩めている。化野はギンコが放った問いを、否定するように首を横へ振りながら、言葉では逆のことを言った。

「く、来るよ…。漁に出る前に、薬が欲しいと…くるものも、ある」
「なら、こんなこと、やめといた方がいいかな」
「………」

 何も言えず、否定も肯定も出来ずに、化野はただギンコの顔を見た。ずるずると枯れ草の上に座り込んだ体は、朝の冷気に冷えていくどころか、もう触れられた場所から熱を持ち始めてしまっていた。

「嫌がらねぇで、いいのかい? 先生」
「……ギンコ…」

 大腿を、膝を、足首を…。そうして夕べ枝を踏んで傷つけた足の裏へまで、舌の愛撫を浴びながら、化野は喘ぐように言ったのだ。

「好きなんだ、ギンコ…。ギンコ…」

 ギンコはそれを聞いて、ほんの少し顔を上げる。化野は自分の口元に手の甲を当て、愛撫に嬌声を上げないように息を飲んでいるようだった。告白は、一度目じゃない。もう二度も三度もしていたから、返事のないのも慣れていて。

 ギンコは黙って、化野の両膝を左右に開かせた。地面に膝をついて、身を屈め、枯れた落ち葉の匂いを嗅ぎながら、彼はそこへ顔を埋める。もう半分以上立ち上がっていた其れを、すっぽりと口に含んで、味わうように顎を動かした。

「ん…んぅ…。…あ…ッ、ぁ…」

 放つ寸前まで、舐め回して、吸い付いて、ごしごしと根元から先端へ擦ってやりながら、快楽の波に溺れかかる化野へ、ギンコは言うのだ。

「俺は根無し草なんだと、あれほど言っただろうに。そんな俺を、こんなにまで捕まえてんのは、お前だけなんだぜ…」

 だから、今以上縛ろうなんざ、やめてくれ。
 傍にいられねぇのは、どうしたって変わらない。
 焦がれ死になんてなぁ、ごめんだからな。

 言いもしないそんな本音が、ギンコの胸で回っている。放たれた濃い味の其れを、最後の一滴まで飲み込んで、ギンコはゆっくりと顔を上げる。

「聞こえたか…?」
「……うん…」

 はぁ、とギンコは酷く憂鬱そうに息を吐く。残滓を舌先で舐め取って、ついで上着の袖で口元を拭うと、ギンコは自分の纏った白い敷き布で、化野の体をすっぽりと包んで立ち上がる。

「…また、春にでもな」
「待ってる」
「ふん。別に、待たねぇでいいよ、こんな情のねぇヤツの事をなんか」

 そう言って背を向けて、遠ざかりながら彼は言うのだ。

「次はちゃんと、最後までやらせろよ…?」

 ろくでなしの台詞を吐いて、ギンコは歩いていく。朝の光が海に反射して、濁った心には眩しかった。自分にゃ似合わねぇのにな、と、ギンコは心底そう思うのだ。

 こんな清らかな朝の光も、あんなに一途な恋人も…。







 終


 

 



 
 

 

 雪が消えてしまったので、こんな秋のお話を書くのに丁度いい…。けど、二人が寒そうだからって、自分も風邪ッぴきなのはどうなんだろう。早く治さないと! そう思いつつ書きました。アハハ。

「化野のことは気に入ってる」とか、その程度の言葉さえ言ってくれないギンコに対して、好きだ好きだと苦しそうに言い続ける先生って、なんというか、可哀想なんだよなぁ。

 しかしこの二人の、あってないような温度差の痛みが、どうも好きだったりする惑い星です。ごめんね、化野先生ー。これにてラストですので、今度は名工の書き直しをするつもりです。どんな話にするんだっけ…。

 蔵の五つ実は、自分とこの蟲名お題と、eサマのところのお題で「物越し」より。「布越し」「蔵の扉越し」として書かせていただきました。一番応援してくださった某様もありがとうございますっ。

 もちろん読んでくださった方々、皆様にもありがとうございましたー。