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蔵の五つ実 1
う、と呻いて化野は布団に身を起こした。まだ夜は明けていないが、東の空はうっすらと光を帯び、彼はそれを眩しそうに眺める。
敷布についた手が、布をくしゃりと握って引き寄せた。皺の寄った白い布地の数箇所を、血のような赤い色が点々と汚していた。悔やむような顔で見下ろし、強く引いて敷き布を布団から剥がすと、化野はそれを小さく丸めながら、裏の井戸へと向かう。
こういう、出所も判らんようなもんに、
ほいほいと手ぇ出すんじゃねえよ…。
ギンコの声が耳に鳴って、冷たい水で布を洗う手までが、胸と一緒にキリキリと痛んだ。
そういうつもりはなかった。ただ、綺麗だからと買ったわけじゃない。これは蟲なんだと聞いた。小瓶の中の、きらきらとした赤い五つの実は、ただの木の実でも、宝玉の類でもなくて、生きたものなのだと。
ギンコに見せたら、興味を惹くだろうかと思った。そうして俺のこの家の中で、色んな特別な道具などを取り出して、懸命な顔して調べるのだろうかと。そうして滅多には見られぬ顔を俺に見せて、何か判ったことを語ってくれるだろうか、と。
恋とは、難儀なものだと思う、こんなにも…。そんな些細な一時が欲しくて、これを手に入れたのだと判ったら、お前は笑うだろうか。叱るだろうか。そうして、こんなことになってしまったと判ったら…。
敷き布を洗い終えて絞り、庭の木に渡した竹に広げて干す。あの赤い染みは綺麗に落ちて、何事もなかったような白い色の上に、手を滑らせて化野は項垂れた。
寝乱れた夜着にも、その内の胸に巻いた白布にも、一点たりと染みはないのに、それでも布団に赤い色がつくのだ。それも、毎夜毎夜、何かを訴えかけるようにだ。
ギンコに会いたくて、そうして少しでも長く、この家に居て欲しくてこんなことになったのに、今はこの身を見られるのが怖くて、来てくれるなと震えて思っていた。
* ** ***** ** *
文机に肘をついて、見てもおらぬ書物を捲る。閉じてはいない目の前に、ちらちらと赤い色がちらついた。ひとつ、ふたつ…。五つの赤い実。透き通った角瓶の中で、ころころと転がる実は、美しい紅玉のようにも見え、何かの木の実のようにも見え…。
「…は…ぁ…、ぅう…」
苦しげな息が零れた。化野は着物の襟を少し広げると、巻いている晒の上から、自身の胸を撫でる。
あぁ、また、枝が伸びてゆく
赤い実をつけた枝が、まるで残りの実を探すように
じわじわと枝分かれし、胸の上で広がっていく
晒の上からでもそうと判る、肌の上の細かい隆起は、自分で見ても、おぞましいような、気味が悪いような。それがさらに広がっていくのだ。こんな姿を、見られたくない。
「…あ…あぁ………」
刺すような痛みがやっと薄れて、化野は突っ伏していた机から、のろのろと顔を上げる。いつの間にかもう夕暮れに近い。目の前ではためく白い布を、そろそろ取り込んでしまわなくては。そう思って、化野は立ち上がった。
下駄を突っかけて縁側から庭に下り、布へと両手を差し伸べ、まだ微かに残る肌の痛みに眉を寄せる。そのまま布を片手で握った、その手首に、誰かの手が触れた。
「化野」
「……あ…」
掛けてある布越しに、やんわりと。その呼び掛ける声も静かに、声は、ギンコの声だった。
「ギ、ギンコ…?」
「あぁ、他の誰かの声に聞こえるか? 俺も案外想われてねぇんだな」
声だけ。布に阻まれて、姿は見えない。強く手首を掴まれていれば、触れた小さなその箇所には、やがては体温が伝わった。
あぁ、会えて嬉しい。だけれど今は、今は会いたくなかった。あんなにもただ真っ直ぐに、会いたいと思っていた時ではなく、どうして今になって、ギンコはここに来てしまったのだろう。そんな想いが伝わったか、触れた手首に、心の強張りが滲んだのか、ギンコは短くこう言った。
「なんだ、あんまし歓迎されてねぇか。出直そうか? 先生。次がいつになるか言えねぇが」
「…っ。そ、そんな…ことはないよ。ただ、今は、急いで往診にでなきゃならんってだけで」
「往診、なぁ。まぁ、そんなら上がらしてもらって待ってるさ」
する、と手首を掴む手が離れた。化野は下駄を履いたまま、縁側から手を伸べて、無理くり医術道具を手繰り寄せる。それを掴んで、庭の白布に隠れるようにしたまま、化野は庭から外へ出てゆく。
カタカタと下駄を鳴らして行く後姿は、一度もギンコを振り向かずに遠ざかった。そんな化野の背中を、見えなくなるまで庭で見送り、ギンコは物思わしげな顔で呟くのだ。
「…しょうもねぇ…。俺がそんなに怖ぇってか…?」
はぁ、と溜息ひとつ吐きながら木箱を下ろすと、ギンコは化野の代わりに白い敷き布を取り込み、竹竿を枝から外して軒へと立てかけた。
ここはもう、通いなれた縁側。何度こうして訪ねたか、もう数えるのも億劫になるほどなのに、化野はいつまでもどこか他人行儀で、常に何かを隠している。
「面倒臭ぇやつ」
またぽつりと言って、ギンコは木箱の中から、真新しい書付を取り出して広げた。開いた最初に書かれた文字。
『蔵の五つ実』
さらに、墨一色で描かれてある絵は、角瓶の中に入った丸い五つの実。そして扇状に広がった枝に、同じ実が五つ生っている絵だった。実は紅色、と、絵の傍に書き足され、つらつらと説明書きも細かく綴られている。
「面倒臭ぇ…」
もう一度言って、ギンコはそのまま其処へ寝転んだ。投げ出した右手のひらを彼は眺め、ついさっき布越しに感じた化野の、熱いくらいの体温を思った。
見られたくねぇ…ってか?
逆に俺は見てぇけどなぁ。
案外、似合っているだろうよ。
お前の肌に、赤い実が…。
続
ちょっと短いけれど、無理にいつもの一話分の長さ目指さなくてもいいか、とか思ったりして。書いているうちに、最初イメージしたものと違ってきて、面白いですね。いや、楽しいのは自分だけですが。アハ。
この話はですね。きっと言わなきゃ全然判らないだろうけれど、影さんとこのお題「物越し」で、某様に物越しならば「蔵の扉」と「干した白布」のどちらの物越しがいいですか?と聞いて、さらに自分とこの蟲名お題「蔵の五つ実」を掛け合わせて書いてる作品です。
某様には「両方v」と鬼のような事を言われて、チクショウ書いてやるぜ!みたいな。←燃えたんですな、要するに。ギ化作品なので、こちらのページに持って来ましたー。
連載なのでまた頑張って参ります〜!
再放送見て、蟲師にはまる方がもっと増えますようにv
10/11/03
