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雷 の 棘 3
あれから何日たったのか。縁側に、斜めに傾いで化野が座っていた。柱に肩を寄り添わせ、何もせずにぼんやりと虚ろな目。その姿を遠目に見て、ギンコは一度坂の途中で足を止めた。
潮の香りの風が、立ち止まった彼の髪を乱しながら、背を押すように吹き上がる。止めていた足を踏み出して、ギンコはもうあと少しだけの距離を、化野の家に向かって進んだ。
「…ギ、ギンコ……」
掠れた声で化野は彼を呼んで、立ち上がろうともがいている。床に付いた右手は握り込まれたまま、何重にも包帯を巻きつけられて、しかも細かく震え続けていた。
はぁ、と吐き捨てるように息をついて、ギンコはやっと垣根を踏み越え、化野が懸命に自分を見つめるその場所まで近付いていく。
「待ってたんだ」
「…蟲なんぞ、捕まえろと誰が頼んだ?」
つれない言葉でそう言って、それでもギンコは化野の隣に座る。木箱を背から下ろしながら、視線を流して化野の右手を見た。巻かれた包帯はいつからそのままなのか、随分と汚れている。
「俺が何処からここを目指したと思ってんだ。…いつも以上に長居は出来ん。すぐに発つからそれを見せろ」
もう一度ため息をついて、ギンコはようやっと化野の右手に手を伸ばした。触れると、包帯の上からでも随分熱い。片手で手首を掴み、それから両手で包むようにして、慎重に包帯を外そうとした途端、その手は無理にもぎ離されたのだ。
「そう、言わないでくれ…」
一瞬見せた化野の顔は、酷く悲しげに見えた。ギンコという男が、こういう男だと判っていたし、判っていて好いているのに、それでも傷付く自分が苦しかった。
心配したんだぞ、と、駆け寄ってくれるなんて夢見ていない。抱き締めて、再会を喜んでくれるとも思わなかった。想像できる通りの態度をされていて、それなのに息が苦しくなるほど辛くて、人間とは不自由なものだと、そう思う。
「ギンコ、それでも、少しは寛いでいけるだろう。茶を入れるし、久々に何かお前の好きなものを…」
「その手でどうやって。いいから、見せろ。どんな蟲かは道々聞いた噂で見当がついてる。お前は知りもしないで握り締めているんだろう。痛むし、熱い筈だぞ。…見せろ」
「嫌だ」
強く言って、化野は立ち上がった。履いていた草履を跳ね飛ばして脱いで、家の奥へと入っていく。ギンコはそんな彼の背中を眺めてから、手を掛けて靴を片方ずつ脱いで、自分も部屋へと上がり込む。
「嫌がったってどうにもならんぞ。そもそもなんで俺を呼んだんだ。その蟲のことを聞きたいからじゃないのか、化野」
「……」
そうじゃない。
会いたいからだ。
傍に居て欲しいからだ。
お前に、
求めて欲しいから…
判っているくせに
胸に流れた想いを言葉にはできず、化野は項垂れている。敷いたままの布団の上に、ぺたりと座ってギンコを見上げれば、膝には、すぅ…と風が当たった。着物が乱れて、膝が出ている。
あぁ、こんなになっている俺のこの姿を、思えば里人はどう見ていただろう。帯もきちんと結んでいなくて、布団は敷いたまま、雨戸も半端に閉じたまま。包帯で戒めたこの手のせい、怪我のせいだと、そう思って気遣ってくれる皆の心を、適当に誤魔化して過ごしてきた。
お前のせいだよ、ギンコ。
いいや、お前を想う俺自身のせいだ。
一つところに長くいりゃあ、そこを蟲の巣窟にしてしまう…。集まり過ぎれば、いいことはない。と、淡々と語る口調の憎らしさ。そうやってあっさり去っていくお前の背中を、見ている俺の気持ちも、時々は考えて欲しいんだ。
「見せろ。…そんなに嫌か?」
ギンコはふぅ、と、もう一度ため息をつく。布団の傍に膝をついて、化野の目を覗き込み、さも言いたくなさそうに、彼は言った。
「…あんまり、心配を掛けんでくれ。心臓によくねぇだろうが」
ほら、と差し出される手が、今までで一番優しく見える。その手を眺める化野へと、ギンコはゆっくりと手を伸ばし、とうとう彼の右手首を捕まえた。さっきと同じで、握った手首まで熱い。蟲の気配がする。じわじわとそれが包帯の外へと滲み出ていた。
「お前がそんなだと、里人が心配するんじゃないのか。この里にたった一人の医家先生。人徳があるんだって、自分で言って、そんなお前がこの格好。…俺のせいだと思われたら、いったいどうしてくれる? ますます寄れねぇぞ、それでいいのか?」
手首を取ったのとは逆の手が、あっと言う間に化野の後ろ首を捕まえて、強引に引き寄せて唇を塞ぐ。そっけない態度で、こんなこと、いきなりするなんて様子も見せず、深い口付け。硬く鎧った化野の心を、突き崩すように、濃厚に…甘く。
「なぁ、あんまり、世話を掛けんなよ…。煩わしいのは、好きじゃねぇのに」
「ぅ…あぁ…」
途切れた口付けの合間の、ひと言、ふた言。ギンコは化野の腰を抱き寄せ、乱れた着物の裾から手を這わせている。緩く巻かれてある下帯を、解こうとするでもなく、ただそろりと撫でて、化野の下唇をがり、と噛んだ。
「しょうがねぇ。俺は蟲師だからな、蟲患いと聞きゃぁ飛んでくるさ」
でも、自分の手に負えない蟲もある。間に合わないかもしれないし、何もかも、手遅れになって、失うことも在り得るのだ。なのに化野はそんなことも考えていない。
蟲の呼子で、強引に蟲を呼ぶように、ただ、ギンコを呼び寄せることだけが目的で、それでどうなる、などと考えることもないから。
ひいやり冷えた大腿へと、ゆるり手を這わせ、熱くなっていく場所を探ってやる。これが望みか、と、嘲笑うふり。淫らなもんだ、とからかう笑い。捕えた手首を引き寄せて、包帯へは歯を立てて無理に解く。解かれて、露にされた化野の手は、硬く巻かれていた包帯のせいで痺れている。
ちゅ、と音を立ててその甲に口付けし、ギンコは彼が握っている指を開かせようとした。
「…開けよ。お前、これ、いったいいつから握ってんだ。…こんなだからあの文、酷ぇ字だったのか。左手で書いたんだな」
布団の上に仰向けにさせた化野の、着物の前は広げられ、下帯は外れかかっている。ギンコは彼へ圧し掛かり、やっと包帯を解かれた握りこぶしを眺めた。握られた指に隠れていない場所には、酷い火傷と擦り傷がある。
「痛そうだ。こんなんでよく、治療もしねぇで」
とんとん、と、その手を叩いて促すのに、まだ握られたままの右手。自分の意思で開けないのか? いいや、そんな筈はない。蟲はずっと逃げたがっている筈で、逆に力を入れ続けていなければ、指の隙間をこじ開けて、もう蟲は逃げているだろう。
「お前な…。こんなことしてると、傷口から腐ってって、終いにゃ手首から先を失うぞ、化野。…じゃあ聞くが、どうすりゃ指を開くんだ?」
「…開けないんだ。本当だ」
「嘘を言うな。済んだら俺が行っちまうからだろ」
一瞬、ギンコは火のような怒りを目の中に滲ませた。声ばかりは淡々と、化野の胸に刺してくる。
「…教えてやろうか。その蟲のことを。それは雷で出来た針のような蟲だ。朧月に似た蟲の伴侶を持つ。お前がそうして雷針を捕えてるせいで、この里一体、酷ぇ被害にあうぞ。銀の光に焼かれて作物が全て枯れるか、それとも稲光が落ちてここらの山が焼かれるか…。蟲を甘く見るな」
化野は目を見開いて、ギンコに捕えられたままの右手を震わせた。怖くなって、指を開こうとしたその時、ギンコはいきなり包帯を手にして、ぐるぐると化野の握りこぶしへ巻きつけてしまったのだ。
「…ギンコ…ッ」
「なんだ、今のを信じたのか? そんな大それた蟲じゃねぇよ。お前が聞き分けねぇから、からかった」
そうしてギンコは化野の腕を遠くまで伸ばさせ、余った包帯の端を、床の間の柱に縛り付ける。
「せっかく来たんだ、抱いてやるよ。先生…」
続
やっぱり攻ギンコ…っていうか、冷たい感じのギンコは難しいのでした。あの態度でいてちゃんと先生のことは好きなんだけども、それがまた表せなくて、泣けてくるぞと。
こんなんでよかったら、続きが出てきたら読んでやってくださいねぇぇぇ。ションボリリー。
10/02/21
