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雷 の 棘   2 






その夜は不思議な夜だった。雲が厚くて月は見えないはずなのに、妙に明るい。通り縋ったある里のものたちは、特に気に止めても居ないようだったが、道を行くギンコだけは、ずっと違和感を感じ続けて歩いている。

 ふと、擦れ違おうとする男にギンコは声を掛けた。

「ここらじゃぁ…」
「ん? あぁ?」
「いや、急いでるとこ、すまんね。ちょっと教えて欲しいんだが。今夜は月の無いのになんだか明るいだろ。ここらへんじゃこういうこともよくあるのか?」

 里人は、異色のなりをしたギンコをじろじろと見ながら、それでもぶっきらぼうに教えてくれる。

「…あー。月はまだあの山の影にあるんだろうさ。今にのぼってくるだろ。忙しいんでな、そんなの気にしちゃいられねぇ」
「ふーん、そうか。すまなかったな、足ぃ止めさせて」

 そんなことがあるもんか、と小さく皮肉な笑みを浮かべつつ、ギンコはやや項垂れてその顔を隠した。男の姿が道の向こうへと消えてから、彼はゆっくりと足を止める。改めて見上げた空は、真上だけがぼんやりと明るさを強めていた。

「…なんかいるな、ありゃあ」

 見ている間に、頭上にあったその明るさの位置は、山の向こうまでゆるゆると移動して、やがては薄暗くなって消えた。あとはただの夜やや遅い曇り空の色が、空一面に広がるばかりだ。

「いるとしても、雲の中じゃあ、気配も判りゃしねぇしな。ま、調べてだけおくか」

 幸い今は、少しは懐も暖かい。安宿の片隅に泊まる贅沢も、たまには悪くはないだろう。ギンコはそう思い、背中の木箱を揺すり上げた。

 そうして夜半、宿でのこと。

「だから嘘じゃぁねえって言ってんだろ、さっきから」
「だって、そんなの見たことも聞いたこともないって、みんな言ってたじゃないか」
「だったら、俺の見たのがますます珍しいものってこった。とにかく、凄ぇもん見ちまって、おっかねぇから俺ぁずっと引き返してきたんだ。商売どころじゃなかったんだよ」

 行商人とその妻らしい二人連れは、軽く酒を引っ掛けながら、そんな話を繰り返している。安く泊まりたけゃ相部屋だと言われ、こだわりなく頷いたのを、ギンコはさっきまで少し後悔していたが、逆に今は幸運だったと笑みを作った。

「なぁ、その話、まとめるとこうじゃないのかい?」

 湯飲みを差し出して、酒の分け前を求めつつも、ギンコはこう切り出した。

「空一面を覆ってた雷が、いきなり一箇所にぎゅっと狭まってって、それきり空は静かなただの曇り空になっちまった。ただしその雲の中を貫くように、流れ星みたいなものが飛んでった…」
「おうおう! その通りよ、あ、あんたも見たのかい?」
「別に、見てやしないけどな。文献で読んだことがある。つまり、あんたの言うのは出任せなんかじゃない。その目で確かに見たんだろうってことさ」

 ギンコは酒を飲み干した湯飲みを、また差し出す。ほろ酔いながら上機嫌になったその男は、なみなみと酒を注いでくれ、やがては夫婦して酔いつぶれて寝てしまった。

 夫婦ものが消し忘れた蝋燭を、ちゃっかりと引き寄せて明かりを自分のものにしながら、ギンコはたった今聞いた話から、木箱の底の巻物を取り出して広げた。

 その蟲なら知っている。名前は雷針、とも、雷棘(ライキョク)、とも。そしてそれに関わる蟲で、月癒(ゲツユ)というのがあった。それがついさっき、ギンコが空に見たあの現象を引き起こす蟲だ。

 二つは通常、共にあると言われ、一説には、一種の蟲の雌雄だとも言われる。それが離れると、良くないことが起こると、そう書かれていた。過去の事例も書かれてある。

「…おい…っ、あんた、それをどこで見たんだ」

 膝で這っていって、ギンコは行商人の頬を乱暴にはたいた。酔い潰れて寝ているのを起こされ、半ば夢の中のまま、男は言った。

「海里ぉ…。ここからずうっと西へ行った、山ぁ、三つ四つ先のぉ…」
「海、里」

 ここから西へ山を三つ四つ…。そんな曖昧な情報でも、ギンコの胸は騒いだ。蝋燭を吹き消し、宿のものへすら何も告げずに彼はそこを後にした。見上げた空の遥か東、ぼんやりと淡く明るいのは、あれはただの明け空か。それとも…それとも…。

 迷った末、西へゆく道を選んでギンコは歩き出した。歩き出してすぐに、木箱の中でウロが騒いだ。取り出した文は、まるで餓鬼の悪戯書きのように、のたくった字で書かれていたが、それは確かにギンコに宛てられた文だった。

『むし とらえた まっている アダシノ』

 ち、と舌打ちを一つして、ギンコは足をさらに速める。どんな蟲とも、今、化野がどうしているのかも書いてない。だが、行商人が言った海里、というのが、化野の里である可能性は高まった。

 一度西へ向けて速めた足を止め、ギンコは空を見上げて再び迷う。東の空が明るい。その色の強さが変わっていない。明け方を迎えるにはまだ時間は早く、あの光はもしかしたら、今ギンコが求めているものかもしれないのだ。

「…会いたきゃぁ、会いに来い」

 ぽつりと呟いて、ギンコは西へと向かった。山を一つ、二つ、三つ。急ぐのなら短い道のりではない。ギンコは東の空を振り向くこともなく進んだ。後ろから、淡い光が追ってくるように思った。それが気のせいじゃないように、と、そう願いながら急いだ。


* ** ***** ** *


「先生、手は…痛みなさるのかい? 火傷って言ったっけ? 切ったんだっけ? 利き手の右じゃあ、難儀だねえ」
「あぁ、いや、痛くはないが。火傷…切り傷、ま、どっちも、というか」

 笑って言って、こんなの平気だと言うように、乱暴に手を揺らして見せ、化野は薬を取りに来た里のものを見送った。雨戸は半分閉じてあり、いつもの縁側は、少しいつもと違って見える。暗い影が、入り込んでいるかのようだ。

「雨戸、あたしが開けてってやろっか?」
「…いや、いいんだ。片方建て付けが悪くてな、開けちまうとこの手じゃ、夜に閉めるのが困るからさ。そのまんまにしてってくれ」

 里人が帰っていくと、化野はゆっくりと立ち上がって、奥の部屋へと入っていく。いつもは畳んで片付けてある布団が、敷きっぱなしで出ていて、彼はその中へともぐり込む。

 起きているのが辛いから。それと、握り込んだまま包帯で巻いてある右の手を、布団の中の暗がりで見るのが、好きだからだ。

 暗くすると閉じた指の隙間から、巻いた包帯の下から、光が零れる。小さな花火を手の中に隠してあるように、何かが迸る。そのたびにちりちりと、手のひらが熱くて痛くて、化野は呻きながら、それでも見ていた。

















  
 一話目にはギンコが出なかったので、二話目はギンコ中心で書いてみました。ギ化だからギンコはクールで格好いい感じになるようです。受ギンコと違って、女々しくないんですよー。←自分でそれいうか。

 実はある物体を眺めながら書いています。書き上げたらそれが何かをご紹介とかしますね。ま、大したもんじゃありませんが、それでもそうやって、何かを題材に書くのは面白いですねぇ。

 そういうことをしてみるきっかけを下さった方、今更のお礼の言葉ですが、ありがとうございます。




10/02/08