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雷 の 棘   1






 山へと続く斜面は、ところどころ茶色く肌をさらしている。収穫の過ぎたこの時期の、毎年の光景だから、化野はそれを淡々と眺めている。やんわりとした日が差していたその土の色がふと陰ると、その向こうの遠く、青く青く映える山並みの青が濃く、藍色に見えた。

 厚い雲が空を覆い始めている。こんな時は、そうだ…。いつも…。

 がらごろ ごろごろ ごろがらら

 里には雷が鳴り響く。風も弱くは無いから、すぐに雨戸を立てた方がいいと判っていても、化野は縁側から外に、素足を出して腰掛けたまま、まだぼんやりと風景を眺めている。

 振り出した大粒の雨。灰藍色の空を、斜めに、縦にと、稲光が走って濡れた大地が、家々の屋根が、青銀色の光に何度も包まれては暗く戻る。そこから見える何軒かの家に、子供らが駆け戻るのが見える。化野の家の前の小道を、山から出てきた男が走り抜けて家へと急いでいた。

「雨か…。雨戸を、立てんとな」

 判っているものの、彼は腰を上げもせず、魅入られたように空を見ているのだ。思っているのは前に聞いた、雷の子のような蟲の話だ。蟲が出てくれりゃぁ、な、などと、ついまた思う。会いたくて…。

 見開いた目の、その顔に…青白い光が映っては消える。銀色の光が、照らしては翳らせる。

 きれいな、きれいな光だ。蟲ならいいのに…蟲なら…。強く降っては弱くなり、また激しくなっては止みかける、その鈍い灰色の雨の筋が、蝋燭の灯りで見た、あいつの髪の色のようだ。

 あぁ、あの髪、指先…。もうずっと、忘れるほど会っていないのに、忘れるはずも無い強い想いで、化野はギンコを待っている。

 がらごろ がらら … ごろろ …
 
 その時 だった。

 ひゅ … た  たん っ

 見上げていた空から、何かが落ちてきた。雨粒にまだらに濡れた縁側の板の上。驚いて目を見開く化野の手元で、たん、たん…っ、と飛び跳ねている。それを、なんと言ったらいいのか。

 黒い、小さな粒のような。それでいて、その生きたように飛び跳ねる粒の中にも、何かが動いている。鈍い金色と、くすんだ銀色の筋が目まぐるしく…。まるでそれは…それは、空に稲光っている雷の、小さな欠片のようで。

「…っ!」

 何かを考える暇もなかった。化野は縁側に置いた腰をねじって、飛び跳ねているものを手のひらで追いかける。指先をかすめた時、少し痺れた気がしたが、そんなことは気にしなかった。無理に体を捻っただけでは追い切れず、縁側の床を膝でいざって手を伸ばす。

 蟲だ。蟲…っ、これを捕まえれば。
 捕まえたと文に書けば…。
 ギンコ、ギンコがきっと。

 だから必死に追った。獣か何かのように床を這って、どたんばたんと一人騒いで。その蟲はすばしっこくて、見失いかけて化野の目には、かすかな涙が滲む。ギンコと自分を会わせてくれる、大事な蟲なのにと、そう思えた。

 もう、会わないでどれだけ経っているか。あの男はいつもつれなくて、用がなければ来やしない。何か化野に売るものがあるか、この里が蟲の障りに会うか、行きたい場所への通り道が、ここであるかじゃないかと、きっと、ずっと来ないと思うのだ。

「…た、頼むから…っ」

 言葉など通じないと分かっていても、化野はそう言った。途端に、すばしっこいその黒い粒が、彼の方へ向かって飛び跳ねてくる。五指を広げて手を伸ばし…、捕えた!と思ったその時だ。

 じゅぅ

「ひ…っ、あ、あつッ」

 やっと握り込んだ蟲がまた逃げて、今度は畳の間まで行って飛び跳ねた。その身の色が、今は金色が強く、しかも、畳には点々と、焦げた跡が。震えながら顔の前で開いてみた化野の右のこぶしには、浅くはない火傷。もう一度蟲を見るが、今度は元の色に戻っていた。

 捕まえられるを厭うて、逃げる為に、その蟲はその身に熱を纏うのだと判る。唇を噛んで、化野は蟲の飛び跳ねる部屋を見た。噛んだ唇が、少し白く変じている。強く噛み過ぎている痛みなど、感じている余裕はなかった。

「逃げないでくれ…」

 蟲よ、頼むから。

「…会いたいんだよ」

 どうしても、ギンコに。

 跳ねる蟲が、また彼の方へと飛んできた。少しくらいの代償は払う。そう化野は思っていた。噛んだ唇が切れて血が滲んでいた。蟲を追いかけて這い回ったせいで、乱れた着物の襟が大きく開いていて、その白い胸へと、蟲が跳ねて来る。

 黒と銀と金の色を、混ぜたような不思議な蟲。その蟲が、化野の素肌にぶつかった。小さな小さな一点、肌を焦がされただけでも、この酷い熱さ。痛みに全身が痙攣する。それでも構わずそれを手に握った。そのまま身を屈めて化野は蹲った。

「ぁぅう…っ、ぐぅ、う…ッ!」

 畳の焦げた匂いよりも強く、肉の焦げる匂いがした。握ったこぶしを胸に押し付けて、蹲ったままで化野は転げ回る。畳の部屋から縁側へと身を転がし、次には縁側からその下までも転げた。

 身が焦げる苦痛に比べたら、踏み石に背があたるのなど、意識の外だ。気が遠くなりかけたが、愛しい男を思って堪える。ざぁ、と降り続く雨が、彼の嗚咽を吸い込んで、流れる水と共に流し去っていく。

 ぁあ、捕まえたよ、と、震える息で言った。
 来てくれ、ギンコ…、と、心に浮かぶ姿に懇願した。

 こんなに好きだなんだ。こんなに…。



 ライシン、と蟲師の呼ぶその蟲は、一晩激しい熱を放ちはしたが、翌朝には、ただの石のように冷えた。けして逃がさぬよう、化野は真白い包帯で、握ったままの己のこぶしをきつく巻いた。

 手当てなど、しようとも思わない。早くギンコに会いたいと、それだけしか、化野は思っていなかった。




















 雷棘月癒、とか雷の話、とかよく予定に書いていたノベルです。タイトルは簡単にしてみましたよ。これは〜おそらく〜ギ化? ギ化の話をサイトに普通に載せるのは、ちょっと珍しい…っていうか、初めてでしょうか。

 どこに載せりゃいいのか迷いましたが、うちでは異色なノベルってことで、蟲師otherのコーナーに載せることにしましたよ。これを読んでくださる方々が、サクっと見つけてくれますように。

 二話同時UPです。一話はずっと前に書いていましたからね。雷だなんて、季節外れですが、そんなことは気にしていませんので。へへへ。それでは、続きもどうぞっ。



10/02/08