変わらぬ変容 8
「待たせたな」
と、そう言いながら閉じた襖を開けた。その室に坐しているクマドを見て、淡幽はほんの僅か目を見開いた。顔かたちは同じなのに、見知らぬ他人を見るような。いや、逆にそれだけであったなら、それは常の通り。驚くようなことは無い。
クマドは、何かが揺らぐような顔をして淡幽を見たのだ。そんな彼を見るのは初めてだった。後ろに置かれた木箱は、たった今まで何かを探していたように、いくつかの抽斗が引き出されている。
「…何か、失くしたのか?」
「多分」
「探しに行けばいい。ちゃんと見つけて身に着けておけ。ここはいいから。クマドはもう発った、と、私からたまに言っておくから」
薄っすらと笑ってそう言った淡幽に、クマドは生真面目に一礼し、立ち上がって木箱を背負うと、すぐそこの障子戸を開けて出て行ってしまった。開け放たれたところから風が入ってくる。執筆で汗ばんだ肌にその風は少し冷たく、けれど心地よくて目を細めた。
蟲師が書庫を見終えて帰っていき、その跡を厳重に見回り、鍵をしっかり掛け終えたたまが、その部屋にやってきて驚いていた。
「クマドは」
「あぁ、もう発った」
「そこからですか」
「あぁ、そこからだ。玄関の方へ回って、履物はちゃんと履いて行ったと思うがな、あとで見ておいてくれ。何か大事なものを失くしたらしくて、すぐに探しに戻りたいと」
たまは目を見開いて絶句して、それから聞いた。
「そう、クマドが自分で言いましたか」
「いいや。でも顔にそう書いてあったんだ。読めたので、行けと言った。たま、クマドが倒れていたのは『あの洞』の傍なのだろう?」
想い路、と淡幽は呼んでいる。碧色の美しい蟲の棲む洞だ。然したる目的も無く入れば危険だが、何をしに入りたい、どこへ行きたいなどと、深く心に決めて入るものには害を為さない。だから、クマドがあの目をしたまま入るのなら、ちゃんと願いを遂げられるだろうと思った。
「そういえば、無理はするなと言いそびれたな。でも寧ろ今日は、どうしてもしたいことの為にする無理なら、躊躇はいらぬと言うべきだったが」
次に来るのが、楽しみだ。
内心では、身内であるクマドを案じているであろうたまに、淡幽は静かに笑って見せるのだった。
「草に手を触れるな。元は喰える野草でもここでは毒だ」
鋭く、イサザはそう言った。山に踏み入って目にした死骸は、鹿やウサギなど、草を主に食べている生き物が多かった。そしてその死肉を喰らった肉食の獣も、疎らに。死んで時間の経った死骸は、毒素のせいか皆黒く変じている。
「こりゃぁ…光脈が急にずれたから、か、長」
「そうとしか考えられない。ここらのヌシは、余所と違って動物じゃなくて『樹』なんだと聞いてた。隣里とこの里とが、土地のことでずっと揉めてて、去年、御神木が切り倒されたとか、なんとか、そういう話も聞いた」
それだけではなく、そうして諍い合うもの達の血が、その樹の骸の傍で随分流されたという話も。倒された御神木は真っ赤になって、一晩で腐って土に溶けたそうだ。
聞いていたものは皆、息を飲んで声を無くした。愚かだ、と一人一人の目が言っていた。蟲の姿も見えず、光脈の存在を知らぬものたちは、稀にこうした恐ろしい間違いをしでかす。近隣の里のものたちは、先を争うようにしてとうに逃げて行った。この山は何年か、何十年か、閉じるしかあるまい。
愚かなものたちの後始末を、ワタリらがこうして担うことがある。光脈がどこへ逸れたか、探す手がかりを少しでも得る目的もあるからだ。
「山裾の全ての道の入口に、分かるように禁忌の印を。何かあたら草笛を鳴らすのが常だが、今回だけはそれは出来ない。時間がかかっても知らせは狼煙。この山の草をけして口に含むな、死ぬぞ!」
厳しい声でイサザは指示を飛ばす。固い顔で頷く皆の顔を、彼はゆっくりと見回した。
「それから、女と子供と年寄り、体の弱っているものは、一つに集まれ。煮炊きと野宿の準備をして他の皆を待ってるんだ。食べ物は持ってきたもので賄え、ここでは調達するなよ」
言い終えると、イサザは山中へと視線を戻した。元々光脈に縁の無い土地と、光脈に取り残され、あった縁を失った土地との落差はあまりに激しい。元より無縁が、何よりの幸と思えるほどだ。
里を捨てて逃げていく人々とも擦れ違った。その暗い顔、泣く元気の無い子供、疲れ果てた顔の女たち、生気の無い男たち。それでも元々里を持たぬ自分らを、比べて幸せだとは、ワタリは思わないが、流れ暮らすこの身の故郷は、言ってみれば光脈そのものなのかもしれない。
「イサザ…っ、いや、長。ここらを調べに来た蟲師がいる。薬袋家のものだそうだが」
言われて、弾かれたように顔を上げた。一瞬で思い出した。会いたいと思っている感情をだ。けれどそこにいたのは見知らぬ男で、この現象の理由を話すと、興味を失ったようにすぐ引き上げて行った。
「けっ、禁種の蟲と無関係なら、知らねぇってか。ちょっとくらい手伝ってったって…」
ぶつぶつと文句を言う仲間に、イサザは小さく苦笑した。
「言うなよ。おれらもそうだろ。光脈のことじゃなきゃここまでしねぇし」
「あー、まぁ、そうだけどな」
言われてすぐ引っ込めるのは、根が悪くない証拠だ。手を抜くなど考えてもみないようで、傍に居た二人はすぐに作業に戻って行った。一人残されたイサザは、ほんの少しだけ間を余す。自分も道を閉鎖する作業をしたいと思っても、長の身であちこち動くと、今度は皆に目が届かなくなって困る。
あぁ、さっきの薬袋家のヤツに、聞けばよかった。
クマドはどうしてるのかとか、元気なのかって。
でなければ、どうすれば会えるのか…と。
怪訝な顔をされるのが目に見えるようで、苦笑するしかなかった。怪訝な顔もある意味道理だ。こんな時だというのに。
「いつまでこんなこと、思ってるんだかな、俺」
洞に入って、ごうごうと鳴る風の音を聞く。あの碧い美しい蟲の気配は感じなかった。まだ覚えている壁や足元や天井の、ごつごつとした岩の形を頼りに進む。そうして自分が足を滑らせた場所を見つけると、クマドはそこで慎重に身を屈めた。
身を乗り出して、一段低い場所へと目を凝らすが、そこには何もない。諦めずにもっと目を凝らす。視線をやる範囲を広げ、ずっと遠くに、やっとそれらしいものを見つけた。赤く、こんな暗がりでも不思議に赤く光って見える、小さな。
「あれ…か」
そうだ、あれだ。と、そう思いながら、何をこんなに懸命にと、心の何処かで思ってもいる。
探しに行け、見つけて、身に着けておけ、と、笑って言った淡幽の顔が見えた。もう一つ、別の顔も見える気がした。遠く擦れかけたこの記憶は、一体なんだろう。
危険だと分かっていながら、クマドは見つけたものの傍へ、じりじりと近付いていく。濡れたように滑る足場、ろくに明かりもない暗がり、なのに自らで光を放つように、はっきりと在り処を主張する赤いあの実。
これ、持ってろよ
あぁ、わかっている、だから。
忘れないようにさ
もう忘れた、でも。遠い声がする。
あんた、クマドっていうんだろ?
お前は?
俺は辛いよ、あんたが俺を忘れるのが。
お前は、
お前は…?
激しい水音がした。飛沫が跳ねて、碧い水が全身を包んでいた。水状のあの蟲の中に落ちたのだ。冷たい。凍る。けれど、赤い実は確かにクマドの手の中に。
続
何と言いますか。難しかった。うん、まぁ、イサザはともかく、パラレルストーリーじゃなくてクマドが出る話で、難しくないわけがない。今頃気付いたのか馬鹿な惑さんめ!
碧い水の蟲さんは、碧水(へきすい)とか穿露(うがつゆ)とか、名前考えたんですけど分り難いから作中では名無しさんでw 生き物の気配が嫌いで、排除するためにその生き物の思考を力として使うそうで、然してなんも考えてないとそのまま取り込まれます。強く何かを想っていると助かる。
あの洞自体が「もの想うもの故に穿たれた路」であろう、という意味で、淡幽さん命名「想い路(おもいじ)」。いえあの…すいません、そんなことを考えてましたって惑の独り言ですw
13/01/20

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