変わらぬ変容   9 






 ピィーーーーーーーーーーーーーー ッ

 その音を聞いて、イサザは息を止めた。草笛かと思ったのだ。だがそうではなかった。これは指笛の音だ。ワタリの中に、吹けるものは数人いる。

 何度も、何度も、自分の居場所を知らせるように、その音は何度も聞こえて、イサザはものも言わずにその音のする方へと急いだ。方向と、音の反響の仕方である程度は場所が分かる。イサザが今いる場所よりも少し低く、そして谷のある場所か。とにかく、音は二重に響いて聞こえた。

「どこだ! 何があったっ?!」
「…っち…  こっちだ! 長っ。悪ぃ、狼煙じゃ間に合わねぇと思ってよ。あれ、見てくれっ」
「……っ…」

 イサザと年の近い仲間が一人、谷底を呼び差して、随分興奮しているようだった。指笛の音を聞いて、他にも数人が集まってきて、指さされた方向を見て声を失う。谷底に見えたものは、悪いもの、というわけではなかった。金色の、ゆらゆらと蠢く靄だ。

「…光脈は、まだ、ここを流れてるのか…?」

 ヌシを弑され、流された人々の血で土地を穢され、土壌はこれほどにも毒に侵されて、それでもまだ、ここに居てくれたのか。靄が金色に染まるこの風景は、光脈が土地を移動する直前に、ほぼ必ず見られる美しい現象。

 目を凝らせば、金の色をしているのが靄だけではなく、谷底の細く流れる川の水が、光脈そのもののように光っているのが微かに見える。ずっと光脈を追ってきたワタリらでさえ初めて見た。地下深くを流れる筈の光脈が、いったいどうしたことだろう。

「もしかして、土を清めて、くれてんのかな…?」

 誰かがふとそう言った。光脈が、長年棲んでたこの土地を離れてく前に、土に沁みた毒の穢れを、少しでも祓って行こうとしているような。そんなのは、話にすら聞いたことがないけれど、確かにそうも見える。出来る事なら、そうだと思いたい。

 靄は谷底の流れからどんどん発生し、広くあたりを包んでいく。毒にやられて死んだ、無数の黒い死骸のひとつひとつが、その靄に溶けるように消えていく。消え去っていくそれらの中に、ぽつりと異質なものを見て、イサザは視線を奪われた。

 人影だ、あれは。鹿やなんかじゃない。明らかに、人。金の靄に飲まれかけて、立っている腰から上くらいしか見えず、それ以上にどんどん飲まれていく後ろ姿。男だ。どこかで、見たような姿かたち。背中に、四角い…何か…。木箱…?

「ク…クマド…」

 呟くなり、イサザの体は突き動かされるように、斜面を夢中で駆け下りようと。

「お、長…っ、何考えてんだ、あぶねえって!!」

 隣にいた仲間に腕を掴まれ、逆側からも必死で縋り付かれ、止められて、それでもイサザの衝動は止まらない。

「離せっ。離せよ…っ。クマドが…!」

 仲間を付き飛ばし、振り払い、駆け出したイサザを止められるものはもういない。ねっとりと濃く立ち込めた靄の中、まるで水の中を行く様な抵抗を感じながら、足掻いて足掻いて、そして。

「クマド…っ、やっぱり、あんただ!」

 後ろから縋って、無理やり体を捩じらせ、覗き込んだ顔には生気が無くて、目はきちりと閉じたまま、まるで死人。揺さぶっても、名を呼んでも、体をこぶしで何度打っても反応は無く、人の形の岩ででもあるかのように、そこから動かないクマドの体。

 必死になって取り縋り、満身の力を込めて、イサザはクマドの体を抱きかかえようとする。細身のイサザと違い、その体はがっしりと大きく、しかも固まったように動かず、絶望がひたりと押し寄せた。すぐ傍に見える動物の死骸が、蕩けるように平らになって、すぅ、と靄の下に消えていくのが見える。

 嘘だろう、このままでいたら、これと同じに…?

「嫌だ…。死ぬもんか…。死ぬもんか…ッ。頼むから、クマド…っ、動いてくれって!」

 一度はクマドに救われた。だから今度は俺があんたを、と、思いはするが、どうにも出来ない。濃い靄に浸されて、クマドの腰から下はもう見えなかった。イサザの膝あたりまでも、すでに見えず、ひいやりと冷たくて凍えそうで。

 あぁ、もう。
 あぁ、もう、駄目なのか。
 せっかくまた、あんたに会えて…。

 諦めかけると、膝からがくりと力が抜ける。崩れ落ちながら、イサザはクマドの顔を見つめて、言った。

「なぁ、俺の顔を、見て、クマド…。最後に…」

 うっすらと開いた目は、願望が見せたただの幻か。視線が合っただけで、嬉しくて、もう…。

「長ぁぁぁぁ…っ」

「イサザ、イサザ…ッ」

「何してんだよ、この馬鹿が!」

 右から、左から、声を掛けられ、名を呼ばれ、両腕を掴まれた。体ごと支えられて、捕まえられて、強い力で斜面を登る方向に引き上げられる。助けられているのは、イサザだけではなかった。ワタリの仲間たちは、クマドの体を同じように支え、掴み、引き寄せる。

 一度は閉じた目を開くと、あたりは一面金色だ。靄どころではなく、金色の川に皆で浸っているようで、細かな無数の生き物の粒が、頬を、指先を、目の前をかすめて流れていく。

「こ、光脈…」
「何言ってんだ、バカヤロ。気付いたんなら必死んなれ! 落ちんなっ、歩け! 登れ!」
「そぉだよ、長っ、あんたは俺らの長だろがッ」

 生きろ、と。
 生き抜け、と。

 胸にすとんと、誰も言っていないそんな言葉が落ちてくる。気付けば金の流れなど無い。靄も殆ど消えかけて、急な斜面を転がり落ちないように、皆の手で、腕で、イサザとクマドを支えてくれていた。

 ふと見下ろした谷間のどこにも、黒い死骸は無くなっている。枯れ果てていた草と草の隙間に、若い新しい草が芽吹いているのも見えた。金の流れと、金の靄とが、山に命を分けて行ったのかもしれない。



 


 沢山の、沢山の何かに包まれている。朝の光、転じて昼間の明るさ、夕の色、さらに転じて夜の気配が。そして沢山の声がする。遠くから響く様に、耳元で呟くように。


 すまん、すまんの。

 クマドが、羨ましい…。

  また、会える。

  あんたに会いたかった

  覚えてないんだろ?

  辛いよ、あんたが俺を忘れるのが…

  頼むからっ、クマド…!


 なんだろう、この沢山の言葉。最初は老いた声。次に女の声がした、それからその後は若い男の声だ。遠い声、遠い時間の向こうの声達。こんなものは、とうに全部忘れたはずが、いつの間に戻ってきたのだろう。そもそも、俺は誰なんだ?  

 …俺は、俺ですよ……。
 
 心で問うた途端、聞こえてきたのは自分の声だ。遠い記憶の中、悲しげな顔をした女が見える。あぁ、これは、淡幽お嬢さんの顔…。同時に思い出すのは、薬袋家の蟲師、たまの顔。そして、あぁ、そして。


 俺の顔を…見て…。と。

 その声を合図としたように、やっと瞼が開く。覗き込んでいる顔がすぐに視野に飛び込んできた。ひとつじゃない、取り囲む様に、いくつもいくつも。そしてその中の一つが。

「イサ…ザ…」

「あぁっ、気付いた!」
「本当だ気付いたぞっ」
「よかった、よかった」
「これで一安心だねぇ」
「おい、平気かあんた」
「やれほっとしたやね」

 口々に、見知らぬ顔に気遣われ、笑い掛けられ、安堵され。その中でたった一つ、知っているであろう顔だけが何も言わなかった。言わない代わりに、ぼろりと涙。そのまま胸に顔を伏せられ、額の乗ったその場所に、何があるかをクマドは思い出した。

 懐を探って、取り出した布。その中からさらに取り出す赤い…。あぁ、割れている。二つ連なっていたのが、一つと一つに離れてしまっていた。

「千切れてる。お前の…」

 そう呟くのへ、イサザが言った。

「うわ、俺が預けたって、ちゃんと」

 覚えていてくれたのか、と、嬉しくて、心の底から笑んでいたら、周りが変にざわついた。よかったよかった、などと言いつつ、見守っていてワタリらの一人が、びっくりしたように言ったのである。

「…って、長! あんた、それをその人にやったんかぃ?!」










 なんとなく展開の見える「続」ですねー。もしかしたら次で終わるかもって感じです。この話、長くしないつもりだった…のに、書いていったらこの有様ですよ。本当に私って、文章を御せないんですよね!

 ラストまでに、またお嬢さんとたまが出ますよ〜。



13/01/26





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