変わらぬ変容 7
狩房家を辞す時、淡幽からいつも言われる言葉がある。くれぐれも無理はせぬように、と。
頷くように頭を垂れながら、一体何を、と、そう思う。禁種の蟲の存在を明らかにし、ひとつ洩らさずそれを弑す。無論、彼女の脚に巣食うものも残らず、同様に。おのれはその為の存在だ。そのために魂すらも、蟲に喰らわせた。
そんな俺に、今更、何を。
クマドは彼女のことが、好きではなかった。重い責を負うていながら、笑むことを忘れずにいるその姿を見せられるたび、どうしてか苛立った。
カタカタ カタカタ
木箱でウロが騒いでいる。何か新たな情報かと、急ぎ取り出してふみを検めた。これまでの資料のどこにもない現象が、ある東の地の山で起こっているという。山の生き物の半分が、一晩にして死に絶え、死骸が皆黒く染まっていたというのだ。噂で、と書かれているが、真偽のほどは。
別に興奮するでもなく、そのふみを読み終えて、クマドはおのれの今居る山を見回した。
この近くに確か、蟲の穿った抜け道がある筈。ふみには急げなどとは書いていないが、山裾を回り込むよりも、遥かに早く向こう側へと抜けられる。ただ、蟲の作った空間で、人はあからさまな異物。危険はあるのだ。
無理は せぬように …
淡幽の声が耳をかすめた。それを脳裏で聞きながら、クマドは小さく笑ったようだった。我が身の危険を顧みて、安全に生きて何になる? もしも魂が抜けても、また新たな魂が入れられるだけ。仮に体ごと滅されたとしたら、別のものが、ただちにこの役目を受け継ぐだけだ。
そうしたら、彼女は今度はそいつに言うのだろう、くれぐれも、無理はせぬように、と。
ぶつ…ッ。
草鞋の紐が足首で切れた。その途端、胸の奥にひいやりと冷えた風が通り過ぎたような気がした。幸い切れたのは紐の最後の最後。ひと巻だけ戻して結び直せば済むことだ。が、
「…あんまり、いい感じしねぇなぁ」
イサザは一人そう呟いて、仲間の皆に向けて声を張った。
「ここんとこ雨が多くて、かなり地盤が緩んでる。充分用心して進んでくれ!」
「あいよぉ、長も重々、なぁっ」
イサザは若い長だから、年かさのものなどは、ついついそうやってからかう。
からかいながらもその男は、草履の紐の緩みを確かめた。疲れの溜まっているものの重い荷物を、自分の軽いものと取り換える姿もある。そして女たちは傍にいる小さい子供の背に、庇うように手を添えながら、慎重に歩き出す。
どれほど幼い子供も、年老いたものも、光脈の動きに沿って旅をしていく。山の厳しい風雨に疲労して病になるものもいるし、怪我をするものもあるが、光脈が動けばワタリは足を前へと進めるのだ。そんな暮らしで命を落とすのなら、それがそのものの寿命だが、だからと言って生き続けることに、彼らは一瞬たりと手を抜くことがない。
また一雨来そうだ。視線を上げたイサザの目に、まだ青い山桜の実が映る。
あぁ、そういやあれから、もう半年だなぁ。
あんた、俺のこと、もう忘れたかい?
また会うことも、あんのかなぁ。
会いたいよ、と、そう思う。不思議なほど素直にイサザは思っているのだ。
だってさ、あんた、頼りねぇもん。
誰かが見ててやんなきゃ、
ほんとは大事なものだって、
どっかに失くしてそうだからさ。
クマドの片手の指先だけが、辛うじて岩肌に引っ掛かっている。みりみりと音を立てて、その指先の爪が剥がれそうだ。ここで手が滑ったら、もしくはこの岩が崩れたら…。
そんな時だと言うのに、クマドの眼差しは淡々と静か。何も未練などなく、死ぬのを恐れていないような顔だった。洞の中の空気は、下へ行くほど酷く冷たい。そこへぶら下がったクマドの足先が、もう凍てつきそうに冷えいる。下を見れば美しい碧い水のような姿の蟲が、そこに広がってクマドの足に絡み付いていた。
凍るだけなら、体は無事に済むのだろうか。それとも組織が破壊され、また別の魂を入れても駄目なのだろうか。そうだとすれば、ここが終焉の地、ということになるのか。
ざり、と、音を立て、指先のある岩肌が崩れ掛けた。クマドは碧い色を見下ろして、指の力を少し抜いた。美しい蟲だ。核喰い蟲だの、この体にいる人工の蟲などとは違っている。あれに飲まれて死ぬのなら…。
あんな美しいものに、体を与えて死ぬのなら…。
また少し指の力が抜けた。ぶら下がった姿勢で、懐のあたりの着物が緩み、そこへしまわれていたものが布ごと零れ落ちそうになる。布はゆるりと解けながら、クマドの目にその中身を曝しながら、落ちていく。
「…っ」
身を捩って、手を伸ばす。布に指が届いたが、掴むことは出来なかった。碧い蟲の中央にそれは落ち、その蟲は驚いたように左右に割れて、どこかへ引っ込んで行ってしまう。蟲が消えると体は少し軽くなった。もう一方の腕を伸ばして掴まり、何とか元の足場へと戻ることが出来る。
凍傷にでもかかったか両脚の自由が利かず、なんとか洞の外へ這い出た。どうやら行けぬ、と判断し、ウロにその旨のふみを書いて託した。這うばかりで日のあたるところまで出て、強い日差しを浴びた時、何故かくらりと眩暈のようなものを感じ、それきりクマドは意識を失ったのである。
「目覚めたか、クマド」
目を開けると、横たえられた寝床の傍にたまが。瞼を開けることで返事とし、床の中で軽く四肢を動かしてみる。手も足も楽に動いた。どうやらあれも蟲の影響で、凍傷などではないらしい。
「無理をするなと言ったのに、と、お嬢さんがご立腹でな。動けるようになるまでここに留め置けと仰せだ」
「…すぐでも動ける」
「そのようだの。だが、そう急かずに暫しこの部屋で待っておれ」
たまが部屋を出ていくと、唐突に隣室の話し声が聞こえてきた。多分、間の障子を開け放ったのだろう。聞こえる話の内容は、蟲師の語る蟲退治の話であるらしく、相槌程度の淡幽の声も時々聞こえる。
知らぬ蟲の話だった。つまり、狩房の家の記録にはないということだ。とすれば、この語りはこの後、淡幽の手によって書へと綴られるのだろう。蟲師の語りはやがて止み、たまが男を伴って、地下へと下りて行ったようである。
人の話し声はぴたりと止んだ。だが、やがてまた「声」は聞こえてきた。呻きであった。苦しげな、浅い息遣いも。どちらも女のものだった。見れば閉じた襖には、一寸ばかりの隙間が開いていた。見ろ、と言わんばかりに思えたが、そう思えなくとも、クマドは無意識にそこへと目を当てていた。
これは。
と、思った。見たのは初めてだった。蟲師から集めた蟲退治の話を、淡幽が一つ一つ紙に記す。それが彼女自身の身に封じられた、禁種の蟲を弑す、只今唯一の方法だとは聞いていたが、それが、これなのか。
小さな。クマドから見ればすぐにも消えてしまいそうに小さな体で、淡幽は文机に縋り付いていた。否、縋るようにして、彼女は広げた巻物の上を指でなぞっている。青白いほどの彼女の素肌。見えているそのすべてに、墨で書いたような、無数の文字が這っている。ずるずる、ずるずると音を立てそうに…。
まるで、蟲そのものが、彼女の柔肌を削りながら、そこを這いずっているように見えた。
淡幽が、うぅ、と呻く。裸足の足指が、ぎゅぅ、と縮こまり、痩せた彼女の顎からは、ぽたぽたといくらでも汗が滴った。苦痛で一瞬止まった指先が、がくがくと震えるのを無理にでも抑えて、また紙をなぞる。蟲師の話は長かった。語られた蟲退治は、酷く複雑で長きに渡り、そのどこを省略するも出来ぬ内容だった。
彼女の縋り付く机の横に、用意された巻物は二巻。たった今綴っているものと合わせて三巻だ。淡幽のなぞる指は、酷く遅い。じりじり、じりじりと、身のうちを、身の外を苦痛にさらしながら。長い時間を苦しんで。やがて淡幽の体が広げた三巻目の上にがくりと伏せた。
「お嬢さん」
いつの間にか部屋の隅に坐していたたまが、膝で彼女に寄って、その体を支えて起こす。そうしてその指を無理にでも紙の上に。
「た、…まっ」
「途中で止めては蟲が勢いを増します。さ、もう暫し」
「…うん、わかってる。ありがとう」
青白さを通り越して、淡幽の顔は既に真っ青。全身の汗で着物は肌に纏い付き、きちりと座ることもままならないほどの疲労。なのに、続けるのだ。休むことも許されず。そう、彼女自身が、そんな休息を己自身に許していない。
「…お嬢さん、クマドは目を覚ましましたよ」
こんな時だというに、たまがそう言った。こんな時だというのに、淡幽は笑う。
「……そう。よかった」
ならば自分も、と。負けぬ、と。支えを身振りで断って、彼女は続けた。激しい痛みを伴う行為を、弱音を吐かず、強く、強く、けれど淡々と。
やがて、仕事を終えた淡幽が気を失うように倒れ、たまは慣れたようにその場へと床を延べた。見てはならぬ気がしてクマドは視線を逸らし、音を立てぬように襖を閉めた。やがて現れたたまが、いつも通りの声音で言う。目が少し赤いのは、気のせいではないのだろう。
「クマド、もう動けるだろうが、お嬢さんが」
「はい」
「お前の顔を見たいと仰せでな」
「…はい」
もしかしたら、あの実のことを聞きたいのかもしれない。クマドはそう思いながら頷いて、それが納められている筈の胸元へ手を這わせる。けれど、そこにそれは、無かった。
続
淡幽さんて、そんなに書いたことないんで今回少し難しかったですー。でも強くて素敵な女性だと思うんです。厳しくて優しくて強い。今回、クマドが見たのは、たまのたくらみか、それとも淡幽のか、それともどっちでもないのか? とにかく、今回のことでクマドがどう変わるかが気になりますねっ。
というわけで、年内最後の更新になるかと思いますっ。年越しの時間帯と年明け後には「年の瀬」っつー小説を書きます。1日のうちに書き上げたいですねー。
12/12/31

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