変わらぬ変容   5




 クマドは返事もせず、淡々と見ているだけでいた。そろそろ夜が明けて、明かりとりの小窓から日が差し込んでいる。それを見て取ったように、灯っていた蝋燭が丁度燃え尽きて消えた。じ、と鳴った微かな音に、びく、とイサザが震えたのが分かる。

 本意ではないだろうに、おかしな男だ。そもそも金を払う気がなかったなら、ここへ何をしに来たのか。唐突に、もう忘れかけていた夕べのことを思い出す。クマドの記憶は新しいものも、深い黒い淵に浮いたり沈んだりする。浮いてきたのはイサザの声。

 俺、あんたに会いたかった。

 引き結んでいた唇が微かに動いた。初めて見たような気になりながら、クマドはイサザを見る。

「…わかった。その支払い、受けよう」
「へぇ、俺でも支払いの代わりになるかい?」

 確かめるようにそう聞くと、クマドは無言で顎を引いた。女を抱くより、マシだと思ったのだ。雄である以上必要なことと、時折金で買う女を、いいものだと思ったことはなかった。変に柔らかい女の体は好きではない。あの生ぬるい肌など、どうとも思わないし、姿になぞは、もっと興味がない。

 商売で身を売る女は皆、金を渡した途端にべったりと身を絡めてきて、無反応のクマドに、やがては勝手に興冷めして、嫌々奉仕して去っていくだけだ。それくらいなら、金を払う代わりだと、そう割り切ったこの男の方が余程。

 そう思って目をやれば、イサザは何故かあざやかに笑っていた。男を相手に全裸を曝しているというのに、およそ似合わぬ笑みだった。

「じゃあさ、その脚、崩しなよ。そんなきちっと座ってなんかいねぇでさ。そんでちょっとじっとしてなよ」

 這って近寄ったイサザを、クマドは拒否しなかった。膝に触れられ、肩を押して姿勢を崩され、崩れた脚の間のものを、着ている着物の数枚越しに握られる。何処か嬉しげな顔でイサザは言った。

「あ、あんた今一瞬、昔みてぇな顔したよ。昔、むかし、さ。あぁ、覚えてねぇよなぁ、あんなこと」

 そうやって、またこの男は不思議なことを言う。クマドが忘れ去った過去の切れ端を、大事なもののように、ちらちらと惜しがりつつ見せる。忘れた過去を知るものに会うのは、いつも奇妙な心地がする。とうの昔に死んだ己を見せられるようで、取り戻せないものを、ちらつかされるようで、苛立ち、心が波打つ。

 淡々と見ていると、取り出したものに、イサザは躊躇いなく唇を触れていた。なんの変哲もないようでいて、随分上等なクマドの着物の、腰の帯はそのまま、その下だけを左右に開いて、下帯は強引に緩め、掴み出し。

 それからイサザは返事を欲しがるふうではなく、ただただ楽しそうに時折呟いた。

 いいよ、別に、気にしなくて。
 気持ちいいとか、わざわざ言わなくてもさ。
 だって、分かるし。
 なんとなくだけどさ。

 イサザの目が、ずっと嬉しそうに笑っている。じくじくと膿むような鈍い熱さが、そこを中心に広がっていく気がした。気持ちいいだとか、そんな感情は知らない。ただ、熱く。熱く。

「ん、ぅん…っ」

 随分長い時間が過ぎて、やがてはイサザが苦しそうに呻く。口をそれで塞いだままの嗚咽だ。薄っすらとだけ開いていた目を、一瞬大きく見開き、それから少し辛そうに、きつく目を閉じて喉を鳴らす。飲み下す音が数回。

 そしてイサザは濡らした手のひらを己の後穴へ這わせ、熱に浮かされたような目をして、広げた体に、クマドを受け入れたのである。軽く放っても、まだ萎えていなかったクマドのそれへ手を添え、慣れた仕草で上に覆い被さり…。

 朝だと言うのに、まるで濃い闇の中に居るような行為だった。それでいて、明けの明るさを邪魔にはしない。明るさを苦にせず、反応が淡いのを責めもせず、延々と奉仕するのを恥もせず。寧ろ何かが、嬉しいように。



「あんた、別に俺のこと欲しくなかったろ」

 多分、長くとも半刻の後。行為を終えて、クマドの上に身を倒したままでイサザはそう言った。僅かに汗ばんだ肌を、する、と撫でてから身を起こし、真っ直ぐに見下ろして。

「俺が張ってる意地に、付き合わなくてよかったのにさ。けど、本音言うと俺、嬉しかったんだ。あんたがちゃんと俺の相手してくれて。それに、やっとあの時の礼を言う機会が出来て」

 覚えてないんなら、それでもいいんだ。
 ただの自己満足ってヤツだから。

「あんたの名前、クマドっていうんだろ? 俺、すっごく昔に、あんたからそれ聞いたんだ。その頃あんた、蟲が見えないって言ってたよ。それで俺は俺の好きな面白い蟲のこと、あんたに教えたんだよな、苔童子って名前の蟲さ」

 覚えてないだろ? 覚えてないよな?

「それから、次に会った時、コゴリドロに絡め取られた俺の事、あんたが助けてくれたんだよ。凄く感謝してるんだ。あれは二年くらい前のことだけど」

 それも覚えてないんだろ?
 あんた、きっと色んなことを、
 忘れながら生きてるんだよな。

「昨日もありがとう。具合悪くしてた餓鬼は、あの薬でみるみるよくなったんだぜ」

 代金は…その、
 そんな簡単には払い切れないねぇけどさ

 囁くような語りを、合間合間に混ぜながら、イサザは一人で話している。今は自分がワタリの長だということ、去年亡くなった長から前に、薬袋家のことを少し聞いたのだと。

 何を聞いたのか、想像は出来る。例え門外不出の事柄であろうと、年老いたワタリの長ならば、どこからか事実に触れて、知ってもいよう。下種な噂などで聞くのではなく、本当のことを、分かっていてイサザに話したのだろう。

 イサザは小さく首を傾げて、クマドの顔を見て言った。

「俺、自分の記憶が大事だよ。失くしたくないよ。覚えてないだろうけど、あん時、あんた俺にそう聞いた。忘れたくないのか、って。今のはそれの返事だ。俺もあんたに聞いていいかい? あんたは記憶を得るたび、いつもいつも、それを端から失くし続けていたいのかい…?」

 そうしなきゃ、辛いのかい? 
 寧ろ、そうすることが辛くないのか?
 俺は辛いよ。あんたが俺を忘れるのが。
 辛いんだよ、とても、辛く思えるんだよ。

 不思議だな…。




 クマドはゆっくりと目を閉じた。二つ目のまぶたを、きっちりと隙間なく。すぐに闇が訪れて、いつもと同じ棘の道の中に落ちていく。けれど今日は、常に闇しかない筈のそこを、どこからか差す光が照らしているように思った。

 追い求めるのは禁種の蟲のみ。それ以外はいらぬ記憶。抱えていれば邪魔なばかり。失うも惜しくはない。一度、魂を喰われるごとそれも食われる。でも、出来る事ならば、あの闇色の蟲に喰らわれて消されるよりも、それとは関わりのない、別の蟲にでも、喰らわせて終いとしたいのだ。

 あんな蟲の腹に収めるよりは、俺がこれと自分で決めた場所へと、それらを捨てて埋めたいのだ。それが、せめてもの…。

 あぁ、ごうごうと、いつもの蟲の声無き声。闇を徘徊するものどもの息遣い。それへ埋められ隠されるようにして、別種の、轟、と轟く音がする。あれは。あれは、光脈の音だろうか。

 金色の美しい川。 
 闇とは真逆の、命の川よ。












 棘の道でクマドが己の魂を放とうと、新しい魂を入れられた時に、記憶までは消されていない。そうなんですけど、このクマドは、そのようには思っていないようです。寧ろ記憶そのものごと、ごっそりと損なうように思っているようです。

 ややこしい話だーーー。てゆか、クマドがややこしいー。

 だけどさ、仮に自分の好きな人が、全ての記憶ごと失くしてもいい、むしろ失くしたいなんて思っていると知ったら、普通に辛いと思うのです。人は心と体で出来ていて、心は感情と記憶で出来ているのではないかしら。

 その感情と記憶とは、複雑に絡み合っていてこそ貴いように思えるのですよ。


12/12/03





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