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変わらぬ変容   4




 目を閉じる。二つ目の瞼も、同時に。

 クマドにとっては一つ目も二つ目も常には同化したようなもの。彼の目に映るものは現の世の姿と、もう一つは黒い闇のみだった。そこで、ごう、と音鳴らすものがある。大量の水が漲り流れる音のようでいて、それはあまりに異なるものだ。それは巨大な洞を通り抜けていく、声無きものの放つ声。

 黒い黒い闇を見ていると、それへほんの僅かの濃淡が現れる。濃い闇は闇、淡い闇はただ闇のまねごとをするかのような、黒い蟲の群だった。見ていると、黒い蟲どもは、どこからか現れた色の無い別の蟲に押し包まれて、じわじわと食い潰されて消えていった。

 残ったのはやはり、様々な蟲たちの群。ごうごうと声無き声を放ちながら、地下から現へ流れ出る蟲たち。その流れの中に居て、クマドの身は僅かも動かず、地下へも、現へも行けずにとどまっていた。
 
 クマドの中の蟲が言う。
 ここが故郷だ。懐かしい故郷…。


 
 朝が来ていたが、相変わらず眠りは眠りのようには思われなかった。ただ目を閉じて、夢なのか思考なのか分からないものを見続けて、目を開けて置き出す。それだけのことだ。この土地は通り縋っただけの土地で、特にするべきこともなく、一宿の代金を落とすだけで後にすることになる。

 ふと、クマドの目が木箱の方へと逸れた。蓋がきちりと閉まらずに少し箱から浮いている。引き寄せて確かめると、抽斗の一つが終いまで収められていないせいだった。そしてそれは中に詰めた薬包紙が、小さくはみ出している為。

 夕べ、薬か医家を求めて訪れた男がいて、持っていた薬を分けてやったのを思い出す。

 ほんの数時間前の事だと言うのに、それは遠い過去の出来事のように、色の薄れた記憶になっていた。このまま忘れ去って差し支えない、無意味な出来事。禁種の蟲どころか、珍しい蟲のことでさえなく、それゆえ、記憶に残す価値すらもないような。

 抽斗を終いまで収め、隙間なく木箱の蓋を閉じ、上着を纏って立ち上がりその木箱を背負う。支払いのための財布を懐に確かめたその時、宿の表戸が騒々しい音で打ち鳴らされたのだ。声が聞こえた。それは夕べの、あの男の声だった。

「すまないが! 戸を開けてくれ…!」

 イサザが表でじりじりと待てば、ややあって宿のものの声がする。眠っていたのを叩き起こされたのか、不機嫌で面倒臭そうで、間延びしたような。

「こんな朝早くになんだ、あんたは。騒々しい」
「夕べ、ここに泊まりのお客に世話になった者だが。ま、まだいるか? 二階の奥の…っ」
「二階? 奥? あぁ、はいはい、まだいなさいますよ」

 一番いい部屋の泊まりの客に用となると、それだけで宿の対応も変わるらしい。手のひらを返したようににこにこと案内されて、逆に居心地が悪いくらいだ。とにかくまだ居ると聞いて嬉しかった。二年もずっと会いたいと思っていた相手だ。これでちゃんと礼が言える。

 夕べと同じように二階へ案内されたが、宿のものはクマドのいる部屋の前で膝を付いた。腰を低くして恭しく声を掛ける様子に、イサザはどうしていいか分からなくなりそうだった。夕べの下男はこんなじゃなかったが、それはクマドの払う宿代を知らなかったからだ。

「お早うございます、宿の店主でございますが。薬袋様、こちら、お連れ様でしょうか。夕べお世話になったとおっしゃる方が」

 え、何言ってんだ、別に連れなんかじゃない。口を挟みたくなるような口上に幾分焦りながら、イサザはクマドの返事を待つ。

「………通せ」

 長い沈黙の後の言葉は、拒絶ではなかった。感情というものが抜け落ちたようなその声音が、叱責とでも取れたのか、宿のものは早々に退散し、イサザだけがそこに残される。夕べの勢いとは真逆に、大人しく戸を開けると、まるで夕べのままのように、きちりと座った姿が見えた。

「あ…、あんたのくれた薬はよく効いた。助かったよ。言われた通りに飲ませたら、半刻もしないうち容体がよくなって、今はぐっすり眠ってる」

 クマドはイサザと視線も合わせず、返事さえしなかった。部屋へ入っていいかも分からず、廊下に居るままでイサザは言葉を続ける。続けるしかなかった。出来れば夕べの話だけじゃなくて、前の時の礼も言いたいと思っているのに、返事もないではどうしたらいいのか。

「それで一応、実を喰って腹を壊していない子供にも、少なめに与えてきたんだ。なぁ…その、入ってもいいか。俺、あんたともっと、話…」
「まだ話があるのか。代金を払う以外に」

 ずっと黙っていた癖に、口を開いた途端のその言葉。姿勢も表情も、一つも動かさない態度。喧嘩を売られているとしか思えなかった。イサザもまだ若すぎるくらい若く、ずっと会って礼を言いたいと思っていたせいか、その一瞬で、かっとなった。

「…いくらだよ」

 苛立って聞き返して、淡々と告げられた値は、生まれてこの方、見たこともなく、耳にしたこともないような。薬袋の若様。年は殆ど変わらなくても、住む世界は違うとでも? 馴れ馴れしくされても迷惑だ。そういうことなのかと、イサザは唇を噛む。

 昔はあんなにおどおどしてた癖に。
 蟲も見えないのだと言っていた癖に!

 なら、もっとだ。自分からもっと堕ちてやるよ。軽蔑するんならすりゃぁいい。それだって、俺があんたに感謝してる気持ちは変わらないんだから。ずっと会いたくて、会えて嬉しかった気持ちまで、穢されたりはしやしないんだから。

「払うさ。でも悪いけど、いっぺんには無理だから。何度かに分けて受け取ってくれるかい『薬袋の旦那』」
 
 ずかずかと部屋へ上がり込んで、後ろ手に戸を閉めると、イサザは潔いほど手早く脱いだ。そんなつもりで来たわけじゃないが、心積もりがなくたって、このくらいのことは平気で出来る。生きるためや目的の為に、己が体を使うのを恥じる生き方はしていない。

「…なんのつもりだ」
「なんの、って。分からないってことはないだろ。払えって言ったあんたが断るとかねぇよな?」

 イサザは上の服を脱ぎ終えて、躊躇いなく下も脱ぎ捨てる。見る間に全裸になって、坐したままのクマドを見下ろした。痩せてはいるが、均等に肉のついた若い体だ。醜い肢体などではない。そのくらいの自負はある。

 目を逸らさずに見ているこの男は、それでも僅かばかり、驚いた顔をしているだろうか。初めて表情を変えさせたのなら、それだけでも満足だと、イサザはそう思っていた。



 クマドの中で、ごう、と蟲の声が鳴っている。
 何かを熱いと思うのも、蟲による何がしかなのだろう。

 ざわついているのはあくまで体内の蟲なのだ。揺らぐような魂など、心など、根こそぎ喰われたあの日を境に消し去られて、塵さえも残っていない。揺らぐ心をとどめておく器にすらならぬ、抜け殻のような、この身なのだ。

 そうだ、極端に薄まって色彩や温度を失くし、積み重なっているだけの記憶のどこかに、この男のことも埋もれて顧みられはしないのだろう。

 例え、この肌に触れようとも、何を語られようとも。







 ええと、チャット中にちらっと進めたので、何か影響を受けた気がしなくもないですな。それもまた楽しいような気がする。お題ノベルを書かせて頂いた惰性で、このままこっちの続きも書いてしまってました。

 絵茶に参加の皆さま、そのことも重ねまして、いろいろ失礼致しました。とても楽しかったです。

 作中のクマドもイサザも楽しそうではないね。ちったぁ楽しくなれや! な! 時間切れで少々短いです。すまん。



12/11/23