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変わらぬ変容 3
彼は高い枝の上に立ち、自分の胴の倍もの太さの幹に寄り掛かって、じっと目を閉じていた。
両手をその幹に添えて半身を捩じり、耳を木の肌に軽く付けている。微かな音が聞こえていた。これはこのブナの木が聞いている音だ。葉の受けた風鳴り。枝先で囀る鳥の声。根の這う大地に響いている様々な音。そしてイサザは、外界の音を聞いているその耳を「閉ざす」。
ゆっくりと閉じていくと、まるで水の中に潜って行くかのように、今まで聞こえていた音の全ては遠ざかり、やがては異質な音が聞こえてくる。これは蟲たちの声だ。蟲はヒトよりも敏感に、光脈の流れを感じ取る。ちっとざわめいてるか? どうだかな。
そして、イサザが二つ目の瞼を下ろすと、真下の地下を流れる金色の光が、ごう、と。
あぁ、そうか…
もう少し先かい…
でも、そろそろなんだな…
こうして見るもの、聞くものが、当たるかどうかは五分。だからイサザは聞こえた音だけを信用して、ワタリの群を動かすことはしない。慣例通りに霧の色が変わるのを待つ。
「長は…っ?」
ずっと下の地面で、仲間の一人の声がした。
「あぁ? なんだいまたどっか行っちまってんのか、しょうもねぇなぁ、うちらの長は。ま、待ってようぜ。新しい長も、やっぱし光脈を読むのがうまいしな」
当たり前だ。これが他より下手で選ばれるわけがない。にしても、長、なんて呼び名はまだ重い。呼ぶなというのにあいつら。イサザは何気なく、幹についたままの己が手を眺めた。若くはあるが、もういっぱしの大人の手だ。二年前とは違っている。
もうあれから二年も経って、一度もあいつに会えていなかった。どれだけ経とうと、あの時は助かった、と礼を言うつもりでいる。それから出来るなら、もっと小さい餓鬼のころ、会ったことがあるのを覚えているか、と。
それを言えなければ、クマドとイサザは、ただの「薬袋の若当主」と「ワタリの若い長」でしかないのだ。それでは嫌だ。何故嫌なのか分からないが、詰まらない、と、まだ子供のように思っているイサザが居た。
「あーっ、長!」
いきなり真下からそう呼ばれ、イサザは軽く肩をすくめた。
「そこにいたなら、さっき返事してくれよぉ、探してたのに!」
探してたか? そうだったか? 待ってようぜと言ってたくせに。
「長、長、って言うから、俺の事とはぴんと来なくてな。取り敢えず、このままもう一泊ここに留まる。霧も明日は出そうにないから。皆、喰いもんは足りてるか? 水は? ここのヌシは穏やかだが」
「あぁ、余るようにはとらねぇさ」
言わずとも、皆が心得ていることだ。蟲が見えようと、光脈の存在を理解して居ようと、ワタリもまた、理に従いヌシに敬意を払って、山に居させてもらう側。
イサザは自らがゆっくりと周囲を見まわしながら歩いて、今と同じように告げてゆきながら、仲間たちの端まで行き着くと、そこから少し奥へと入って、葉の生い茂った大木の根方に腰を下ろす。すぐ脇は視野がすとんと下へ抜けていて、そこは谷になっている。霧が発生しやすく、その流れがよく見える場所だ。
彼はその夜も横にならずに其処へと眠り、谷を渡る緩やかな空気の気配を感じていた。
そして空が明るくなる頃、思いもよらずに見たのだ。金色の霧がじわりと生み出される様と、その中に一人佇む男の姿。金に淡く光る霧の中、そこへとひとつ落とした黒い石のように、身じろぎせずにいる、その姿は。
目を閉じている。
口を引き結んでいる。
墨色に見える濃い色の着物を着て、
木箱を背に負い、
じわとも身じろぎせず。
まるで、彼が、その金色の霧を生み出しているようだ。そんなことがある筈がないが、あまりの動じなさが、そう見せる。イサザはそれへ見惚れていて、やがては光脈のあの音を聞いた。そして谷を覆い尽くす金の霧が、光脈自体の流れに見えた。
イサザは立ち上がることも出来ず、ただ僅かばかり谷の方へ身を乗り出して、その光景を見ているのだ。金色はだんだんと濃くなり、眩しいほどに思え、そこにいる、クマドの姿が飲まれてしまいそうになる。
嘘だろう。飲まれちまうよ。あの金色も、記憶を喰うのだったか。だからあんたはまた故意にそこにいるのか? それともあんたは、元々が人ではなく、心も記憶も持たぬ光脈の一部なのか。それだったら、俺なんか、手も触れられねぇ。
そうなのか? あんたは、そうなのかよ…。
「おさっ。長…っ。おい、イサザっ」
あの日のように、イサザはまた名前を呼ばれて目を覚ました。また夢だったのだ。夢であいつに会うのは二度目だ。
「おいおい、起こされるまで寝てるなんて、長らしくねぇぞ」
面白がるように言われて、イサザはぼんやりと視線を向け、ワタリの仲間のその男に問うていた。
「光脈の流れに入ると、人は記憶を失くすんだったか…?」
「あ? そりゃ虚穴じゃねぇの? 光脈見過ぎて目玉取られるとかは聞いたことあっけどなぁ」
「はは、そう、だよな…」
しっかりしてくれよぉ、などと言われながら、イサザは谷の方へと視線を向ける。金色の霧を見たのは夢だったらしい。わずかばかり揺れているのは、ただの白い霧。微かに灰がかっている程度だろうか。
その日、ワタリの仲間の子供が酷い腹痛を起こした。綺麗な色をした木の実をいくつか、興味本位で取って食べたと言う。一つ二つ喰った十余りの子は平気だったが、十二、三も食べたという、もっと幼い子供の痛がり方が酷い。息は浅く、何度も戻して。
その大きい方の子供の頭を派手にガツンと殴ってから、イサザは急ぎ里へと下りた。腹痛や下しの薬はあるが、それでいいのかどうか酷く不安だ。痛がるままに様子を見るのも可哀想だった。食べたという実を懐に持って、医家か薬師を探す。
探し始めてすぐ、ある宿屋の下男らしき男がイサザを呼び止めた。
「兄さん、薬屋探してんなら、うちの宿にらしいのがいるよ! ひとつ相談してみちゃあ?」
勿論それへと飛び付いて、案内されて割といい宿の二階へと。下男は閉じた戸の中へと言った。
「先生、薬が欲しい人がいるんだが、話を聞いてはもら」
「…生憎、医家でも薬師でもない」
低い籠った声が淡々とそう言った。違ったか、と落胆するイサザを見て、下男は駄目で元々ともう一度声を掛けた。
「けどよ、旦那さん、背負ってたでっかい木の箱は、薬を入れてなさるんじゃぁ」
背負った、箱。聞いた途端にイサザの体は、当人の意思が追いつく前に動いていた。閉ざされて開く様子の無い戸を、勢いよく開いたのである。ぱん、っと小気味のいい音がして、部屋の中には、クマドが静かに坐していた。
「やっぱりあんただ」
「医家ではない」
「そうじゃない、俺があんたに会いたかったんだよ。でも今は、医家か薬師が急ぎなんだ。まだこの宿にいるのかい」
急いた言葉でそう聞けば、それへの答えよりも別の答えが返ってきた。
「何の薬が欲しい」
「…この実を食べて、小さい子供が腹を痛がってるんだ。随分吐いてもいる。二粒程度食べた十のガキは何でもないんだよ」
「なら、その実に付く蟲のせいだろう。これを磨り潰して温い湯で飲ませろ」
立ち上がりもせず、傍らの木箱の抽斗を一つ開け、取り出した薬包紙を一つ差し出す。イサザは手を伸べ、膝をついて受け取り、間近から、はた、と彼を見た。
「助かる。本当に恩に着る。あんたに助けられるのは二度目だ」
俺を覚えてるか? と、聞きたかった。それよりももっと前の記憶は、まだあんたの中にあるのか、とも。けれどそれを聞いている暇はなく、精一杯の気持ちを込めて、イサザは首を折るように頭を下げ、山へと駆け戻って行くのだった。
続
クマイサって、そんなに書いたことなかったんだよね、私。現代ものを別にすると、殆ど経験がないことに気付いて焦ってます。イサザかクマドに感じる複雑な感覚、クマドが自身の記憶や心に関して思う、表現のしにくい「もやもや」(←なんと言っていいやら〜)を、書けるのか惑さんっ。
いつも言ってますが、頑張るわー。あぁ、今日はポッキーの日ですってね。関係ないwwww
12/11/11
