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変わらぬ変容   1




 山間に、どんよりと空気が重い。この重さは、と思い出しかけていた時に、集まれと声が掛かった。どことも言わず自然に一つに集まり、中央に坐した長の低い声を聞く。

「"コゴリドロ"の小さいのを一匹、見たものがある。次の雨までは、西の沢伝いの道は通らぬよう」

 たったそれだけのことだったが、そうと言わぬでもこの話は、山を通るもの皆に、ワタリとして伝える責を負う。別の話を聞きに来るものがあれば、そのものにも必ず伝えねばならない。

 イサザも一つ頷くと、先に大人たち合間を擦り抜けて、もっとも人の通りが多い山道の分かれ道を目指して下りた。急ぎそこへと降りるのは、多少無茶な場所も通ったが、より難儀な場所を受け持つのは若い者の勤めだ。

 二股を右へ行くと、山向こうの里までかなり大回りだが緩い道、左へ行くと件の沢伝いの西である。二人連れでゆるゆる歩く、呑気な旅人を見掛け、声を掛ける。

「おじさん達、この先の沢伝いは今、通れないよ。向こうへ回っていってくれ」
「えぇ? おいおい、そっちったら倍以上も歩かにゃならんじゃないか。何だいお前さん、俺らぁいつもこっち通ってんだ、何がどうして通れないって」

 振り向いた顔がイサザの姿を見て、あからさまに嫌そうに歪む。何を餓鬼がわからんことを、と、そう思っているのも透けている。見れば二人とも、背中に背負うのは似た作りの木箱。蟲師なのだ。ならば話は速い、とイサザは理由を告げた。

「俺はワタリだ。コゴリドロを見たっていう話があるからだよ、あんたら蟲師なら、意味が分かんだろ」
「え、コゴリドロ? そりゃ群んなってたって話か?」
「いや、一匹だそうだけど」

 言うとその二人は鼻で笑った。こんな広い山の中、コゴリドロの一匹がうろついていたって、遭遇する可能性は限りなく低い。そんなことで三倍もの道のりを、しかも水も汲めない方の道を選ぶ気はないと言うのである。

「…いいけど、伝えたよ、俺」

 伝えるところまでが一応の責だ、その後は知らない。例えこの蟲師らがコゴリドロに捕まったって、被害が里に及ぶで無し、ましてや光脈に障りがあるで無し。でも折角の助言を、鼻で笑われるのが気分のいいことである筈はない。

 蟲師のくせして、連れ立ってだらだらと…。
 食われっちまえばいいんだ、こんな奴ら。

 二人連れはまた、だらだらとした足取りで、何か話をしながら歩いていく。声高なその内容が、イサザの耳にも届いた。


 聞いたか、薬袋本家の蟲師様様が、
 ここらを御通りになるてぇ話。
 それが代替わりしたばっかりの、
 若い御当主様様でよ。

  なんだよ、さっきのコゴリドロ云々て話も
  もしかしてお偉い蟲師様が通るから
  俺ら名もねぇ下っ端は、楽な道は通るな、とか。


 馬鹿か、と、イサザは思っていた。薬袋の名は確かに知ってるけど、どれだけそいつが偉くたって、山や蟲や光脈の情報を、そいつらの為に偽って伝えたりなぞしやしない。そんなのはワタリの主義に反するし、イサザだって真っ平だ。男らの話はまだ続いている。


 それでな、その当主、
 どうも蟲が見られねぇ体質だったって。

  あぁ? 蟲が見えねぇで薬袋の当主ぅ?

 知らねぇか?
 薬袋家には昔っから怪しげな…。


 そこまで聞こえた声は、とうとう遠ざかって聞こえなくなった。イサザは二股道の見える場所で、丁度いい頃合いの岩に腰を下ろす。さっきも思ったことだが、薬袋家の名前は知っていた。蟲師を生業とする、もっとも古くもっとも大きく力ある家柄。そしてその薬袋家の家のもので、蟲の見えないヤツを一人、イサザは知っているのだ。

 名前、なんてったっけな、あいつ。どこか気が弱そうで、おどおどしたヤツだったよな。今思えば、あれは薬袋の家だったのかも知れない。だからその庭にあいつがいたのかも。

 見えないなら仕方ないのだが、蟲の群が通っているところを踏んづけて、その子供がぼうっと立っていて、イサザはそれを無遠慮に咎めたのだ。

 なぁ、お前っ、
 ここんちのもんなら見えてんだろ…っ。
 そこ、足退かせろよ!

 そんなことを言われたのに、そいつは怒らなかった。だからそのあと、少し話をしたような記憶が、ぼんやりとだけ残っている。でもまさか、そいつが当主じゃないだろう。だって、あんな頼りなげな。

 ピィーーーーーィ イ ィ 

 と、その時、長く鋭い音がした。ヒヨドリの声にも似ているが、そうじゃないのは分かっている。イサザはあたりを見回して、細長くて少し硬い草の葉を一本毟り、それを口に当てて鳴らす。

 ピィ ピィー ィ ィ ィ

 少し離れたところから、また、ほぼ同様の音が聞こえた。これはワタリらの「知らせ」だ。声の届かぬ場所に居る相手に呼びかける方法。何の知らせかはその都度違っている。今、こうして聞こえたということは、コゴリドロについてだと分かる。また誰かがその蟲を見たのだろう。つまりは、危険度が増したのだ。

 通りがかった旅人に、イサザはさっきも二人連れに告げた言葉を繰り返す。そしてさらにそこに付け加えた。右の回り道を行く場合も、昼のうちに里へと抜ける事。山中での野宿はしないように、と。

 そして日の暮れる頃になって、イサザはやっとその二股道から離れた。この時間になれば、わざわざ山越えをしようというものはいない。

 …いない筈だった。だが、イサザは山頂付近に集まる仲間の元へと急ぐ途中で見たのである。それは、思わず背中がそそけだつような光景だった。



 道も無いような、生い茂る木々の間。暮れ時で既に闇の滲むその空間に、広く、濃い泥の色に漂っている「モノ」。そこに見えるのは、イサザの肩くらいの高さから、その上へ、彼の身の丈までが、入ってしまうほどの厚みで、何か黒くこごったものが、空中に漂っている様子である。

 もしもそれだけなら、驚き、危険だと思いはしても、背中がそそけだつまでのことではない。さっきのように、仲間に危険を知らせながら離れるだけの事だ。

 だが、イサザの視線の先、そこにじっと立っている男がいる。しかも、その男の肩から上は、どんよりと黒い色した「コゴリドロ」の中に、すっぽりと埋められていたのである。

「な…っ、何してんだよ、あんた…っ!」

 見えてないのか。いや、例え見えていなくとも、ここまで濃くて巨大なコゴリドロの澱みの中に、口や鼻を絡め取られていたら、息だって相当しにくい筈だ。

 イサザは枝や草を払いながらそこへと駆け寄り、両手をコゴリドロの中に突っ込むようにして、それを払おうとした。まだ小さなコゴリドロならば、手で千切るように散らして追い払うことが可能だからだ。しかしここまで巨大に成長した上、こうも群れていたら、近付き踏み入るのも本当は危険だ。

「おいっ、じっとしてんなよ、あんたも…ッ。う、わ…っ」

 上ばかり気にしていたイサザの足に、草に紛れるようにして漂っていたコゴリドロの別の塊が絡み付く。足を取られて転んで、四肢の動きがいったん止まると、振り回していた腕にも濁った泥のようなその蟲が…っ。

「あ、ぁ…草、笛……」

 焦って見回す目に、鳴らせる草の葉が映らない。助けも呼べない。もう、動けない。

 馬鹿をしたと、イサザは遠くなりかかる心で思った。彼が助けようとした男は、最初に彼が見たのと同じ場所に突っ立ったままでびくりとも動いていない。

「い、やだ…、忘れ、たく…な…」

 視野が滲むほどの思いの中、それまで少しも動かなかった、男の体が動くのを見た気がした。体の大きな、その姿。背中にあるのは蟲師の木箱。

「わすれたく、ない、か」

 男は言った。確かにそう言って、そうしてイサザは、小さく一度、頷いた。





 
 

 

 前から予定はしていましたが、何だか突然書き始めた感たっぷりの「変わらぬ変容」です。まだ名前片方出てませんが、クマイサですねぇ。クマイサと光脈の話、っていう感じでしょうか。いえ、まだ、見きりすらしていない発車、ですか。

 どうなるかわかりません。頑張ります。あまり長く書かない予定は未定wwww いや、でも、短め連載月刊…にしたい…よ?

 応援よろしくお願いしますっ。



12/10/28