紅 天 蓋 クレナイ テンガイ 3
その後も、毎晩、毎晩。新しい枝を何処からか探し出して運んできて、男の為に、男を目覚めさせていてくれる蟲のために、疲れ切っても、毎晩、毎晩…秋が終わるまで、毎晩、毎晩…。
あぁ、あぁ、あなた
今日も紅葉が見えますか。
あぁ、見えるよ。
けれどお前のことも心配だ。
この頃、ずっと顔を見せてくれない。
この頃、随分声がかすれて、
とても疲れているようで…。
あなた あなた
心配なんぞしないで下さい。
私も貴方に憑いた蟲のようなもの。
貴方が生きてて下されば、
私も生きていられるのです。
今宵の紅葉も美しい。
今宵の月も美しい。
あなたが声を聞かせてくださる。
それだけで、
それだけで…
私は…
男は思った。風もないのに今宵は随分と紅葉が揺れている。枝が揺れるとどうしてか、娘の声も震えて聞こえる。まるで、紅葉と話をしているような気もしてくる。そんな思いを判ったように、娘はぽつりとこう言った。
私はあなたのための紅葉でありたい。
男も言った。本心からの言葉だった。叶えられないと判っていても…。
それなら俺は蟲になりたいよ。
そうして、次の晩、娘はこなかった。その次の晩も来なかった。娘がこないので月が出て男が目を覚ましても、蟲がざわついて段々弱っていっても、円窓から紅葉の枝は見えない。本当はもう、根元から腐って折れてしまった紅葉の枝が、そこから見えるはずがなかった。
紅葉は一体、何故ないのか。娘が一体、どうしてしまったのか、男に教えてくれるものはなかった。だから男は蟲に願った。月に願った。
自分はもうどうなってもいい。
どうか娘に会わせてくれ。
娘の傍へいかせてくれ。
目を閉じると、見える闇の中に、花開くように紅い紅葉が一面…。枝の向こうにちらりと見えた娘は、笑って…笑っている。嬉しそうに。
* ** ***** ** *
「どう、なされた…?」
びくり、とギンコの体が震えた。ひいやり冷たい寺の床に座り、湯気の細く揺らぐ湯のみの茶碗を前にして、僧侶は言い伝えを語り終えている。
「悲しい…不思議な言い伝えでしょう。共に伝えられるその唄と、病の男とその妻とが、どんな繋がりがあるのかは、判らないのですよ…」
僧侶の話は終わったが、聞かされたその話と、ギンコの知った過去とは重ならなかった。
「……あぁ、そう…。悲しい、話だ」
だから、ギンコの声は震えていた。僧侶に聞いたのは、病に倒れ、ある家の離れに閉じ込められてしまった男と、その男のために、ずっと看病を続け、そのせいで男よりも先に死んでしまった可哀想な妻の話。
男は娘を追うように、あの井戸に身を投げて死んだのだ、と、僧侶は静かに語り終え、どこかへ向けて、無言で手を合わせた。
蟲のことなど話のどこにもない。真っ赤な紅葉のことすらなかった。それでもギンコは、語り始められた途端に、脳裏に広がった悲しい二人の物語を…その惨い終わりまでを知ったのだ。
堪らなかった。愛する相手と添いたいと、ただそれだけの願いが、どうして叶えられないのだろうか、と、止まない痛みが胸を刺す。目を閉じて、項垂れて、声もなく頭を下げると、ギンコはその寺を後にした。
そうして彼の足は、自然とあの井戸へ向いている。ふらふらと歩くギンコの意識の上に、まるで耳元で唄われるように、あの言葉が。
真黒な闇に 落ちている …
口から 見下ろし探さねど それらは夢で …
井戸まで辿り着くと、ギンコはそこにのせられている朽ちた木の蓋に手を掛けた。変に頑丈に縄を掛けられ、その縄の端には重しの大きな石が幾つも、幾つも。
土に膝をついて、ギンコは蹲るようにしながら縄から石を外した。蓋に掛けられた縄を取り払い、その上に積もり積もった枯葉を払い落とす。枯れて土と変わらぬ色になって、そこに積もっていたのは紅葉の葉だ。
長い長い時の流れを教えるように、それらは、ほろほろ、ほろほろ崩れて、粉微塵になって風に飛ばされていく。
秋好し 冬嫌ね 井戸蓋は 紅の間境う… 月 映ゆる
蟲の気配を感じたが、それは酷くか細い。
「眠っているのか…? 起こしてもいいか? 蟲たちよ。なんなら今夜は俺が、娘の代わりに、紅葉の枝を何処からか持ってきてやるよ…」
ぽつり、ギンコは言って、ゆっくりと井戸の蓋を開いた。埃にまみれた蓋を外すと、突然、広がってゆく、幻…。紅い紅い紅葉。見上げた視野いっぱいに、目の眩むほど見事な紅色で。
お前
あぁ 俺のお前よ
ここにいたのか…
聞こえる声も、幻だったのかもしれない。
井戸の上に広がった紅葉の枝を手折ろうと、疲れ切った手を伸ばし、深い深い井戸の底へと、落ちていった娘の魂は、きっと紅葉の紅色に染みただろう。深い井戸の底の、片方きりの紅い鼻緒の草履を、男は見ただろうか。そこで童女のようにあどけなく、目を閉じている娘を、見ただろうか。
娘は目を開けて、微笑みかけたのだろうか。
はらはら、はらはらと落ちる紅色の紅葉。蟲は紅葉の代わりに、紅葉の記憶で満たされた男の心を喰らったかもしれぬ。男はそれで死んで、だけれど願いどおりに蟲になって、今、娘の元へと辿り着いたのだろう。
娘は紅葉に、男は蟲に、なったのだろうとギンコは思った。そう思いたかった。聞こえた声は幻じゃないと、信じたかった。
俺の お前よ
きれいな きれいな
俺の 紅葉よ
見上げればまだ、幻である筈の紅葉が視野いっぱいに広がっている。夜でも無いのに空は暗くて、枝と枝の隙間から、真円の月が見えた。
私はあなたのための紅葉でありたい。
私の姿越しに、あの美しい月を眺めて、
嬉しそうにしてくださる貴方が、私は嬉しい…
それなら俺は蟲になりたいよ。
そうして美しい紅色の、紅葉のお前の傍までいって、
お前を抱いて、包んでいたいよ。
そうできたら、たとえ、たとえ、
狭い、深い、寒い…井戸の底で
一生を終えるのだとしても
何一つ、悔いなどしない…
ほろほろ、ほろほろ、ギンコの涙が零れて落ちた。
「化野…」
お前に出会えて幸せだ。これ以上我が侭は言うまい。二度と会えなくなったわけじゃない。
ギンコは愛しい相手の名を呼んで、幻の紅葉と月と、とうに寿命の尽きている筈の蟲が、みんなみんな消えてしまうまで、座り込んで、井戸に寄りかかってじっとしていた。
続
酔っ払っていてすみません、惑い星です。え? アルコールじゃないんです。話に酔ってしまってるんです。秋良し 冬嫌ね 井戸蓋は …皆様、季節外れではありますが、紅い見事な紅葉の色を、ちらりとでも垣間見てくれていたら嬉しいです。
さて、次回でラストになります、と言いながら、もうラストまで書いたので、最近珍しい二話同時アップさ。ギンコさん、先生に会いに行ってね〜。
10/01/23
