紅 天 蓋 クレナイ テンガイ 4
さく さく さく
さく さく さく さく
ギンコは雪を踏み締めて歩いている。一晩で足首まで埋まるほど積もった雪は、朝の光を浴びながら、きらきら、きらきらと輝いて、それを見下ろしながら、雪に埋もれそうな自身の足を見ながら、ギンコはゆっくり、殊更にゆっくりと歩いているのだ。
さく さく さく
ギンコは思っている、一年と少し前の、あの不思議な体験のことを。
結局、誰が蟲師を呼んだのか。誰があの唄を唄い伝えたのか。とうに死んだ筈のヒトの想いが、ギンコに届いたのだろうか。それとも、もしかしたら、呼んだのは、蟲なのかもしれないと、ギンコは思う。
あぁ、もしもそうなら、今度は俺に、少しばかりの力を貸してくれやしないだろうか。
さく さく さく さく
息を白く吐きながら、ギンコは怯えたように、それでも酷く胸高鳴らせて、あの懐かしい家を見た。さらに雪の道を踏んで坂を登って、庭の方からあの縁側を見た。
藍色の着物の、片眼鏡の、構いつけもせん短い髪の、この寒い雪ん中に、裸足で草履突っ掛けて、狭い庭に真ん中に、しゃがみこんでいる姿が、とうとうギンコの、見開いた目ん中に写った。
あ…だし…
声になどならない。掠れた言葉一つ言えずに、立ち尽くす彼を、ふと顔を上げた化野が見たのだ。
「ギ…ギ…、ギンコ…っ」
手のひらにすくい上げてた雪を放り出して、化野は小さい餓鬼のようにギンコへと駆け寄った。低い垣根のその向こうにいるのを、気付いてもいずに腕を伸ばし、ぎゅう、ときつく抱き締めて、その体はガクガクと震えている。
「…お、お前だな…。本当に、お前…なんだな…。ギンコ…」
「………」
「幻じゃないな、夢じゃないな、本当にお前なんだな…っ。なんとか言ってくれ、ギンコ」
痛いほど抱きすくめられて、ギンコは化野の鼓動を聞いた。それを数えながら、ただ無防備に抱かれていた体を、ギンコは無理に化野から押し離した。目を固く閉じて、震える声で、彼は言うのだ。
「…お前を、好きだよ」
「あぁ、俺だってだ。ギンコっ」
そうやって嬉しそうに、また抱き締めてこようとするのを、ギンコは必死で後ろへ下がって逃げる。視線が世話しなく、見える限りの周囲を見回した。あの銀色の、雫の形の蟲は見当たらない。この里に、大量の蟲が湧き出た様子はなくて、ギンコは泣きたくなるほど嬉しかった。
「…お前を好きだから…俺は…」
繰り返して呟くギンコの唇からは、真っ白な息が零れていた。化野の唇からも、同じように真っ白な息が。あたりは白と言うより美しい白銀の雪の彩り。
「…うん」
化野はもう、ギンコを無理に抱き締めようとせず、その藍色の着物の、裸足に草履の、片眼鏡の、ギンコの好きなその姿で、静かに微笑んで彼の言葉を聞いていた。
「だから、これからはあんまり会えない…」
「うん。もしかして、そうなんだろうと、思って待ってた。蟲が集まっちまうからなんだって、前に言ってたのも覚えてたしな。ただ…二度と来ないなんてことないだろうって、また会えるだろうって、それだけ祈って、俺は待ってたよ、お前のこと」
化野は唐突にしゃがんで、足元の雪を手のひらにすくった。
「この雪、なぁ、お前みたいだと思ってさ。真っ白で綺麗で冷たくて、やっと掴んだと思って、大事に大事に手に包んでると、いつの間にか手の中には、なくなっちまう。…でもな」
化野は手のひらの上で、溶けていく雪に顔を寄せ、唇をその白い雪につけて笑った。鼻の頭に、ちょん、と雪の欠片が乗っかってすぐに溶けた。
「でもなぁ、ギンコ、ずっと手のひらにのせていられなくても、例えば年に一度きりしか見られなくとも、俺は雪が、大好きなんだよ」
一年と半年、会わないでいた。紅葉と紅色の蟲の幻影に、何か大切なことを教えられたから、あの日から一年待って、それから化野に会うために進路を変えて、やっとこうして会えたのだ。
「一年に一度くらい、会えるのか?」
「…いや、年に三、四回…くらいなら、多分。長居は…できねぇけど」
「そうか、そんなに会えるのか。なら、充分俺は幸せだよ、ギンコ」
無理にとは言わんが、上がって旅の話でもしてくれよ。と、化野は言う。彼はギンコに触れようとはせず、ただの親しい友人に戻ったように振舞っている。ギンコもまた何も言わず、その背中を眺めながら、化野の家の庭へと足を踏み入れた。
一瞬、ギンコの目の前を、真っ赤に美しい一枚の葉が横切っていく。驚いて足元を見回したが、白い雪の地面に紅色の葉など見当たらない。だけれど、目を閉じると、ギンコの脳裏には、あの日に見た視界に一面の紅葉の紅色が広がるのだ。
「紅の間境う、月映うる…」
「え? なんだって?」
「化野、また月見をしようか、今度は真っ赤な紅葉の下で…」
「…そりゃ嬉しいが、でも…また、俺が無茶しそうになったら、逃げといてくれ、ギンコ」
そう言って、困ったような顔をしている化野に、ギンコは言った。
「何でだ。お前こそ、俺がお前から離れんようなら、突き放してくれよな」
「…判った。肝に命じよう、お互いに」
お前に時々でも会える人生ならば、命尽きるまで、そんな生き方でも、俺は、少しも構いやしないのだ。唯一無二の相手に出会えた、この命。悔いるなどと、バチがあたるというものだな。
なぁ、そうだろう。紅もみじよ。紅の蟲よ。
真黒な闇に 落ちている こんまいこまい モノの居た
口から 見下ろし探さねど それらは夢で たわむるれ
秋好し 冬嫌ね 井戸蓋は 紅の間境う 月映ゆる
終
書き上げましたー。ちょっと昨日からドリーマーになっていましたので、ここは一気に、と思ったのです。こういうとき、書くのは楽しいんですけど、どっか間違えている気がしてならない気がしてならないんです(? どんな日本語か)まぁ、気にしない気にしないー。
そしてまたしても、唄の意味。
「真っ黒い闇の奥底に、小さなもの達が群れている。
入り口から見下ろして探したことなどないが、
それらはいつも夢の中で戯れているのだ。
それらは言う。
秋が好ましい。比べて冬は(色が無くて)嫌いだ。
井戸へあざやかな蓋になるような、紅色紅葉の隙間から、
真円の月が映えて見えるのなら、
生尽きるまで、ここが棲家でも構いやしないのだ」
井戸の底に群れているのは、蟲であり、男の魂であり、それと共にある娘の魂ですね。共に永遠の夢の中、紅葉と月を見上げているのであると思うのです。書き上げることが出来て嬉しいです。
さあ、次はなんだーーっ!
10/01/23