紅 天 蓋 クレナイ テンガイ 1
ある山間の小さな里に、蟲師を探すものがあると聞いた。流れ、流れてきた噂で、本当かどうかなど判らなかったが、ギンコは躊躇わず足を向けたのだ。別に理由などあるわけじゃない。ただ、ここしばらくは目的を持って移動したことがなかったから「何か」が欲しかっただけなのかもしれなかった。
『あきよし ふゆいね 井戸蓋は …』
噂とともに流れてきた不思議な言葉を、ギンコはぽつり、と口ずさむ。「秋」良し「冬」嫌ね、という意味だろうか。ここらもそろそろ秋が終わり、雪に包まれる季節が来ようとしていた。
…避けてなんか、ねぇよ。
ギンコは高い空を見上げて思い、すぐに浮かんでくる顔を心で見つめては、唇噛んで項垂れた。
なぁに、たったの半年のことだ。ずっと前、出会ったばかりの頃は、このくらいの間は確かにあった。だから、お前も別に気にしてないだろうし、俺だってそんなに…恋しい、わけじゃないさ。と、顔を歪めながら思って苦笑する。
心は、あまりに正直だ。会いたくて堪らない。きっと心配しているだろう、と、思い続けている本心は、ほんの僅かも薄れていかず、一日、一日と過ぎるごと、想いは募っていくばかりなのだ。
『べにの間さかう 月はゆる …』
あぁ、今日も月がきっと綺麗だ。こんなに冷えてりゃ当然だがな。熱く燗したとっておきの酒を、春先の寒空の下で味わった、いつかの声も言葉も覚えている。
* *** ******** *** *
「なぁ、月が金色だなぁ、ギンコ。酒も美味い。風もいい。寒いのもまた一興だ」
「なんだ、もう酔ったのか、化野」
「あぁ、酔ってる…。でもな、戯言じゃないんだ、聞いてくれ。こうしてお前と久々に会うと、いろんなものが色あざやかで大切に思えて、思い知る。…ギンコ、お前を好きなんだ、とな」
空にかかる月を見たままで呟かれた言葉は、とても冗談には聞こえなかった。唐突に聞かされた想いが、杭のように胸に刺さって、横顔を見ていた目を逸らすのに、胸が痛んでしまう。嫌だったからじゃない、けして。唇が勝手に動く。本心が零れてゆく。止めるすべはなかった。
「あぁ、俺も、らしい…」
何を言ってしまったのか、と、激しい動悸に怯えながら、ただ手元の杯を見下ろしていたギンコの耳に、化野の掠れた声が届く。
「……とうとう、言ったな。この強情ものが。もう待たんぞ」
「あ…、あだし…ッ!」
ぱん…っ、と、銚子の割れる音がした。押し倒されてもがいた足で、蹴ってしまったのだと何処かで思った。転がった銚子が一つ転げて、縁側から庭の踏み石へと落ちたのだ。
お前の、気に入りの、だったのに、などと、遠く思いながら受けた口付けが、熱くて、深くて、居場所も時の感覚も、みんな狂って忘れて…。あんな夜を、初めて体感した。化野があんなに情熱的だったことも、自分も、だったことも、初めて知った。怖いほどに。
それからは、もう、足繁く。駄目だ、駄目だと思いながら、ひとつきも経ってしまえば、見えない力に引きずられるように会いに行く。そしてまた溺れる。すぐに会いたくなるから、それほど遠くへはあまり行かなくなった。
別にそんな、いくたび淫蕩にふけっていたわけじゃない。最初のあの日と比べれば、いっそ清すぎるくらいだ。
けれど、そう…駄目だ、と思いながら、用心を忘れるな、と自身を叱責しながら、それでも会いたくて、我慢できなくて。好きになってしまったからだ、などと、言い訳が、蟲には通用しないと知っていて。
ある日のことだ。一つ布団で寄り添ったまま、熱い体を覚まそうと、少し開けていた障子の隙間から、一匹の蟲が部屋へ入り込んでくるのをギンコは見た。
透き通った、草の露のような、美しい丸い小さな…雫。
さわさわ。と、音がしていた。さわさわさわ、と無数の蟲の蠢く音。音だけじゃなく、気配がしていた、数え切れない、無数の気配。小さな雫の形をした、その名も知らぬ蟲のことを、けれどもギンコは、よく知っていた。子供の頃には頻繁に見た。自分にずっとまとい付いていた時もある。
蟲が、異様に多く生息する場所か、これからそうなる場所にだけ、姿を見せる蟲。
「…ひ……」
「どうした、ギンコ。起きるな、肩が冷えちまうだろう。もっとこっちへ」
抱き寄せられて、ギンコは愚かにも目を逸らした。逸らした目を閉じて、化野の肩に額をつけ、まるで甘えるように彼の背中に腕を回す。化野は嬉しそうにギンコの体を包み込み、額に唇を寄せて髪を撫でた。
「…悪い夢でも見たのか? 俺はそりゃ、甘えられて嬉しいけどな」
髪を撫でてくれながら、化野は知らずにギンコを追い詰めた。
「蟲が寄るから駄目だとか言って、前はあんまり来なかったのに、最近ちょくちょく来てくれるだろう、お前。でも全然大丈夫みたいじゃないか。俺や俺の里のことを心配して、きっと今までは、慎重過ぎたんだなぁ」
返事も出来なかった。ただ、無力に祈っていた。悪夢であってくれ、と、固く目を閉じて…。間近でざわめく蟲の気配は、少しも消えてなくなりはしなかったけれど。
* *** ******** *** *
乾いた枯葉を踏みながら、くだんの里はもうすぐだった。月の灯りが足元で薄れて、明け方がもうすぐなのだと判った。あの日の月にそっくりな、今夜の月も、もう終いだ。女々しい記憶が、あの言葉を、声をまた呼び覚ます。
…ギンコ、お前を好きなんだ。
あぁ、俺だってだ。そう、何度も言っただろう。叫んだだろう。抱かれながら、繰り返し繰り返し、狂ったように思ったよ。理性もすぐに蕩けて訳が判らなくなった。大事なのはお前で、俺の満足や幸せなんかじゃないのに、それも忘れてた。
いっそ、呪われてしまえ、愚かな…俺。
『真黒な闇に 落ちている …』
そうだ、この言葉の言うように、闇に飲まれてしまえたら…。
『夢で たわむるれ …』
いっそ、お前に出会ってからがすべて、ただの幸せな夢だったなら。
枯草を踏んで、項垂れて歩くギンコ。気付けば朽ち掛けた井戸が目の前だった。そうして人影がひとつ、そこに立っているように見えた。声も聞こえた。唄うように、静かな、細い悲しげな、男の声が。
真黒な闇に 落ちている こんまいこまい モノの居た
口から 見下ろし探さねど それらは夢で たわむるれ
秋好し 冬嫌ね 井戸蓋は 紅の間境う 月映ゆる
唄う声が途切れると、男の姿も掻き消されるように消えていた。
続
やっちまいました。いや、前々から書く予定はあったんですけどね。他にいろいろ連載あるから、せめて一つくらい終わってからって思ってたのにーーー。この話は不穏な話です(落命の…ほどではないですー)ので、すいません、ちょっと悲しい出だしで。
でもラストはv と思ってるので、どうか安心して読んでやってくださいませ。これまた蟲設定が難しいので、うんうん唸って書くだろうと思ってます。ふはははは。それもまた楽し!です。
お読みくださりありがとうですっv
09/12/21
