かいなのぬくもり 5
「これ、先生に」
心からの礼を述べ、夫と二人で深く頭を下げ、そうしてカイナは幼い娘を傍らに、化野へ一枚の着物を差し出した。新しい、縫ったばかりのもので、いつも化野が着ているものと似ているが、ずっと上等の布だったし、うっすらと見えるごく細かい柄も上品だった。
「…そうか。なら、ありがたく」
化野は言い、着物を手にとって眺めているのだが、時折その視線が逸れて、隣の部屋にいるギンコへと流れる。
「だが、俺は大して力になぞなれなかったよ」
そう言った化野の言葉にやんわりと首を横に振り、カイナは今度はギンコの方へとこう言った。
「ギンコさんにも、本当に、本当にお世話になりました」
カイナは夫と共に、また深く頭を下げる。床に付くほど下げられた顔を上げると、ギンコに見えた彼女の姿は美しかった。今までの彼女と同じ、柔らかな物腰と微笑みだが、まるで今のカイナは輝くようだ。蟲患いという、長いこと抱えてきた重荷が消えて、とても幸せそうで。
「別に俺は、仕事しただけだし」
化野が彼女を好きで、きっと彼女も化野を好きになるのだと、そう思っていた誤解が解けてから、ギンコは彼女を直視しにくい気持ちでいる。だけれど続けられた言葉を聞いて、思わず顔をそちらへ向けた。
「ギンコさんにも、着物を作らせて頂こうと思ったんですけど、もしあれでしたら、今着ているのと同じものを、一揃え。ちょっとお借りして見せていただけば、作れると思いますから」
「いや、そ…」
「ああ、そりゃぁ、いい! 作ってもらえ、ギンコっ。布を商ってる旦那さんなら、大体似た布も持ってるだろうしなぁ」
断ろうとしたギンコの言葉を遮り、化野は勝手にカイナに頼んでしまっている。そこから化野は変に上機嫌で、すっくと立ち上がり、自分が貰った着物を広げてみたりしていた。頑固に断る理由も見つからず、ギンコは化野を見てちょっと苦笑する。
実のところ、二人きりでいるのが少し、気詰まりだったのだ。化野はずっと自分を見ていて、満足そうに微笑んでいたり、いきなり顔を赤らめてそっぽを向いたりするものだから。
こうして家の中に別の誰かがいれば、化野もギンコばかりを見つめてもいられないだろうし、これを切っ掛けに、もう少し普段の空気に戻ればギンコも楽だ。どきどき、どきどき、どきどき、と、ずっと高鳴っているこの鼓動も、きっと静まってくれるだろうと思う。そこへ更なる客人が訪れた。
「先生、いるかいっ。筍をねぇ」
言いながら庭へと入って来たのは、坂を少し下ったところにある家の女で、ギンコもよく知っている。この家にいつも差し入れを持ってきてくれる気のいいおばさん、といった感じで、これがまたお喋り好き。
「まぁまぁ、珍しく山ほど人がいたもんだ。ギンコさんと、おや? あんた、なんたっけ、カイナって言ったよね。そっちはもしかしてあんたの旦那と子供かい? 独り者じゃなかったんだね。知らなかったよ。それなら里の娘らも焼きもちなんか…いやまぁ、それは今はいいや。それにしても先生、なんだい、いい着物だね。新しいじゃないか、買ったの?」
「いや、これはこのカイナが…。仕立てとか繕いとかも安くするって、娘らに伝えただろう」
「…はぁ、そりゃちっとも聞いてなかったけどさ。ま、娘らの気持ちも判るからねぇ」
謎めいたことを言う、と化野は思ったが、ギンコとカイナはなんとなく判った。余所から一人できて住み着いた若い娘に、あんまり化野が目を掛けるから、娘らはつまり嫉妬していたというのだろう。それじゃあ繕いなど、頼むはずもないし、カイナを避けるのも判る。
頭がいいようでいて、こういう事には抜けていて、今もまだ判っていないふうの化野を、ギンコは少し嬉しい気持ちで見た。女あしらいが上手になってなど、欲しくないに決まっているのだ。
「ねぇ、あたしにも見せておくれよ。あんたいい腕だねぇ。仕立てもきちっとしてて、縫い目もきれい。こりゃ長く着られそうだよ」
そうして彼女はふと思い立ったように、筍の山ほど入った籠を置き、縁側に腰掛けてカイナの方へと身を乗り出した。
「古い着物をさ、小さい子の着物に直すとか、そういうのは出来るのかねぇ。もし出来るんならさ、ちょっと多めに払ったっていいから、あたしの昔の、古い晴れ着を孫が着れるようにしてくれないかね。
ちょうど、あんたのとこの娘さんと、同じ歳のころなんだけど、隣の隣の里に住んでて、滅多に会えやしなくて淋しいから、せめてあたしの着物を…なんて思ったんだけど。どうだい?」
カイナはそれを聞いて、いきなり涙ぐんだ。彼女の今までを知る化野とギンコには、その涙の意味がよく判った。浮かんだ涙を、さっ、と拭って、彼女は嬉しそうに頷き、是非やらせてください、と自分から頭を下げるのだった。
「じゃあ、カイナ、ギンコの服はあとで持っていくから」
化野がそう言うのへ、ギンコは往生際悪く、おい、などと言っていたが、カイナと彼女の夫と娘と、お喋りなおばさんは揃って坂を下りていってしまう。
着物の仕立て直しの仕事が入ったんなら、俺の服など作る暇はないだろうと、ギンコは散々言ったのだけれど、カイナもああ見えて相当頑固だ。断らせては貰えなかった。
「別に俺は服なんか」
「いいから作ってもらえ。お前、蟲を払った分の礼を、俺からもカイナからも受けとらんだろう。だったらそれを仕事の報酬と思っとけ。晴れ着の仕立て直しの後でいいと言っちまったから、どれくらい…かなぁ。五日とか七日とかかな。もっとかな」
うきうきと嬉しそうな声を聞いていて、ようやくギンコは化野が浮かれている理由に思い当たった。
それまで、俺がずっとここにいる、から…?
そうか、そうなのか。
それでこんなに嬉しがっているのか? 化野。
気がつくと胸の、どきどきは、ますます高まるようだった。それに、また化野と二人になっちまったじゃないか。じっとしていると落ち着かなくて、ギンコは突然、ばさりとシャツを脱ぐ。
「うわ…ッ!」
「…何叫んでんだよ」
「い、いや…なんでもない。お前に貸す着物を出してくる」
そう言って化野は隣の部屋へいき、ギンコがその後に付いていくと、振り向いてぎょっとした顔を横へそむける。
「なんで付いてくるんだ、お前っ」
「…さすがに庭から丸見えの場所で、下着だけになるのはな」
「あ、そ、そうか」
化野は着物をギンコへ投げつけると、足も止めずにさっきの部屋へと戻っていく。ギンコはその背中を眺め、その後閉じられた襖の模様を見ながら、やたら複雑な気持ちで、借りた着物の袖に腕を通した。
もう判る。そりゃそうだ。それは今度、と言われた次の告白が何なのか、これで気付かないでいられたら余程の馬鹿か、とんでもなく鈍いかのどちらかだろう。ギンコは溜息をついて、着物の前を掻き合わせ、ほのかに感じ取れる化野の匂いに目を閉じる。
嫌じゃない。
どころか、化野とそういうふうに、と…ずっと望んでたことだ。男が男に欲情するのは、ギンコにとって特に珍しいことではなく、旅の空でどうしても金が要り様ならば、誘われて頷くことだって時にはある。
そうしてギンコは化野を好きなのだから、それは感じて当然の欲求でしかない。見つめられて胸がどきどき言うのと同時に、さっきからあらぬ場所まで熱を上げていて、それで尚更見つめられるのに困惑していた。
待っていようかと思ってたのにな。借りた着物の襟に手を滑らせ、ギンコは口の中で呟く。次にきたときか、それともそのまた次の時かと、じっと待つつもりだったのに、あと五日も七日もここにいて、二人で布団を並べて眠るのかと思うと、胸の奥が焼け焦げるほど、欲しくなる。
「ぬ、脱いだのか? ギンコ」
「あぁ」
「じゃあ渡せ。すぐカイナのとこに言ってくる。合う布がなけりゃ旦那が調達に出るそうだから、早めに渡した方がいいだろう」
言いながら、少しだけ開いた襖の向こうから、紺色の着物の片手がにゅっと出る。間があんまり細いから、化野の臂の辺りまで袖がずれていた。ギンコは自分の服をまとめて差し出し、偶然っぽく化野の手首の辺りに触れてみる。
ガタ、と襖の音を立てて、どこかぶつけながら化野の腕が引っ込められ、開いたままの隙間から、庭へと飛ぶように降り、道へと走って行く姿が見えて、ギンコはまた少し笑った。
おいおい、男らしいんじゃなかったのか。あんなにいきなり好きだと告白し、その後は何も望まないとまで言ったのに、また随分、本当に随分と可愛いじゃないか。ギンコは床に脚を投げ出して、柱を背にして寄りかかる。
秘めていた気持ちを打ち明けてもいいのだと、カイナを見て化野は思ったが、そんな化野を見ていると、ギンコの胸にある願いも零れてしまう。いいのか? ギンコは自分へとそう問い掛け、いいよな、とすぐに思った。
空を横切る太陽が、まだ随分と高いところにあって、ギンコは縁側へと足を下ろし、一人でそれを見上げるのだった。
早く夜に、なればいい。
続
完結済とか言いながら、「5」を書いて、さらに続いてしまいました。はっきりしなくてごめんなさい。某祭♪のお陰さまでなんか化野がすんごく可愛いっ。ギンコがちょっと男前? そんなこともあらぁね、で済ませてしまう私でした。つーことで「かいなのぬくもり 5 」お届けです。
この続きは、ペース遅くなると思うけど、どうかゆっくり待っててやって下さいね。
08/04/22
