かいなのぬくもり   2



「…いいえ……」

 と、女はやんわりと笑う。それを見てギンコは、彼女の手元の布へと視線を落とした。小さな端切れを幾つも上手に張り合わせた、赤い布。奥の部屋の隅にある、小さな布の袋と同じ柄だ。だからそれも彼女のもの。

「あ…そ、か。そうそうっ、一つ頼まれものを持ってきたんだった。袖付けのほつれた着物でな、これ」

 無理に声を励まして、化野はさっきの着物をカイナへと差し出す。彼女は少し、困ったような顔をして、それでも丁寧な手付きで左手を差し出して受け取ると、小首を傾げて化野の顔を見て

「これくらいなら、すぐですから。えぇ…直しの代金など頂けません」
 
 物言いたげな彼女の顔を見ただけで、ギンコにも判る。化野にも判った。仕事の無い彼女の為に、わざわざ自分の着物を破いて持ってきたのだと、すっかりばれてしまっている。

「…そうか? そりゃ…助かるよ…うん。じゃあ…また」

 がっくりと落胆した化野は、すぐにも彼女の傍から立って、外へと出て行ってしまうのだ。相談ごとはどうなったのか、と、思わないでもなかったが、ギンコは黙って化野の背中を追いかける。

 知られずに見つめる背中は、今日は酷く淋しげで、それがあの女の事を思うからだと、ギンコには判ってしまうのだ。

 ずっとこうして少し離れて歩いて、或いは離れて傍に居て、今までもそう、これからも、そう。近付かないだけなのは我慢できたが、遠ざかるのは嫌だった。だけれども、もうそれも覚悟の時期なのか。

視線の先で、不意に化野が立ち止まって言った。

「…あ! しまった。ギンコが折角来たのに、蟲のことを聞くのを忘れた。実はなギンコ、カイナの体には蟲が付いてるらしいんだ」
「なるほど、それで、俺を待ってた、か。でも…そんな急ぐこともないんだろ。だったら今日じゃなくてもいいだろう。疲れてるから、早く眠りたい」
「じゃあ、明日」

 それにまで首を横に振られず、ギンコは嫌々頷いた。仕事だと割り切るがいいのだろうが、それも出来ない。カイナの横に寄り添う化野を、見るのが嫌で、そう思う気持ちも忌々しくて。明日が来るのも切なかった。


 *** *** ***


 海から日が昇るのを、ギンコは化野の家の縁側から見ていた。開けた雨戸の隙間から身を滑り出させ、手にしている靴を履く。化野の方こそ疲れているのか、一向目を覚ます様子がなく、そのままギンコは道を行った。

 少し歩いて隣家へと着き、そこでギンコは、やっと自分の愚かに気付く。海で働く女なら、今頃はもう海原の上だろう。けれども家で仕事する女なら? 夫や子と暮す訳でもない彼女が、今この時刻に起きているとは思いにくい。

 出来るのなら、彼女の傍らに添う化野を、見たくないと思っただけだった。それが叶わぬならと足を止め、来た道を引き返そうかと思ったが、ふとギンコが目をやった、古びた狭い縁側に、昨日と同じくカイナは座っているのだ。

 そうして彼女は、誰かが見ていると気付かずに、少しだけ右の袖をまくり、形の歪んだその腕を撫でさする。醜い、というものもあるだろう。移る病なのじゃないかと、疑われたことも恐らくは。

 けれど彼女は微笑みの中に淡い諦めの色を漂わせ、酷く静かなたたずまいでいる。そうして昨日縫っていたのと同じ、赤い布を物入れから取り出して、小さい端切れを縫い合わせていた。

 と、その時、視線に気付いたのか、彼女はふい、と顔を上げて、ギンコと目が合うと、やんわりと会釈。吊られてギンコも会釈して、そのまま彼は垣根の切れ目を通って入って行く。

「お前さんのその…」
「えぇ、私のこの、右の腕のことでしょう。でもこれは、蟲師、さんでも、きっと治せない。今までだって散々…。それにこの腕には蟲が、寄るんですよ。だから私、一年とはここに居られない。先生にはよくして頂いたのに、恩も返せずに去るかと思うと、申し訳なく思います」

 背負いで蟲師と判ったか。柔らかくだがきっぱりと、彼女はそう言い切り、また袖の上から右腕をさすった。

 そうして、いいんです、と、彼女は言うのだ。長年連れ添った人と同じに、この腕ももう、このままで私の一部だから、と。

 するりと腕が下されるとき、色まで変わった彼女の指先が、ギンコの目に触れた。微かに目を見開くが、ただ、邪魔をしたな、と言い置いて、ギンコはカイナに背中を向ける。

 原因となった蟲は、ちらりと見ただけで判ってしまった。確かに珍しい蟲で、治せぬ蟲師も多いだろうが、ギンコは前に一度文献で読んで、払い方を知っている。そのために薬にする品も携えている。

 なのに、治せるとは言わず、寧ろ治せないような顔をして、ギンコは彼女に背を向けたのだ。

 綺麗な女。物腰も柔らかく優しげで、芯もしっかりしていて。蟲などついていなくて、ちゃんと五体満足なら、男は誰でもあんな女を娶りたいと思うだろう。腕が治れば、きっと、もっと綺麗に違いない。蟲を寄せるのは、腕についている蟲のせいだから、あれさえ払えば、何事も良くなる。

 この里に住んで、里に一人の医家に嫁ぎ、その傍らに生涯寄り添い、夫を支えて。

 ギンコは立ち止まり、項垂れて自分の足元を見つめた。告げられぬ恋を抱いた時から、成就など一度も考えたことはなく、会うたびの優しい時間だけで満足だった筈なのに、本当はこんなにも貪欲で、彼を自分ひとりのものにしたい。

 女の腕を治す方法を、何故自分は知っているのだろう。今、背中の木箱に、その蟲を払う品が、何故入っているのだろう。知らないことにすればいい。持っていないと思えばいい、そうすれば女はいずれ居なくなる。

 化野との距離が縮まらなくとも、その距離が離れることもなく。

「ギンコっ」

 びくり、とギンコは顔を上げて、駆け寄ってくる化野の姿を見た。化野は言い難そうに少し笑って、彼に言った。

「その…なぁ、お前、なんか繕ってもらいたい傷んだ服とか無いか」
「…ないね」
「だよなぁ、なんか携えて行かんと、どうも寄り難くてな」
 
 若い女一人の家だし、医者の用も特にないとなると。と、そう続ける化野に見えないように、歪んだ笑いをギンコは隠した。

「こんな早朝から行く気か? 気を引きたいのも、休み休みにしないと、嫌われちまうぞ、化野先生」
「茶化すなと言ってるだろう。そうじゃないぞ。彼女についてる蟲のことを、お前と一緒に聞きにいきたいんだが、そのことになると、あんまり喋ってくれないから」

 そのことなら、さっき行って聞いた。そう、言わねばならないものを、唇が強張って声が出ない。その替わりに、もっと言いたくない筈の言葉が零れて、ギンコ自身の胸をえぐった。

「好いた、んだろう、化野。だからああして気をひいて、色よいようなら、近々言うつもりで」

 だが、その言葉を聞いた化野の反応は、想像とは真逆と言えるほど違っている。
 
「…なにが…? あ…、おい、なんか誤解してないか」

 歩いているギンコの腕を掴み、化野は強引に彼を立ち止まらせた。ギンコは腕を振り払い、項垂れて速足に道を進んだ。

 このまま旅へと戻ってしまいたい。逃げて、逃げてしまえば、こんな辛さもすぐに忘れる。一人で行く旅は、易くはないから、どうしようもない一つのことに、囚われている暇などない。だから、忘れるんだ。忘れられる、こんなちっぽけな里の、一人の医家のことなんか。

「ギンコ、行くなッ。ギンコ…っ!」

 何かを感じたのだろうか。化野は声を荒立てて彼を呼びとめ、駆け寄ってまた腕を掴んだ。

「待てって。俺は彼女のことを、別にそんなふうに」
「腕の蟲なら払えるぞ。…簡単だ」

 振り向くなりギンコはそう言った。彼の怒ったような顔に気付いているのかいないのか、化野は心底喜んだ顔をして、いきなりギンコの手を掴んで引っ張った。初めて握る手のひらの、そのあたたかな感触は、ギンコを泣きたい気持ちにさせた。

 引導を渡すのだ。自分自身に。望みの無い想いに。

 好いてないなど偽りで、ほら、こんなにも喜ぶだろうが。蟲を払えれば、カイナがこの里から出て行く必要はない。腕が治って化野が娶れば、里のものも、徐々に彼女を受け入れるだろう。あんなに気立てのいい女だ。きっと働き者で、人付き合いもうまくて。そう…何一つ問題がない。

 俺とは大違いだ。胡散臭い生業で、白い髪で緑の目でしかも片目。女じゃないから添って暮らすもの変だろう。そもそもここに居つくことも出来ず、子すら生せない。

 …あだしの……あだ…しの…

 聞こえないように、息だけの声で何度も名を呼んで、ギンコはカイナの家までの、ほんの短い道のりを、化野に引かれて歩いているのだった。泣きたい思いを隠しながら。

 
                                    続














 ごめんなさいっっっ。先に謝る私。オリキャラ…あんまり出張ってる話って、よくないよね…って、私は思ってるんだけど、リクエストくださった方がどう思うか、とても心配です。しかも、どう見ても次では終わらないっ。

 最近、前以上に短い話がかけなくなっとりますね…。ううぅぅ。こんなのプレゼントするなんてっ。でもでも、返品可ですけど、同じテーマで別のは書けないので、ごめんなさいっっっなのです。ぺこ←凹む音。

 カイナがいてこそのギンコの葛藤であり嫉妬なので、どうかこの話で…この話で勘弁して下さい。涙。


08/04/04