かいなのぬくもり 1
往診の帰り道、化野は峠を越えてすぐ傍の、地蔵の前に人影を見た。道の端にある石に腰を下ろしているのは、旅装束の若い女。女はぼぅ、として何も無い空間を眺め、遠目で見間違いでなくば、ほんのり微笑んでいるようにみえる。
それでも、どこか体が傾いで見えるのが気になって。
「不躾で申し訳ないが、もしや怪我でも…?」
傍まで言って話しかけるも、女は暫しぼんやりとしていて、傍に化野が来たのに気付いていないようだった。と、その膝の上の風呂敷から、ころりと何かが化野の足元に転げる。
赤くて可愛らしい布に包まれた竹筒。拾い上げて差し出せば、やっと女は化野を見て、今気付いたように目を見開き、それから彼の持っている自分の竹筒に気が付いた。
「あら、私のによく似て…」
「いや、そうでなく、お前さんのだよ、たった今、その風呂敷の中から転がったんだ」
おっとりとしたその様子に、思わず自分も微笑みながら、化野は彼女が左手で荷物を支えているのに気付き、右手の方へと竹筒を差し出す。あ、というような顔をして、女は荷物から手を離し、左の手で竹筒を。
途端に膝から風呂敷が落ちて、ぱさり、と軽そうな音がした。体を前へと傾けて、落ちたものを拾う女の、その右手は殆どというほど動いていなくて、しかも着物の上から判るほどに、腕の形が歪んでいるのだ。
「あぁ…。気付かなかった。すまない」
「いいえ、これも、もう長年連れ添った自分の腕ですもの」
やんわりと笑う女の顔が、美しくて、そして優しい。
「俺がどう出来るとも言えないが、よければ少し、診せてはもらえまいか。何、この里の医家をしている身だから、出来ることの少しでもあれば」
女はさらに優しく笑い、軽く項垂れて首を何度か横に振る。
「ここに蟲の、いるせいですから。普通の人のお医者様では…何も」
「蟲、とは、あの蟲か…?!」
女との出会いは、そんなだった。いつも通りならば、ギンコがくるまであと少なくとも二ヶ月。確証はないのでそれは言えず、それでも化野は自分の家への滞在を願い出た。
女は驚いた顔をし、それからまた淡く笑って、カイナという名前を名乗るのだ。そうして、古くて小さな空き家がありませんか、と淋しげな顔で言うのだった。
*** *** ***
いつもならば、この季節はあまりここには来ない。ギンコがここでは始めてみる野草の花を、道端に眺めながら、化野の家を目指していた。遠くの畦道を、若い女が五人もさざめき合いながら歩いていくのが見える。
あの道の先は、自分が歩いている道と合流する。つまりは化野の家へいく道なのだ。足を止めて、ギンコは背負いの中から蟲煙草を取り出して、座る石も何もないところで、じっと立ったまま、一本を吸い終える。
この里に、あんなに若い娘がいたのかと、ギンコは思っていた。娘御らは大抵、早朝に浜で働いていて、浜仕事を終えて里へと戻れば、家の中の仕事をすることが多いのかもしれない。
繕いとか、飯の支度とか、家族がいるのなら、夫の世話、子供の世話など、ある意味、女は男よりも忙しい。それにも関わらず、こんな昼日中から化野の家へ集まる意味を、なんなのだろう、とギンコは思う。
煙草を吸い終えて、そののち何もせずに、じっと空など見上げいて、ギンコはそれから重い足を前へと進めた。
「だからな? 繕いとか、誰かに安くやって貰えるんなら、助かるとか、そうは思ってくれんのか」
化野はもう随分と、この話題で女達を引き止めている。女達は笑いさざめき、のらりくらりと問いをかわすのだ。
滅多に飲めない上等の茶を飲めるのも嬉しい。年の近い女同士、一つの場所でゆっくり話せるのも嬉しい。何より、医家で男ぶりもよくて、いつも優しい物腰の化野が、自分らを引き止めていることに気持ちも浮つく。
「野良仕事やらなんやらで、ほつれた縫い目に、破れ目に、擦り切れた膝なんぞ、うまくなおして貰えるなら、お前たちだって助かるだろう。そりゃ自分でやれるのは判るが、忙しく一日外で駆け回る時期だと、そういう時間もなくなりゃせんか」
先月からこの里の空き家を借りて住んでいる、余所から来た女が、何とか繕いの仕事が欲しいと困っているから、助けて欲しいのだと化野は言っている。
だけれど里の者は、まだまだ余所者にはすぐに心を開かず、空き家だったその家の傍に、近寄ることもしないのだ。
「せんせ、そんなことなら、せんせの繕い、あたし外の仕事を投げてでもしてあげたい」
一人がそう言うと、隣の一人も声を上げる。
「繕いどころか、私だったら、着物一枚縫ってあげよか。先生、いつも同じの着てるし」
「…ああ、そうじゃなく。そうじゃないんだ、お前たち。俺はなんとか助けて欲しいと……」
「上がらしてもらったよ」
勢いよく顔を上げると、期待通り、部屋の入り口にギンコが立っている。顔を輝かせ、ギンコ…っ、と名を呼びかけるが、こんなに里のものに囲まれている今、いつも通りに、あんまり幸せそうな顔しちまうのも。
「ギン…っ、あ…、よ、よく来たな。疲れてるだろう、その…」
「忙しいとこ、悪いね」
女達は、ギンコのことならもうよく知っているから、嫌な顔などしない。そんなふうに、カイナのことも受け入れて貰いたくて化野は焦る。
「だから、な、このギンコだって余所からきたのに、お前たち、今じゃそんなに普通にしてるじゃないか。だったらカイナのことも…っ」
「先生、そろそろ私ら帰らなくちゃ」
「お茶、とっても美味しかった。ごちそうさま」
「うちの子もむずがってるかも知れないし」
夕飯の支度もしなきゃあ、と、そんなことを言いながら、女達は帰っていく。深々と溜息付いて、化野は額に手を置いて項垂れる。
「なんでそう、この里のものらは…」
「…ま、そう簡単に変われんさ」
ギンコは慰めるように言うけれど、何故か部屋の隅の方に座って、木箱を開けた中身を整理している。化野の方を、彼は見ないのだ。
「ギンコ、本当によく来てくれたな。実は相談ごともあって、今日か明日かと待ってたんだよ」
そのカイナという娘の為にか?と、ギンコは胸の奥で思ったが口には出さない。医者なのだから、誰かの事をそんなに思っているのは、きっと医家である彼の仕事の領域なのだ。
仕事熱心な化野を、良く思う気持ちはいつもあるのに、それが今日は何故だか真っ直ぐな気持ちをもてなかった。
「…それにしても、もててるな、センセ」
「茶化すな。彼女らは仕事の手ぇ休めて、ここで皆で集まれたのが嬉しいんだよ。…カイナも同じ年頃なんだから、それに混ぜてくれりゃあなぁ」
話がいい方向に進んだら、ここにカイナを呼ぶつもりだった。そうすればきっと、彼女の仕事の話もうまく伝わっただろうし、いつも何処か淋しげにしているカイナを、力付けられると思ったものを。
「それにしても、なんでそうこの里のものらは」
「二度目だぞ。だからそう急いても、里人はすぐには変わらんよ」
で、相談ごとってのは?と、ギンコは話を変える。話の方向をそうして変えても、きっとその娘のことなのだろう、と気が重く。そうして蟲に関わる、自分の仕事の話をも嫌がっている心の狭さに嫌気がさした。
「じゃあ来てくれ、すぐ傍の、空き家だった家に…。あ、ちょっ。ちょっと待って貰えるか?」
片膝を立てて立ち上がろうとした恰好で、ギンコは奥の部屋へと立つ化野の背中を眺めた。化野は隣室へ入って行き、片隅にある物入れから、普段は着ない着物を引っ張り出している。
そうしてギンコからも隠そうと体を小さく丸めて、自分の胸の下で、着物の袖付けを裂いているのだ。見えてしまって、それでも何も言えず、ギンコは自分を案内する彼の後についていった。
玄関の戸など、斜めに傾いだ、小さくて粗末な家。
その家の縁側で、女は日の当たる場所に座り、古びた布を手にしていた。家の玄関戸と同じに、彼女は体を傾かせ、目の前の木の台の上に、右臂で布を押さえている。そうして左手で器用に、布と布を縫い合わせていた。
「カイナ、それ、里のもんから頼まれた繕いか…?」
彼女を目にするなり化野は、勢い込んでそう言った。嬉しげな彼の声が、チクリチクリと、針のようにギンコの胸を刺した。辛かった。綺麗な娘だと、心底そう思ったのだ。化野が彼女の傍らに座ったのを見て、胸の痛みは、針のそれから刃物のそれへと変わった。
来るんじゃなかった、と、ギンコは苦く思うのだった。
続
二作目(いや、三作目?)の女性絡み話でございます。実は惑い星、女の人を書くのが、ちょっと…いやかなり苦手なのですよ。だけど淡幽さんのことは好きなので、きっと自分が、魅力的な女性を書けないだけなのだろうかな、とね。
そんな私が、頑張ってみるチャンスが与えられました! 十万ヒットのキリ番リクエストを下さった音無さま、ありがとうございます。遅くなりましたが書き始めましたですっ。
リクエストノベルだというのに、またしても少し長くなりそうな予感あり! 三話か四話か…。本当にすみませんっ。でもほんのちょっとでも気に入っていただける話を目指して、頑張りますので〜っ。
というわけで、またしても連載です。「かいなのぬくもり」は漢字にすると「腕の温もり」。一気にアップできなくてそれもゴメンナサイー。
08/04/02
